第百三十三章 長篠の戦い②――徳川家康、倒れる
第百三十三章 長篠の戦い②――徳川家康、倒れる
天正三年五月。
三河国、長篠城。
武田勝頼からの使者が、城門の前に立っていた。
「奥平貞昌殿に申し伝える!」
使者の声が、城壁に響く。
「武田家へ帰参するならば、城兵の命は保証する! 拒むならば、明朝より総攻撃を開始する!」
城壁の上で、奥平貞昌は黙って聞いていた。
傍らの家臣が尋ねた。
「いかがいたしますか」
「返答は決まっておる」
貞昌は城門の下へ向かって叫んだ。
「我らは徳川家の家臣である! 今さら武田へ帰るつもりはない!」
使者は顔をしかめた。
「その言葉、後悔するぞ!」
「後悔するかどうかは、明日になれば分かる!」
使者が引き返していく。
貞昌は、その背中を見送りながら息を吐いた。
長篠城には、およそ五百の兵しかいない。
城は豊川と宇連川の合流点に位置し、二つの川が天然の堀となっている。
正面から攻めるには、狭い尾根筋を通らなければならない。
だが、城の東側にそびえる鳶ヶ巣山からは、城内の様子が見下ろせた。
武田軍はその山を押さえ、周辺の砦から長篠を監視している。
守りに適した地形であると同時に、包囲されれば逃げ場のない城でもあった。
「援軍は、まだか」
貞昌は西の空を見た。
その向こうに、徳川家康と織田信長の軍勢がいるはずだった。
◆
武田本陣。
奥平貞昌の返答を聞いた勝頼は、怒ることもなく頷いた。
「そうか。降らぬか」
馬場信春が進み出た。
「殿。城を力攻めすれば、こちらも相応の損害を受けます」
「分かっておる」
勝頼は地図を広げた。
「だから、城を攻めるだけでは終わらせぬ」
山県昌景が尋ねた。
「徳川を動かすおつもりですな」
「そうだ」
勝頼は設楽原の西側を指した。
「家康は、長篠を見捨てられぬ」
徳川家にとって、長篠は東三河を守る要衝だった。
ここを失えば、武田軍が三河の奥へ入り込む足場を得る。
「信長は動かぬかもしれぬ。だが、家康は違う」
勝頼は続けた。
「自分の領地が奪われるのを、黙って見ている男ではない」
信春が頷いた。
「では、城を攻めると見せ、家康を誘い出しますか」
「その通り」
勝頼は木札を動かした。
「長篠の西へ通じる道は限られる。川沿いの道、丘を越える道、そして山間の細道だ」
昌景が地図を見た。
「家康が救援に向かえば、隊列が伸びます」
「そこを叩く」
勝頼は冷たく笑った。
「織田の鉄砲が並ぶ場所で戦う必要はない。徳川が守りを離れたところで戦えばよい」
そして、命じた。
「内藤昌豊に兵を預ける。徳川が動いたら、側面から襲わせよ」
信春が尋ねた。
「家康本人を狙いますか」
勝頼は首を振った。
「家康が討てればよい。だが、首一つを追って隊列を崩すな。徳川の兵を打ち破ることを第一とせよ」
武田勝頼は、父・信玄の名に頼るだけの武将ではなかった。
相手の弱点を探し、そこへ兵を動かす。
今回の勝頼は、勝つために戦場を選んでいた。
◆
設楽原、徳川本陣。
徳川家康は、長篠から届いた報告を読んでいた。
「明朝、総攻撃か」
酒井忠次が頷いた。
「はっ。武田は攻城の支度を進めております」
「貞昌は持ちこたえられるか」
「一日、二日は。しかし、それ以上は……」
家康は地図を見た。
長篠城を救うには、武田の包囲を破らねばならない。
だが、設楽原の正面には武田軍がいる。
そこを突破すれば、大きな戦いになる。
「忠次」
「はっ」
「鳶ヶ巣山を攻められるか」
忠次は顔を上げた。
史実でも、酒井忠次が提案したと伝わる奇襲作戦。
長篠城の東側を見下ろす鳶ヶ巣山の砦を、背後から攻めるというものだった。
ただし、今回は事情が違う。
武田勝頼は、織田・徳川の動きを警戒している。
山県昌景の奇襲が失敗したことで、山道の危険も十分に理解していた。
「可能ではございます」
忠次は答えた。
「しかし、敵も山を警戒しております。史実のように容易にはいきませぬ」
家康は頷いた。
「ならば、敵の目をこちらへ向ける」
「殿?」
「儂が兵を動かす」
忠次が息を呑んだ。
「家康様自ら?」
「そうだ」
家康は地図の西側を指した。
「儂が長篠へ向かうと見せれば、勝頼は必ず動く」
「危険にございます!」
「危険だからこそ、敵は本気になる」
