十二章 金ヶ崎
元亀元年。
信長は朝倉義景を攻めるため越前へ進んだ。
宗一郎も軍勢に加わっていた。
金ヶ崎城を落とし、織田軍がさらに北へ進もうとした時だった。
陣中には、勝利を目前にした者たちの緩みがあった。
兵たちは戦支度を解き始め、武将たちも次の攻め口を語っていた。
だが、宗一郎だけは地図から目を離さなかった。
越前へ伸びた織田軍の背後には、近江がある。
そして近江には、浅井長政がいる。
……静かすぎる」
宗一郎が呟いた直後、伝令が駆け込んできた。
顔は青ざめ、息は乱れている。
「申し上げます! 浅井が裏切りました!」
一瞬、陣中の空気が凍った。
次の瞬間、あちこちで怒号が上がる。
「何だと!」
「長政が?」
「退路はどうなっている!」
宗一郎はすぐに地図を広げた。
朝倉軍が前にいる。
浅井軍が背後を塞ぐ。
織田軍は、二つの敵に挟まれようとしていた。
「挟まれる」
はい」
半兵衛が答える。
「このまま進めば朝倉と戦い、退けば浅井に追われる。兵を分ければ、どちらにも勝てぬ」
宗一郎は地図上の道筋を指でなぞった。
「金ヶ崎から近江へ戻る道を確保する。荷駄は捨ててもよい。重い兵器も置いていく」
「しかし、兵糧が」
「兵糧を守って兵を失えば意味がない」
宗一郎は即答した。
「撤退だ」
その言葉に、半兵衛がわずかに眉を動かした。
「信長様は、まだ戦うおつもりかもしれませぬ」
「信長様は勝てる戦を好む。勝てぬと分かれば、決断は早い」
やがて信長から撤退の命が下る。
だが、それは容易な退却ではなかった。
朝倉軍に背を向ければ、敵は必ず追ってくる。
浅井軍が近江の道を塞げば、織田軍は袋の鼠となる。
「殿を置く必要がある」
宗一郎は言った。
「誰を?」
「敵を食い止め、味方を逃がせる者だ」
その時、羽柴秀吉が進み出た。
「殿は、この秀吉にお任せくだされ」
秀吉はいつものように笑っていた。
だが、その顔には隠しきれない緊張があった。
宗一郎は秀吉を見つめた。
この撤退戦が、秀吉の名を大きく押し上げることを知っている。
しかし、知っているからこそ、その姿が恐ろしくもあった。
「秀吉殿」
「はい」
「死ぬな」
短い言葉だった。
秀吉は一瞬だけ目を細め、それから深く頭を下げた。
「宗一郎殿も、どうかご無事で」
別の場所では、明智光秀も兵をまとめていた。
幕臣として京の政務に携わっていた男が、今は織田軍の退路を守るために刀を取っている。
光秀は兵の配置を確認し、敵の進路を読み、無駄なく指示を飛ばしていた。
「明智殿も殿を?」
宗一郎が尋ねると、光秀は静かに答えた。
「退く者がいるなら、残る者も必要でしょう」
その言葉には、武士としての覚悟だけではないものがあった。
織田家に対する忠誠。
将軍家との関係。
そして、この戦場で自分の価値を示そうとする意志。
宗一郎はそれを感じ取った。
「……明智殿」
「何か?」
「無理をするな」
「それは難しい注文ですな」
光秀は薄く笑った。
「この場で無理をせぬ者は、味方を見捨てることになります」
織田軍は、夜陰に紛れて金ヶ崎を離れた。
道は狭く、足元は悪い。
兵たちは声を殺し、鎧の音さえ抑えながら進んだ。
だが、背後からは朝倉軍の鬨の声が響いてくる。
時折、矢が闇を裂いた。
「急げ!」
「隊列を崩すな!」
「負傷者を置いていくな!」
宗一郎は後方を振り返った。
遠くで火が上がっている。
秀吉と光秀が、敵を引きつけているのだ。
その炎の向こうには、浅井の旗も見えた。
