第百三十四章 長篠の戦い③――鳶ヶ巣山の攻防
第百三十四章 長篠の戦い③――鳶ヶ巣山の攻防
天正三年五月。
三河国、鳶ヶ巣山。
夜明けまで、あと一刻ほど。
山の斜面を、二千余の兵が登っていた。
率いるのは徳川家重臣、酒井忠次。
目指すのは、武田軍が長篠城の背後に築いた鳶ヶ巣山の砦だった。
そこを落とせば、長篠城を取り囲む武田軍の一角が崩れる。
城への道も開ける。
しかし、忠次の表情は険しかった。
出発前に聞いた銃声。
徳川家康の軍勢が武田の伏兵と交戦したという報せ。
そして、途中で追いついてきた伝令が告げた言葉。
『家康様、重傷』
忠次は、その言葉を聞いても引き返さなかった。
家康が自ら兵を動かしたのは、鳶ヶ巣山への奇襲を成功させるためだった。
ならば、ここで退くことはできない。
「殿」
家臣が近づいた。
「前方に敵の見張りがおります」
忠次は足を止めた。
「何人だ」
「三人。尾根の上にございます」
「気づかれたか」
「まだかと」
忠次は山の上を見た。
木々の間から、かすかな火の光が見える。
武田の見張りが焚き火をしているのだろう。
だが、その火は一つではなかった。
尾根の奥にも、別の明かりが見えた。
「……備えておるな」
忠次は呟いた。
武田勝頼は、織田・徳川が山道を使う可能性を警戒していた。
山県昌景の奇襲が失敗した以上、武田もまた背後を狙われる危険を理解している。
史実のように、無防備な砦を急襲できるとは限らなかった。
「先鋒を三つに分けよ」
忠次は命じた。
「中央は儂が率いる。左右は尾根を回り、敵の逃げ道を塞げ」
「はっ」
「ただし、合図があるまで攻めるな」
忠次は刀の柄に手を置いた。
「一度で決める」
◆
鳶ヶ巣山の砦。
武田方の守将、河窪信実は、夜明け前の山を見つめていた。
勝頼からは、織田・徳川の奇襲に備えるよう命じられていた。
そのため、砦の周囲には見張りを増やし、山道にも障害物を置いている。
だが、すべての斜面を守ることはできない。
鳶ヶ巣山は、一つの砦だけで成り立っているわけではなかった。
周囲には小さな砦や見張り場が点在し、それぞれが連絡を取り合っている。
その一つでも破られれば、敵が背後へ回り込む可能性がある。
「殿」
家臣が駆け込んだ。
「西の尾根で、物音がございます」
「獣ではないのか」
「人の足音と思われます」
信実は立ち上がった。
「兵を起こせ」
「はっ」
「鉄砲隊を柵の後ろへ置け。弓兵は左右の斜面だ」
家臣が走り去る。
信実は兜をかぶった。
「来たか、徳川」
その声に、恐れはなかった。
ただ、覚悟があった。
◆
夜明け。
酒井忠次は、尾根の下で兵を待機させていた。
山の上から、武田方の声が聞こえる。
「敵だ!」
続いて、銃声。
徳川方の先鋒が一人、斜面を転がり落ちた。
「気づかれたか!」
忠次は叫んだ。
「進め!」
徳川兵が一斉に斜面を登り始めた。
武田方の鉄砲が火を噴く。
弾が木の幹を削り、土を跳ね上げる。
徳川兵が倒れた。
だが、後続は止まらない。
斜面には倒木が横たわり、ところどころに岩が露出していた。
兵たちは木の根を掴み、足場を探しながら登る。
武田方は、その上から石を落とした。
「石だ!」
大きな石が斜面を転がる。
徳川兵の一人が避けきれず、脚を砕かれた。
悲鳴が上がる。
忠次は歯を食いしばった。
「盾を上げろ! 止まるな!」
徳川兵が木盾を頭上へ掲げる。
しかし、急な斜面では盾を持つだけでも動きが鈍る。