家康は笑った。
「忠次。お前はその隙に鳶ヶ巣山へ回れ」
忠次はしばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◆
同じ日の夕刻。
織田本陣では、信長が家康の作戦を聞いていた。
「家康が囮になるだと」
宗一郎は頷いた。
「はい。徳川勢の一部を長篠方面へ動かし、武田の注意を引きつけるそうです」
信長は眉をひそめた。
「危ういな」
「私もそう思います」
半兵衛が地図を指した。
「徳川勢が進む道は、丘陵と谷が入り組んでおります。武田が伏兵を置けば、側面を突かれます」
信長はしばらく考えた。
「家康へ伝えよ。深入りするな、と」
宗一郎は頷いた。
「御意」
だが、宗一郎の胸には不安が残っていた。
家康は慎重な男だ。
しかし、領地を守るためなら危険を冒す。
そして、武田勝頼は、その性格を読んでいる。
宗一郎は半兵衛へ言った。
「徳川勢の動きを、甲賀の者に見張らせてください」
「すでに源八郎殿へ頼んでおります」
半兵衛は静かに答えた。
「ただ、山の向こうで戦が始まれば、報せが届くまで時間がかかります」
宗一郎は頷いた。
戦場では、知っていることと、間に合うことは違う。
◆
翌朝。
徳川家康は、三千余の兵を率いて陣を出た。
目指すのは長篠方面。
ただし、城へ直接突入するつもりはなかった。
武田軍を引きつけ、酒井忠次の別働隊が鳶ヶ巣山へ回る時間を稼ぐ。
それが作戦だった。
家康の周囲には、石川数正、大久保忠世らが控えている。
「殿。前方の道が狭くなります」
数正が報告した。
家康は地形を見た。
左には低い丘。
右には沢が流れ、その先に湿地が広がっている。
道幅は、騎馬が二騎並べる程度。
大軍が進むには、決してよい場所ではなかった。
「先鋒を止めよ」
家康が命じた。
「物見を出せ」
数正が頷く。
しかし、その時だった。
前方の丘から、突然、銃声が響いた。
先頭の徳川兵が倒れる。
「敵襲!」
続いて、右側の林から武田兵が現れた。
赤い旗が翻る。
「武田だ!」
徳川勢は、狭い道の中で隊列を乱した。
家康は即座に叫んだ。
「慌てるな! 槍を前へ!」
徳川兵が槍を構える。
だが、武田軍は正面から突撃しなかった。
丘の上から鉄砲を撃ち、沢の向こうから弓を射る。
徳川勢を道の中央へ押し込むように攻撃していた。
武田の指揮官、内藤昌豊は、丘の上から戦況を見ていた。
「家康の旗はどこだ」
家臣が指した。
「あちらにございます!」
金色の扇の馬印。
徳川家康の位置を示していた。
昌豊は頷いた。
「敵の大将が近いな」
そして、命じた。
「正面を押さえよ。右の沢から回り込め」
家臣が尋ねた。
「家康を討ちますか」
「討てればよい。だが、まず逃げ道を断つ」
昌豊は地形を見た。
徳川勢の右側には沢がある。
沢の下流には、馬が足を取られる湿地。
左側は急な丘。
退くには、来た道を戻るしかない。
「後ろへ兵を回せ」
昌豊は静かに命じた。
「徳川の列を分断する」
◆
戦いは激しさを増していた。
徳川勢の先鋒が、武田の槍兵とぶつかる。
「押せ!」
徳川兵が槍を突き出す。
武田兵は盾で受け、横から槍を突き返した。
徳川兵の一人が胸を貫かれ、倒れる。
その後ろから、別の兵が前へ出た。
しかし、道が狭い。
後続の兵が詰まり、十分に動けない。
家康は馬上から戦況を見ていた。
「数正!」
「はっ!」
「先鋒を少し下げよ! 丘の上を取らねば、撃たれるばかりだ!」
数正が伝令を走らせる。
徳川勢の一部が左の丘へ登り始めた。
だが、斜面は急だった。
鎧を着た兵たちは、木の根を掴みながら進む。
そこへ武田方の矢が降った。
「ぐあっ!」
徳川兵が斜面を転がり落ちる。
家康は歯を食いしばった。
「これでは埒が明かぬ!」
その時、後方から叫び声が上がった。
「背後に敵!」
武田の別働隊が、沢を回り込んでいた。
徳川勢の退路を塞ごうとしている。
家康は即座に判断した。
「後ろへ兵を向けよ! 道を開け!」
しかし、すでに遅かった。
武田方の鉄砲が、再び火を噴いた。
銃声。
家康の乗る馬が、突然、前脚を折った。
「殿!」
馬が崩れる。
家康の体が投げ出された。
地面へ叩きつけられた瞬間、左脚に激痛が走った。
