第十三章 姉川
第十三章 姉川
元亀元年六月。
金ヶ崎からの撤退を終えた織田家は、浅井長政の裏切りを決して忘れなかった。
浅井は北近江の小谷城を本拠とし、朝倉義景と結んでいる。
その小谷城を押さえるため、信長はまず横山城を狙った。
横山城は小谷城の南に位置し、北近江を押さえるうえで重要な要地だった。
ここを奪えば、浅井の本拠へ圧力をかけられる。
逆に、横山城を失えば、浅井は南へ進む道を失う。
「姉川を越えれば、横山城が見える」
宗一郎は地図を広げながら言った。
「そして横山城を落とせば、小谷城を孤立させられる」
半兵衛が頷く。
「朝倉は、浅井を見捨てますまい」
「見捨てぬだろう。浅井が倒れれば、朝倉は越前の南口を失う」
宗一郎は地図上の姉川を指でなぞった。
「だから、必ず救援に来る」
信長は横山城を包囲するため、姉川の南岸に陣を置いた。
織田軍には、徳川家康の援軍も加わっていた。
家康にとっても、浅井・朝倉の勢力が南へ伸びることは脅威だった。
三河を守るためにも、織田家との連携は欠かせない。
「徳川殿が来られました」
伝令が告げる。
宗一郎が陣の外へ出ると、徳川軍の旗が見えた。
家康は馬上から周囲を見渡していた。
派手な威勢はない。
だが、兵の配置、地形、敵の動き。
その全てを静かに測っている。
「徳川殿」
宗一郎が声をかける。
「高槻殿か」
家康は馬を止めた。
「此度は、浅井・朝倉を相手にすることになります」
「承知している」
「無理に前へ出るおつもりは?」
家康はわずかに笑った。
「勝つために来たのであって、死ぬために来たのではない」
その答えに、宗一郎は家康の本質を見た。
慎重でありながら、臆病ではない。
危険を避けるのではなく、危険を測り、勝機が来た時だけ踏み込む。
――この男は、戦場で生き残る。
宗一郎はそう確信した。
やがて、姉川の北側に浅井・朝倉連合軍が現れた。
浅井軍は磯野員昌を先鋒とし、朝倉軍は朝倉景健が率いている。
浅井軍は織田軍へ向かい、朝倉軍は徳川軍へ向かう形となった。
両軍の間には、姉川が流れている。
水深は深くない。
だが、川底は不安定で、ところどころに石が転がっていた。
渡河する兵は足を取られ、隊列を乱される。
それでも、戦は始まった。
「敵、動きます!」
見張りの兵が叫んだ。
浅井軍の旗が一斉に進む。
朝倉軍もまた、川を渡り始めた。
織田軍の陣に、緊張が走る。
信長は馬上から戦場を見つめていた。
「撃て!」
弓兵が一斉に矢を放つ。
矢の雨が川面を叩き、浅井軍の先頭に突き刺さった。
だが、浅井軍は止まらなかった。
「浅井の兵、強いですな」
半兵衛が呟く。
長政は、裏切ったから強いのではない」
宗一郎は答えた。
「もともと、北近江を守るだけの力を持っていた男だ」
浅井長政は、信長の義弟でもあった。
信長の妹、お市の方を妻に迎え、織田家と浅井家は縁戚となっていた。
その縁を断ち切ってまで、長政は朝倉を選んだ。
理由は一つではない。
朝倉との古い盟約。
北近江の国衆たちの意向。
そして、信長が越前へ進み続ければ、いずれ浅井家も織田家に呑み込まれるという恐れ。
長政の決断は、単なる裏切りではなかった。
浅井家が生き残るための、苦しい選択でもあった。
だが、信長にとっては許しがたい裏切りだった。
「来るぞ!」
織田軍の槍隊が構える。
浅井軍が川を渡り、織田軍へ突撃した。
槍と槍がぶつかり、怒号が響く。
織田軍の前線が押され始めた。
「浅井軍、強く押してきます!」
「隊列を崩すな!」
宗一郎は戦場を見渡した。
浅井軍の先鋒は、織田軍の中央を深く突き崩している。
磯野員昌の攻勢は激しく、織田軍の兵たちは後退を始めていた。
「織田の中央が危ない」
半兵衛が言う。
「だが、徳川が動いた」
宗一郎は右手の戦場を見た。
徳川軍は朝倉軍と激しくぶつかっていた。
朝倉軍は兵数も多く、正面から押し込んでいる。