武田方の槍兵が柵の向こうから突き出した。
徳川兵が胸を貫かれ、倒れる。
その隣で、別の兵が槍の柄を掴んだ。
「今だ!」
後ろの徳川兵が飛び込む。
刀が振り下ろされ、武田兵の腕を斬った。
柵の一角で、激しい乱戦が始まった。
◆
忠次は、中央の攻撃が止められているのを見ていた。
武田方は強い。
柵の後ろに兵を置き、斜面を登る敵を確実に迎え撃っている。
正面から押し切ろうとすれば、損害が増えるばかりだった。
「左右はどうした!」
伝令が答えた。
「左の部隊は、まだ尾根を回っております!」
「右は!」
「沢を越えたところにございます!」
忠次は頷いた。
「よし」
そして、中央の兵へ命じた。
「一度下がれ!」
家臣が驚いた。
「退くのですか!」
「下がって、敵を引きつける!」
徳川兵が少しずつ斜面を下がる。
武田方の兵たちが歓声を上げた。
「徳川が退くぞ!」
だが、河窪信実は追撃を命じなかった。
「追うな!」
家臣が顔を上げる。
「しかし、敵が!」
「柵を離れるな!」
信実は叫んだ。
「敵は、我らを外へ誘っておる!」
忠次は、敵が動かないのを見て舌打ちした。
「読まれたか」
だが、その時。
砦の右側から、突然、銃声が響いた。
徳川方の別働隊が、沢を越えて側面へ現れたのだ。
「右から敵!」
武田方の兵が叫ぶ。
信実は振り向いた。
「右へ兵を回せ!」
だが、同時に左側からも鬨の声が上がった。
「徳川勢、かかれ!」
左右の尾根から、徳川兵が現れた。
信実は、ようやく敵の狙いを理解した。
中央の攻撃は、砦の兵を正面へ引きつけるためのものだった。
本命は左右。
しかし、信実もすぐに動いた。
「中央の兵を半分、左右へ回せ!」
武田兵が走る。
だが、砦の中は狭い。
柵と小屋の間を兵が行き交い、隊列が乱れ始めた。
忠次は、その瞬間を逃さなかった。
「今だ!」
刀を抜く。
「全軍、押し上がれ!」
徳川兵が再び斜面を駆け上がった。
◆
砦の中央。
徳川兵が柵へ取りついた。
槍で柵を押し、斧で木を叩く。
武田方は必死に抵抗した。
「通すな!」
槍が突き出される。
徳川兵が倒れる。
だが、後続が柵を揺らした。
木が軋む。
そして、一本の柱が折れた。
「破れたぞ!」
徳川兵が叫ぶ。
柵の隙間から、数人が飛び込んだ。
武田兵が迎え撃つ。
刀と槍がぶつかった。
狭い砦の中では、長槍を振るう余裕がない。
互いに短く持ち、突き合う。
一人の徳川兵が武田兵の槍を掴んだ。
そのまま相手を引き寄せ、刀を突き立てる。
武田兵が倒れた。
しかし、別の武田兵が横から槍を突き出した。
徳川兵の脇腹を貫く。
血が地面を染めた。
忠次は、その乱戦の中へ踏み込んだ。
「押せ!」
忠次の刀が閃いた。
武田兵の槍を払い、肩口へ斬り込む。
相手が倒れる。
忠次は止まらなかった。
「砦の奥へ進め!」
徳川兵が続く。
武田方は、徐々に後退した。
だが、河窪信実は逃げなかった。
信実は、最後の兵を集めた。
「ここを失えば、長篠の包囲が崩れる!」
家臣たちが槍を構える。
「殿!」
「儂に続け!」
信実は刀を抜き、徳川勢へ突進した。
忠次が迎え撃つ。
二人の武将が、砦の中央で向かい合った。
「酒井忠次か!」
信実が叫ぶ。
「河窪信実殿とお見受けする!」
忠次が答えた。
「ここは通さぬ!」
信実が斬りかかる。
忠次は刀で受け止めた。
刃がぶつかり、火花が散る。
信実はさらに踏み込んだ。
忠次の肩を狙う。