「ぐああっ!」
家康は叫んだ。
落馬した場所には、沢から運ばれた大きな石があった。
左脚が、その石と倒れた馬体の間に挟まれていた。
家康は必死に体を起こそうとした。
だが、左脚が動かない。
「殿!」
数正が駆け寄る。
家康の左脚は、不自然な方向へ曲がっていた。
脛のあたりから血が流れ、骨が傷口から覗いている。
「……脚が」
家康は歯を食いしばった。
「数正……馬をどけよ……!」
数正は家臣たちへ叫んだ。
「馬を起こせ! 殿をお助けしろ!」
数人が馬体を押し上げる。
家康の脚が、ようやく解放された。
しかし、家康は立ち上がれなかった。
左脚に力が入らない。
激痛が走り、視界が暗くなる。
「殿! しっかりなされませ!」
家康は数正の腕を掴んだ。
「……儂を置いて……兵を……」
「何を仰せです!」
「兵を……退かせよ……」
数正は、家康を抱え上げた。
「殿をお運びする!」
その瞬間、武田兵が迫った。
「家康だ!」
叫び声が上がる。
「徳川家康を討て!」
槍を持った武田兵が突進してきた。
大久保忠世が、その前へ立ちはだかった。
「ここは通さぬ!」
忠世の槍が、先頭の武田兵を貫いた。
別の武田兵が刀を振り下ろす。
忠世は槍の柄で受け止め、相手の胸を突いた。
「殿を逃がせ!」
徳川兵たちが、家康を囲むように集まった。
だが、武田軍の攻撃は止まらない。
銃声。
矢。
槍。
狭い道の上で、徳川兵が次々に倒れた。
◆
その頃。
鳶ヶ巣山の南側。
酒井忠次は、山道を進んでいた。
兵は二千余。
武田軍の注意が家康へ向いている間に、鳶ヶ巣山の砦を背後から攻める。
それが役目だった。
しかし、山の向こうから聞こえる銃声が、あまりにも激しかった。
「……殿」
忠次は足を止めた。
家臣が尋ねる。
「いかがなされました」
「家康様の方角だ」
忠次は耳を澄ませた。
銃声が途切れない。
それどころか、次第に近づいているようにも聞こえた。
「殿が、武田に捕まったかもしれぬ」
家臣が顔を上げる。
「戻りますか」
忠次は、しばらく黙っていた。
戻れば、家康を助けられるかもしれない。
だが、戻れば、鳶ヶ巣山への奇襲は失敗する。
長篠城の包囲も解けない。
そして、家康が自ら囮となった意味が失われる。
忠次は拳を握った。
「……進む」
家臣が息を呑んだ。
「よろしいのですか」
「家康様は、儂に鳶ヶ巣山を取れと命じられた」
忠次は刀を抜いた。
「ならば、取る!」
そして、兵たちへ叫んだ。
「急げ! 夜明けまでに砦へ取りつくぞ!」
◆
設楽原、織田本陣。
徳川勢が武田の伏兵に襲われたという報せが届いた。
宗一郎は、すぐに地図を広げた。
「場所は!」
伝令が指した。
「この谷にございます!」
半兵衛が顔をしかめた。
「まずい場所ですな」
宗一郎は頷いた。
左右を丘と沢に挟まれた道。
大軍が展開できず、退路も限られる。
「家康殿は」
「分かりませぬ!」
宗一郎は信長を見た。
「殿。援軍を!」
信長は地図を見た。
「どれほど出せる」
「二千あれば、武田の側面を突けます」
半兵衛が続けた。
「ただし、正面から谷へ入ってはなりませぬ。北側の尾根を越え、武田の背後へ出ます」
信長は頷いた。
「よし」
そして、命じた。
「高槻、竹中。二千を率いて家康を救え」
「御意!」
宗一郎は、すぐに兵を動かした。
だが、胸には嫌な予感があった。
史実では、家康はこの戦いを生き延び、のちに天下を取る。
しかし、今の歴史は違う。
勝頼は史実より慎重で、武田の重臣たちも無謀な突撃をしていない。
そして、家康自身が、史実にはない危険な戦場へ踏み込んでいる。
宗一郎は馬を走らせた。
「間に合ってくれ……!」
◆
徳川勢の退路。
家康は、家臣たちに担がれていた。
顔は青白く、額には脂汗が浮かんでいる。
左脚は布で強く縛られていたが、血が止まりきらない。
「殿……!」
数正が呼びかける。
家康は、かすかに目を開いた。
「……勝ったか」
数正は答えられなかった。
「……兵は……」
「今は、お体を!」
家康は首を振った。
「儂の……ことは……よい……」
その時、後方から歓声が上がった。
「織田の援軍だ!」
宗一郎と半兵衛の軍勢が、北側の尾根から現れた。
武田方の側面へ鉄砲が撃ち込まれる。
