第百三十二章 長篠の戦い①――山を制する者
第百三十二章 長篠の戦い①――山を制する者
天正三年五月。
三河国、設楽原。
夜明け前の山々には、薄い霧が漂っていた。
谷底を流れる沢の音が、木々の間に響いている。
武田家の重臣、山県昌景は、馬から降りていた。
背後には千五百の兵。
その多くが、甲斐や信濃の山野で鍛えられた者たちだった。
しかし、今回の進軍は容易ではなかった。
設楽原の北側には、幾筋もの尾根と谷が入り組んでいる。
地図の上では近く見える場所でも、実際には急な斜面を越え、沢を渡らなければならない。
馬を使えば速いとは限らなかった。
「ここからは徒歩だ」
昌景の命令で、兵たちは馬を後方へ預けた。
槍の穂先を布で包み、鎧の金具が鳴らぬよう紐で押さえる。
足元の落ち葉を踏む音さえ、夜の山では遠くまで響く。
昌景は先頭の物見に尋ねた。
「織田の兵糧道までは」
「この谷を抜ければ、半里ほどにございます」
「道幅は」
「狭いところでは三人並ぶのが精一杯かと」
昌景は顔をしかめた。
千五百の兵を連れていても、先頭で戦える人数は限られる。
後方の兵は、前が進まなければ動けない。
敵に待ち伏せされれば、数の利は失われる。
「物見を増やせ。谷の左右を調べよ」
「はっ」
「敵がいなかったという報告は要らぬ。人が通った跡を探せ」
昌景は、さらに念を押した。
「枝の折れ方、土の踏まれ方、焚き火の灰。見落とすな」
物見たちが散っていった。
昌景は、暗い谷を見つめた。
高槻宗一郎。
あの男は、武田の動きをどこまで読んでいるのか。
以前届いた書状には、長篠付近で不審な者たちが地形を調べているとあった。
勝頼は独自に調べ、書状の内容が事実であることを確かめていた。
だからこそ、今回の作戦では、正面から設楽原へ攻め込まず、山道を使うことにした。
だが、敵もまた、こちらの動きを予測しているかもしれない。
「高槻……」
昌景は小さく呟いた。
「お前が何を知っていようと、戦場で勝つのは兵を動かす者だ」
◆
同じ頃。
設楽原北方の尾根。
竹中半兵衛は、木々の間から谷を見下ろしていた。
隣には高槻宗一郎。
その後方には、甲賀の忍びを率いる鵜飼源八郎が控えている。
「武田の先鋒、谷の入口で止まりました」
源八郎が報告した。
半兵衛は静かに頷いた。
「やはり、山県昌景は慎重ですな」
宗一郎は谷を見た。
織田方は、この場所に八百の兵を伏せていた。
鉄砲三百挺。
弓兵百。
残りは槍兵である。
谷の出口には倒木を置き、さらにその後方へ簡単な柵を設けていた。
武田軍が谷へ入れば、両側の高所から鉄砲を撃ち、出口で槍兵が押し返す。
それが当初の作戦だった。
しかし、敵は動かない。
「気づかれましたか」
宗一郎が尋ねる。
「まだ分かりませぬ」
半兵衛は答えた。
「ただ、昌景ほどの武将なら、ここが危険な地形だと見抜くでしょう」
宗一郎は谷を見下ろした。
左右の斜面は急だが、登れないほどではない。
谷底には沢があり、雨が降ればぬかるむ。
敵が谷へ入れば有利に戦える。
だが、敵が入らなければ、こちらから仕掛けるしかない。
「半兵衛殿。どうします」
「待ちます」
「このままでは、敵が引き返すかもしれません」
「それなら、それでよいのです」
半兵衛は静かに言った。
「我らの目的は、山県昌景を討つことではありません。兵糧道を守ることです」
宗一郎は頷いた。
戦場では、敵を討つことばかりが勝利ではない。
守るべきものを守れば、それも勝ちである。
しかし、その時だった。
源八郎が顔を上げた。
「宗一郎様」
「何か」
「谷の西側で、人の動きがございます」
「武田ですか」
「まだ断定できませぬ」
源八郎は忍びの一人へ合図した。
「確かめよ。ただし、敵に気づかれるな」
忍びが姿を消した。
半兵衛は、谷の西側へ目を向けた。
「昌景が動きましたな」
◆
山県昌景のもとへ、物見が戻ってきた。
「申し上げます。谷の左右に、人が通った跡がございます」
「新しいか」
「はい。昨夜から今朝にかけてのものと思われます」
「人数は」
「分かりませぬ。ただ、相当数が通った形跡がございます」
昌景は頷いた。
「やはり伏兵か」
副将が尋ねた。
「迂回いたしますか」
「いや」
昌景は地図を広げた。
「迂回すれば、兵糧道へ着く前に日が昇る。敵に姿を見られれば、奇襲の意味がなくなる」
「では、どういたします」