忠次は身を捻り、刀をかわした。
そして、相手の腕へ斬りつける。
信実の左腕から血が流れた。
だが、信実は止まらない。
「まだだ!」
信実が再び刀を振り上げた。
その瞬間、横から徳川兵の槍が突き出された。
槍先が信実の胸を貫いた。
信実は目を見開いた。
刀が手から落ちる。
そして、ゆっくりと膝をついた。
「……勝頼様……」
その言葉を最後に、信実は倒れた。
河窪信実、討死。
鳶ヶ巣山の砦は、ついに徳川勢の手に落ちた。
◆
長篠城。
奥平貞昌は、鳶ヶ巣山の方角から聞こえる銃声を聞いていた。
「何事だ!」
家臣が物見櫓から叫ぶ。
「鳶ヶ巣山で戦が起きております!」
貞昌は顔を上げた。
「徳川の援軍か!」
「分かりませぬ!」
だが、しばらくすると、山の上に旗が現れた。
徳川の旗だった。
「徳川だ!」
城兵たちが歓声を上げる。
「援軍が来たぞ!」
貞昌は、思わず拳を握った。
「忠次殿か……!」
しかし、喜びは長く続かなかった。
別の家臣が駆け込んできた。
「殿!」
「何だ!」
「家康様が、武田の伏兵に襲われ、重傷を負われたとのこと!」
貞昌は、言葉を失った。
「……何だと」
家臣は震える声で続けた。
「命は取り留められたようですが、左脚をひどく負傷されたと……」
貞昌は、しばらく動けなかった。
自分たちを救うために、家康が傷ついた。
その事実が、胸へ重くのしかかった。
「……家康様」
貞昌は、深く頭を下げた。
そして、城兵たちへ命じた。
「門を開く支度をせよ!」
家臣が顔を上げる。
「出撃するのですか」
「そうだ!」
貞昌は刀を抜いた。
「徳川の援軍が来たのだ! 我らも戦わねばならぬ!」
長篠城の門が、ゆっくりと開かれた。
◆
武田本陣。
鳶ヶ巣山の砦が落ちたという報せが届いた。
勝頼は、しばらく黙っていた。
「河窪信実が討たれたか」
「はっ」
伝令が頭を下げる。
「徳川勢が砦を奪い、長篠城との連絡を取り始めております」
勝頼は地図を見た。
鳶ヶ巣山を失えば、長篠城の包囲は維持しにくい。
しかも、織田・徳川連合軍は設楽原に健在だった。
山県昌景が進み出た。
「殿。ここは一度、兵を退くべきかと」
馬場信春も頷いた。
「長篠を攻め続ければ、背後を突かれます」
勝頼は、しばらく地図を見つめていた。
そして、静かに言った。
「家康は倒した」
昌景が顔を上げる。
「はい」
「だが、長篠は落とせなかった」
信春が頷く。
「その通りにございます」
勝頼は、拳を握った。
「ならば、ここで兵を失う必要はない」
昌景は安堵した。
しかし、勝頼は続けた。
「ただし、退く前に一つ、やることがある」
信春が尋ねた。
「何をなさいます」
勝頼は設楽原を指した。
「信長に、こちらが退くと見せる」
昌景の目が細くなった。
「追撃を誘うのですか」
「そうだ」
勝頼は笑った。
「信長は、儂が退けば追うだろう」
信春は少し考えた。
「しかし、信長は慎重です」
「分かっておる」
勝頼は頷いた。
「だから、追いたくなる理由を作る」
そして、命じた。
「兵糧の一部を残せ。旗も数本、捨てていけ」
昌景が顔を上げた。
「敗走に見せるのですな」
「そうだ」
勝頼は静かに言った。
「織田に、武田が崩れたと思わせる」
◆
設楽原、織田本陣。
信長は、鳶ヶ巣山陥落の報告を聞いていた。
「酒井忠次が、砦を落としました」
丹羽長秀が報告した。
「長篠城との連絡も回復しつつあります」
信長は頷いた。
「よくやった」