しかし、家康は無理に受け止め続けなかった。
一部の兵を下げ、敵を前へ誘い込む。
そして、朝倉軍の側面へ別働隊を回していた。
「徳川殿は、朝倉を正面から破るつもりではない」
「では?」
「朝倉の隊列を伸ばし、隙を作るつもりだ」
宗一郎の言葉どおり、朝倉軍の前進によって隊列が長く伸びていく。
先頭と後方の連携が薄くなった。
その瞬間、徳川軍が反撃に転じた。
「今だ!」
家康の命令が飛ぶ。
徳川軍が朝倉軍の側面へ突入した。
朝倉軍の旗が揺れ、兵の動きが乱れる。
「徳川が朝倉を押し返した!」
織田軍の兵から声が上がった。
だが、織田軍中央では、なお浅井軍の攻勢が続いている。
浅井軍は織田軍を押し込み、信長本陣へ迫ろうとしていた。
「信長様の本陣が危ない!」
「宗一郎様、どうします?」
半兵衛が尋ねる。
宗一郎は戦場を見た。
織田軍の中央は崩れかけている。
しかし、浅井軍もまた深く入り込みすぎていた。
前進した浅井軍の後方には、朝倉軍との間に隙が生じている。
「浅井を止めるのではない」
宗一郎は言った。
「浅井の後ろを断つ」
「しかし、そこには敵が」
「だからこそ、少数で突く」
宗一郎は自ら兵を率いることにした。
「半兵衛、左翼の兵をまとめろ。浅井の先鋒を正面から受ける必要はない。敵の後方へ回り込む」
「危険です」
「姉川で安全な場所などない」
宗一郎は馬に乗った。
「浅井軍が前へ出れば出るほど、後ろが薄くなる。そこを突く」
宗一郎の兵が川を渡る。
水しぶきが上がり、足元が崩れる。
敵の矢が飛んできた。
一人、また一人と兵が倒れる。
それでも宗一郎は進んだ。
「止まるな!」
浅井軍の後方に近づくと、敵の旗が見えた。
浅井の兵たちは前線へ集中しており、後方の守りは薄い。
宗一郎は槍を掲げた。
今だ!」
織田兵が一斉に突撃する。
浅井軍の後方が騒然となった。
前へ進んでいた兵たちが振り返る。
その動揺が、織田軍中央に生まれた時間を与えた。
「押し返せ!」
織田軍が反撃に転じる。
信長本陣の周囲で、織田の旗が再び前へ出た。
浅井軍はなお抵抗した。
長政の兵たちは、主君のために死力を尽くしている。
「浅井は崩れません!」
兵が叫ぶ。
「ならば、朝倉を崩す」
宗一郎は答えた。
徳川軍の反撃によって、朝倉軍はすでに後退を始めていた。
朝倉軍が退けば、浅井軍は孤立する。
浅井軍は織田軍を押し込んでいたが、左右から圧力を受ける形になった。
「朝倉が退く!」
「浅井の後ろが空いた!」
戦場に変化が生じた。
浅井長政は、朝倉軍の後退を見た。
このまま戦えば、浅井軍だけが織田軍に包囲される。
長政は撤退を決断した。
このまま戦えば、浅井軍だけが織田軍に包囲される。
長政は撤退を決断した。
「退け!」
浅井軍の旗が後方へ動く。
だが、織田軍は追撃を始めた。
姉川の川面は、血と泥で赤く染まっていた。
倒れた兵の鎧が水に沈み、折れた槍が流れに引っかかっている。
勝敗は決した。
織田・徳川連合軍が、浅井・朝倉連合軍を破ったのである。
しかし、織田軍も無傷ではなかった。
多くの兵が倒れ、武将たちも傷を負った。
「勝った、というには重すぎる戦ですな」
半兵衛が言った。
宗一郎は答えなかった。
姉川の戦いは、後世には織田・徳川の勝利として語られる。
だが、浅井・朝倉軍が一方的に敗れたわけではない。
浅井軍は織田軍中央を深く攻め込み、織田軍を大きく苦しめた。
徳川軍の奮戦と、朝倉軍の後退が戦局を変えたからこそ、織田軍は勝利を得られたのだ。
「徳川殿」
宗一郎が家康のもとへ向かうと、家康は負傷兵の様子を見ていた。
「此度の働き、見事でした」
「織田軍もよく耐えた」
家康は戦場を振り返った。
「浅井の兵は強い。長政は、簡単には倒れぬでしょう」
「同感です」
宗一郎は頷いた。
「姉川で勝ったからといって、小谷城が落ちたわけではない」
家康は宗一郎を見た。
「高槻殿も、そう考えているか」