昌景は谷の西側を指した。
「三百を分ける」
「三百?」
「尾根を回り、敵の伏兵の背後へ出よ」
副将が頷いた。
「敵を挟み撃ちにするのですな」
「違う」
昌景は首を振った。
「敵を動かすのだ」
副将が顔を上げる。
「動かす?」
「伏兵というものは、敵が来る場所を決めて待つから強い。ならば、待っている場所から追い出せばよい」
昌景は続けた。
「西から攻めれば、織田は兵をそちらへ向ける。その隙に本隊が谷を抜ける」
「なるほど」
「ただし、深追いはするな。敵を引きつけるだけでよい」
昌景は三百の兵を送り出した。
そして、残る千二百を谷の入口に待機させた。
◆
夜が明け始めた頃。
西側の尾根で、突然、銃声が響いた。
一発。
続いて、二発。
織田方の見張りが倒れた。
「敵襲!」
叫び声が上がる。
木々の間から、赤い旗が現れた。
武田の別働隊だった。
先頭の兵が斜面を駆け下りる。
織田方の槍兵が迎え撃った。
「構え!」
槍が突き出される。
武田兵は身を低くしてかわし、槍の柄を掴んだ。
そのまま強く引く。
織田兵の体勢が崩れた。
そこへ、別の武田兵が刀を振り下ろす。
織田兵が肩を斬られ、倒れた。
「押せ!」
武田方の指揮官が叫んだ。
しかし、山の斜面では、平地のように兵を並べられない。
木の根が足に絡み、濡れた土が滑る。
槍を長く構えれば、枝に引っかかる。
武田兵も織田兵も、槍を短く持ち、互いの隙を狙った。
一人の武田兵が足を滑らせた。
斜面を転がり落ちる。
そこへ織田兵が槍を突き出した。
武田兵は胸を貫かれ、動かなくなった。
だが、織田方にも余裕はなかった。
西側の守りが、徐々に押され始めていた。
◆
「西側の兵が押されております!」
伝令が半兵衛のもとへ駆け込んだ。
半兵衛は地図を見た。
「敵は何人です」
「三百ほど!」
「本隊は」
「谷の入口に留まっております!」
半兵衛は頷いた。
「昌景の狙いが分かりました」
宗一郎が尋ねる。
「我らを西へ引きつけるつもりですね」
「はい」
半兵衛は、谷の出口に置いた木札を指した。
「西側へ兵を回せば、谷の出口が薄くなります。そこを昌景本隊が突破する」
「では、どうします」
半兵衛は静かに答えた。
「西側は、少し下がらせます」
宗一郎は顔を上げた。
「下がらせる?」
「はい。ただし、敗走ではありません」
半兵衛は地図の上に指を滑らせた。
西側の尾根には、少し下ったところに細い沢があった。
その先は、再び急な斜面になっている。
「ここまで引きます」
「沢を越えさせるのですか」
「そうです」
半兵衛は続けた。
「敵が沢へ降りれば、こちらは高い位置を取れます」
宗一郎は理解した。
武田の別働隊を、さらに不利な場所へ誘い込む。
そして、谷の出口に置いた主力は動かさない。
「分かりました」
宗一郎は伝令へ命じた。
「西側の兵は、沢の向こうまで下がれ! ただし、隊列を崩すな!」
伝令が走り去った。
半兵衛は、谷の入口を見つめた。
「昌景が本隊を動かすなら、今でしょう」
◆
山県昌景は、西側から聞こえる銃声を聞いていた。
「始まったか」
副将が頷いた。
「織田の兵が、西へ下がっております」
昌景の目が細くなった。
「下がっている?」
「はっ」
「崩れているのか」
「そこまでは分かりませぬ」
昌景は少し考えた。
織田が西側へ兵を回したなら、谷の出口は薄くなっているはずだ。
だが、あまりにも都合がよい。
「先鋒を二百だけ入れよ」
副将が驚いた。
「本隊ではなく?」
「そうだ。敵の守りを確かめる」
昌景は慎重だった。
先鋒二百が谷へ入る。
盾を持つ足軽が先頭。
その後ろに鉄砲隊。
さらに槍兵が続く。
谷の出口が近づいた。
その時だった。
「撃て!」
織田方の鉄砲が火を噴いた。
轟音が谷に響く。
先頭の武田兵が倒れた。
「伏せろ!」
武田方の指揮官が叫ぶ。
兵たちが盾を構える。
だが、谷は狭い。
後ろの兵が詰まり、前へ出られない。
織田方の二度目の射撃が響いた。
さらに数人が倒れた。
武田方も鉄砲を撃ち返した。
しかし、織田方は高い位置にいる。
谷底から撃ち上げる武田方は、狙いを定めにくかった。
「退け!」
先鋒の指揮官が叫ぶ。
武田兵が後退を始めた。
昌景は、その様子を見ていた。
「やはり、守りは薄くなっておらぬか」
副将が言った。
「殿。どういたします」
昌景は、すぐに答えなかった。
谷の出口には織田の鉄砲隊が残っている。