宗一郎も、安堵の息を吐いた。
これで、長篠城は救われる。
しかし、武田軍はまだ健在だった。
その時、伝令が駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何だ」
「武田軍が、陣を引き払い始めました!」
信長の目が細くなった。
「退くか」
「はっ。兵糧や旗を残し、東へ向かっております!」
諸将の間に、ざわめきが広がった。
「勝頼が逃げるぞ!」
「追撃すべきだ!」
だが、信長は動かなかった。
宗一郎も、地図を見ていた。
半兵衛が静かに言った。
「妙ですな」
宗一郎は頷いた。
「はい」
武田勝頼は、山県昌景の奇襲失敗後も冷静だった。
徳川家康を負傷させた後も、無理な追撃をしなかった。
鳶ヶ巣山を失ったからといって、突然、兵糧や旗を捨てて逃げるだろうか。
信長は、宗一郎を見た。
「どう思う」
宗一郎は答えた。
「罠の可能性があります」
信長は頷いた。
「儂もそう思う」
半兵衛が地図を指した。
「武田が退く道は、山に挟まれております。追えば、こちらの隊列が伸びます」
信長は静かに笑った。
「勝頼め。儂を誘っておるな」
そして、諸将へ命じた。
「追うな」
その言葉に、家臣たちが驚いた。
「しかし、殿!」
「追えば、勝頼の思う壺だ」
信長は地図を見た。
「武田が退くなら、退かせよ」
宗一郎は頷いた。
信長は続けた。
「長篠は救った。家康も生きておる。これ以上、無理に戦う必要はない」
その判断は、史実とは異なるものだった。
織田・徳川連合軍は、武田軍を壊滅させなかった。
武田勝頼も、主力を失わずに退くことになる。
しかし、その代償として、徳川家康は生涯にわたる傷を負った。
◆
夜。
武田軍は、整然と東へ退いていた。
勝頼は、馬上から西の空を見た。
「信長は追わぬか」
山県昌景が答えた。
「そのようです」
勝頼は、少し笑った。
「やはり、簡単には乗らぬな」
馬場信春が言った。
「しかし、殿。家康を倒したことは、大きな戦果にございます」
勝頼は頷いた。
「そうだ」
そして、静かに続けた。
「だが、織田はまだ強い」
昌景が顔を上げる。
「はい」
「信長と高槻がいる限り、正面から勝つのは容易ではない」
勝頼は、遠くの山を見た。
「次は、もっと大きな戦になる」
◆
織田本陣。
宗一郎は、半兵衛とともに夜空を見上げていた。
「半兵衛殿」
「はい」
「長篠は、史実とはまったく違う戦いになりました」
「そうでしょうな」
「武田は主力を失わず、家康殿は重傷を負った」
半兵衛は頷いた。
「そして、信長様は無理に追わなかった」
宗一郎は、しばらく黙っていた。
史実では、長篠の戦いによって武田家は多くの重臣を失い、勢力を大きく衰えさせた。
しかし、この世界では違う。
山県昌景も、馬場信春も、内藤昌豊も生きている。
武田勝頼は、なお強大な軍勢を保っていた。
そして、徳川家康は左脚に重傷を負い、今後の人生を大きく変えられることになる。
宗一郎は、静かに息を吐いた。
「これからの戦国は、私の知っている歴史ではありません」
半兵衛は、宗一郎を見た。
「ならば、これからの歴史を作るだけです」
宗一郎は頷いた。
長篠の戦いは、終わった。
だが、武田勝頼は健在。
徳川家康は重傷。
織田信長は、なお天下統一への道を進んでいる。
そして、その裏側では、十二使徒が次の策を練っていた。
歴史は、さらに大きく動こうとしていた。