「はい。浅井はまだ生きています。朝倉も越前に戻っただけです」
「ならば、戦は続く」
「続きます」
二人はしばらく黙って戦場を見つめた。
家康は慎重だった。
決して無謀な戦をしない。
そして、勝てる時には確実に勝つ。
――この男は生き残る。
宗一郎は改めてそう確信した。
一方、織田軍の陣では、信長が戦果を確認していた。
「横山城を押さえる」
信長は言った。
「浅井の喉元を締める」
姉川で勝利した後、織田軍は横山城を攻略した。
横山城を失ったことで、浅井は小谷城の南側に大きな圧力を受けることになる。
だが、信長はそれだけでは満足しなかった。
「浅井長政を許すつもりはない」
信長の声には、金ヶ崎以来の怒りが残っていた。
宗一郎は信長の横顔を見た。
お市の方を妹に持つ長政。
その長政に裏切られたことは、単なる戦略上の損失ではない。
信長にとっては、血縁と信頼を踏みにじられた出来事だった。
だからこそ、浅井を滅ぼすまで怒りは消えない。
「信長様」
宗一郎が声をかける。
「何だ」
「姉川の勝利は大きい。しかし、浅井を追い詰めすぎれば、朝倉も必死になります」
「分かっている」
「ならば、兵糧と城の守りを整えるべきです」
信長は宗一郎を見た。
「お前は、勝った後のことばかり考えるな」
「勝った後に油断する者が、次の戦で敗れます」
信長はしばらく黙っていた。
やがて、わずかに口元を上げる。
「相変わらず、つまらぬことを言う」
「つまらぬことが、命を救うこともあります」
「ならば任せる」
信長は背を向けた。
「横山城の守りと兵站を整えよ」
「承知しました」
姉川の戦いは、織田家にとって大きな勝利だった。
だが、それは浅井・朝倉を滅ぼす決定打ではない。
むしろ、両者をさらに追い詰め、信長包囲網を激しくする結果となった。
浅井は小谷城に籠もり、朝倉は越前へ退いた。
そして、信長に敵対する者たちは、この敗北を見て悟った。
織田家は強い。
正面から戦えば、いずれ押し切られる。
ならば、各地から織田を囲み、同時に攻めるしかない。
「姉川は、始まりにすぎない」
宗一郎は夜の陣で呟いた。
「浅井、朝倉、本願寺、将軍……敵はさらに増える」
半兵衛が隣に立つ。
「それでも、織田家は勝ち続けるでしょう」
「勝ち続けるからこそ、敵は増える」
宗一郎は燃え残る篝火を見つめた。
「秀吉は上へ登る」
「はい」
「光秀も上へ登る」
「はい」
「そして家康もまた、生き残り続ける」
半兵衛は宗一郎を見た。
「宗一郎様は、三人を恐れておられる」
「恐れている」
宗一郎は素直に答えた。
「秀吉は、敗北さえ出世の糧にする。光秀は、戦場の先にある秩序を見ている。家康は、勝てぬ時に耐え、勝てる時に必ず手を伸ばす」
「では、敵になると?」
「敵になるとは限らぬ」
宗一郎は静かに言った。
「だが、味方だからと安心してもならぬ」
姉川の夜は深かった。
遠くでは、負傷兵の呻き声が聞こえる。
勝利の宴を開く者はいなかった。
誰もが、この戦が終わりではないと知っていた。
浅井長政は生きている。
朝倉義景も健在である。
そして、信長の周囲には、さらに多くの敵が集まり始めている。
宗一郎は、姉川の暗い流れを見つめた。
未来を知っていても、全てを防ぐことはできない。
だが、未来を知っているからこそ、次に何が起こるかを考えられる。
「半兵衛」
「はい」
「横山城を固める。兵糧を集め、街道を監視しろ」
「次の戦に備えるのですか?」
「次の戦だけではない」
宗一郎は北の空を見た。
「この先に来る、長い戦に備える」
姉川の戦いは終わった。
しかし、信長包囲網は、ここから本格的に動き始める。
そして宗一郎はまだ知らなかった。
この戦で名を上げた秀吉と光秀が、やがて織田家の中枢へ進み、徳川家康が遠い未来まで生き残ることを。
いや。
未来を知る宗一郎だからこそ、知っていた。
ただし、その未来は既に変わり始めている。