西側の兵も、敵を崩しきれていない。
このまま本隊を進めれば、損害が増えるだけだ。
「西側の兵を引かせよ」
「よろしいのですか」
「よい」
昌景は静かに答えた。
「この道は、すでに敵のものだ」
◆
西側の沢。
武田の別働隊は、織田方を追って斜面を下っていた。
だが、沢へ入ったところで、突然、頭上から矢が降ってきた。
「伏せろ!」
武田兵が叫ぶ。
続いて、鉄砲が鳴った。
沢の向こうの高所から、織田方が撃っていた。
武田兵が倒れる。
後ろへ下がろうとするが、斜面は急だった。
しかも、足元は濡れた石で滑りやすい。
「戻れ!」
指揮官が叫んだ。
だが、兵たちは思うように動けない。
そこへ、織田方の槍兵が斜面を下りてきた。
「押し返せ!」
武田兵が槍を構える。
狭い沢の中で、激しい戦いが始まった。
槍が突き出される。
刀が振り下ろされる。
倒れた兵が水に沈み、沢が赤く染まった。
しかし、武田方の指揮官は、ここで踏みとどまらなかった。
「退け! 隊列を崩すな!」
負傷者を抱え、兵たちは少しずつ後退した。
織田方も深追いしなかった。
半兵衛の命令が、すでに届いていたからである。
◆
昼過ぎ。
山県昌景は、兵をまとめていた。
死者五十余。
負傷者百余。
織田方にも損害を与えたが、兵糧道を断つことはできなかった。
副将が頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
昌景は首を振った。
「謝ることではない」
「しかし、奇襲は失敗しました」
「失敗したからこそ、分かったことがある」
昌景は地図を見た。
「織田は、我らが山から来ることを読んでいた」
副将が顔を上げた。
「なぜでしょうか」
「それを調べる必要がある」
昌景は静かに言った。
「そして、織田の伏兵を率いていた者」
「竹中半兵衛と、高槻宗一郎にございます」
昌景は、その名を繰り返した。
「竹中半兵衛……高槻宗一郎……」
そして、笑った。
「なるほど。厄介な相手だ」
◆
設楽原、織田本陣。
信長は、北方の戦いの報告を聞いていた。
「山県昌景、退きました」
丹羽長秀が報告した。
「兵糧道は無事にございます」
信長は頷いた。
「損害は」
「死者三十余、負傷者七十余」
「武田は」
「死者五十余、負傷者百余と見られます」
信長は地図を見た。
「昌景を討てなかったか」
宗一郎が答えた。
「はい。ですが、兵糧道は守りました」
「それでよい」
信長は静かに言った。
「昌景を討つために、こちらの兵を失う必要はない」
宗一郎は少し驚いた。
信長は、勝つためなら冷酷な決断をする。
だが、無意味な損害を好むわけではない。
「次は、勝頼本人だ」
信長は地図の東側を指した。
「山県が失敗したと知れば、勝頼は動く」
宗一郎は頷いた。
「はい」
信長は笑った。
「さて、どう出る」
◆
武田本陣。
勝頼は、山県昌景からの報告を聞いていた。
「谷に伏兵がいたか」
「はっ」
「高槻と竹中か」
「そのようです」
勝頼は、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「面白い」
昌景が顔を上げる。
「殿」
「高槻は、儂が山から来ると読んでいた」
「はい」
「だが、こちらも織田が伏せていると読んだ」
勝頼は地図を見た。
「互いに読み合っているわけだ」
馬場信春が進み出た。
「殿。次はいかがなさいますか」
勝頼は、静かに答えた。
「正面は攻めぬ」
昌景が頷いた。
「賢明にございます」
「だが、退きもせぬ」
信春が顔を上げた。
「では」
勝頼は、長篠城を指した。
「城を攻める」
昌景が眉をひそめた。
「長篠を?」
「そうだ」
勝頼は続けた。
「織田が設楽原で待つなら、待たせておけばよい」
そして、冷たく笑った。
「城が落ちれば、家康は動く」
信春は、地図を見た。
長篠城。
豊川と宇連川に挟まれた堅城。
そこを攻め落とすには、相応の損害が必要になる。
「殿。城攻めは容易ではありませぬ」
「分かっておる」
勝頼は頷いた。
「だから、城を守る者に選ばせる」
昌景が尋ねた。
「何を、でございますか」
勝頼は答えた。
「降伏か、死か」
そして、命じた。
「長篠城へ使者を出せ」
武田勝頼は、正面決戦を避けた。
だが、戦を終わらせるつもりはなかった。
次の戦場は、長篠城そのものとなろうとしていた。