内藤昌豊は、すぐに状況を理解した。
「織田が来たか」
家臣が尋ねる。
「追撃を続けますか」
昌豊は首を振った。
「これ以上は危険だ。退け」
武田軍は、隊列を整えながら後退した。
徳川勢は、ようやく窮地を脱した。
だが、勝利ではなかった。
徳川家康は重傷。
兵の損害も大きかった。
そして、その傷が、家康の生涯を変えることになる。
◆
織田軍の仮設治療所。
家康は、血に染まった布の上に横たわっていた。
宗一郎が連れてきた高槻技術所の医師が、傷を調べている。
医師の顔は厳しかった。
「脛の骨が折れております。それも、骨が外へ出るほどの重傷です」
宗一郎は尋ねた。
「治せるか」
「命を救うことはできるかもしれませぬ」
「脚は」
医師は、しばらく黙っていた。
「……元通りに歩けるかどうかは、分かりませぬ」
宗一郎は唇を噛んだ。
傷口は泥で汚れている。
骨が皮膚を突き破った開放骨折。
感染すれば、命に関わる。
高槻技術所では、消毒や傷の処置について研究を進めていた。
だが、現代の医療設備があるわけではない。
「傷を洗え。汚れを取り除け」
宗一郎は命じた。
「清潔な布を使い、骨を固定する。熱が出たら、すぐに知らせてくれ」
医師が頷いた。
家康は、薄く目を開いた。
「……高槻か」
宗一郎が近づいた。
「家康殿」
「……儂は……生きておるか」
「はい」
家康は、かすかに笑った。
「……そうか」
そして、左脚へ目を向けた。
「……脚は」
宗一郎は、すぐには答えられなかった。
家康は、その沈黙で悟った。
「……そうか」
家康は目を閉じた。
しばらくして、低く呟いた。
「……勝頼め」
その声には、怒りがあった。
そして、別の感情もあった。
恐怖だった。
戦国の武将にとって、馬に乗れなくなることは、単に不便になるという話ではない。
戦場へ出られなくなる。
自ら兵を率いることが難しくなる。
家臣たちの前で、弱さを見せることになる。
家康は、歯を食いしばった。
「……儂は……まだ終わらぬ」
宗一郎は静かに答えた。
「はい」
家康は、再び目を閉じた。
◆
夜。
信長は、家康の負傷を聞いていた。
「脚が使えなくなるかもしれぬ、か」
宗一郎は頷いた。
「はい。命は助かる可能性がありますが、以前のように歩けるかどうかは分かりません」
信長は、しばらく黙っていた。
「家康も、無理をしたものだ」
その声には、わずかな苦さがあった。
「ですが、家康殿が敵を引きつけたことで、酒井忠次殿は鳶ヶ巣山へ向かえました」
「そうか」
信長は地図を見た。
「ならば、その犠牲を無駄にはできぬ」
宗一郎は頷いた。
信長は、長篠城の東側を指した。
「酒井が鳶ヶ巣山を取れば、武田の包囲は崩れる」
「はい」
「勝頼は、どう動く」
宗一郎は少し考えた。
「史実のように、設楽原へ正面突撃するとは思えません」
信長は頷いた。
「ならば、こちらから動く」
宗一郎が顔を上げる。
「殿?」
信長は地図の上に、木札を置いた。
「勝頼は、家康を倒したことで勢いづいておるかもしれぬ」
「はい」
「だが、徳川を叩いたことで、武田の兵も疲れておる」
信長は静かに笑った。
「その隙を突く」
そして、命じた。
「明朝、全軍を動かす」
宗一郎は深く頭を下げた。
「御意」
長篠の戦いは、まだ終わっていなかった。
武田勝頼は、徳川家康を戦場から退けた。
だが、織田信長は健在だった。
そして、竹中半兵衛と高槻宗一郎もまた、次の戦いに備えていた。
長篠の決着は、翌朝へ持ち越された。
その夜、徳川家康は、激しい痛みに耐えながら眠れぬ時を過ごしていた。
左脚は、すでに大きく腫れ上がっている。
医師は、骨を固定し、傷の処置を続けていた。
家康は、天井を見つめていた。
「……儂は、まだ……」
その声は、誰にも聞こえなかった。
だが、家康の胸には、一つの決意が生まれていた。
たとえ脚が動かなくなっても、徳川家を終わらせはしない。
自分が馬に乗れなくなるなら、家臣を動かせばよい。
自分が戦場へ出られなくなるなら、城から戦を動かせばよい。
そして、いつの日か。
武田勝頼にも、織田信長にも、決して侮られぬ力を持つ。
家康は、痛みに顔を歪めながら、拳を握った。
その決意が、のちに何を生むのか。
まだ、誰も知らなかった。