かつて味方だった者たちが、今は織田軍を追っている。
「浅井長政……」
宗一郎は低く呟いた。
裏切りは、戦場の形だけでなく、人の心まで変えてしまう。
信長と長政の縁。
お市の方を通じた繋がり。
それらが一夜にして敵味方を分ける境目となった。
「宗一郎様」
半兵衛が声をかける。
「何だ?」
「秀吉殿と光秀殿は、戻ってこられるでしょうか」
宗一郎はすぐには答えなかった。
史実では、二人ともこの撤退戦で大きな名を上げる。
だが、この世界では既に歴史が変わっている。
二人が生き残る保証など、どこにもない。
戻ってくる」
宗一郎はやがて言った。
「戻ってこなければ、織田家の未来が変わる」
「それは……」
「だから、戻ってこさせる」
宗一郎は兵を止めた。
「半兵衛、先に進める者を逃がせ。俺は後方を見る」
「宗一郎様が殿を?」
「全軍の殿ではない。だが、見捨てるつもりもない」
宗一郎は少数の兵を率い、燃え上がる金ヶ崎の方角へ向かった。
しばらく進むと、敵兵の影が見えた。
宗一郎は弓を引き、先頭の兵を射落とす。
「ここから先へは通さん!」
織田兵が一斉に槍を構えた。
短い衝突だった。
だが、その間に遠くから撤退を知らせる合図が響いた。
秀吉の隊が、敵を振り切ったのだ。
さらに別の方角から、明智隊の旗が現れる。
光秀もまた、兵をまとめて退いてきた。
「高槻殿」
光秀が馬を寄せる。
「無事でしたか」
「そちらもな」
宗一郎は秀吉の姿を探した。
やがて、泥と血にまみれた秀吉が姿を見せる。
「いやはや、ひどい目に遭いましたな」
笑ってはいたが、肩には深い傷があった。
「その傷で笑えるか」
「笑わねば、痛みが増しますゆえ」
宗一郎は秀吉を見た。
この男は、死地から戻るたびに人の心を掴んでいく。
恐怖も疲労も傷さえも、己の力に変えてしまう。
「……秀吉殿」
「はい」
「貴殿はこういう時に強いな」
秀吉は一瞬だけ黙った。
「生き残るしかないだけでございます」
その言葉を聞き、宗一郎は背筋に冷たいものを感じた。
秀吉は戦に勝ったのではない。
この撤退戦を、自分の出世の足場に変えたのだ。
そして光秀もまた、冷静に兵をまとめ、織田軍の退路を守った。
二人の働きによって、織田軍は辛うじて近江へ戻ることができた。
だが、金ヶ崎で失ったものは大きかった。
兵。
武具。
兵糧。
そして、浅井長政への信頼。
信長は怒りを露わにしなかった。
ただ、馬上から越前の方角を見つめていた。
「信長様」
宗一郎が声をかける。
「何だ」
「此度は、退くべき戦でした」
「分かっている」
信長の声は低かった。
「だが、浅井の裏切りは忘れぬ」
その目には、燃えるような怒りが宿っていた。
宗一郎は黙って頭を下げた。
金ヶ崎の退き口は、単なる敗走ではなかった。
信長にとっては、浅井を討つ理由となり、秀吉にとっては名を上げる機会となり、光秀にとっては織田家での立場を強める契機となった。
そして宗一郎にとっては、改めて思い知らされる戦だった。
未来を知っていても、全てを防ぐことはできない。
人の心は、地図の上には描けない。
「半兵衛」
「はい」
これからは、浅井を敵として考える」
「では、以前の判断を変えるのですか?」
「変える」
宗一郎は越前へ続く道を見た。
「敵にする必要がない者を敵にするべきではない。だが、敵になった者を味方だと思い続けるほど、織田家は甘くない」
半兵衛は静かに頷いた。
宗一郎は、遠くに見える秀吉と光秀の姿を見つめた。
二人とも、まだ生きている。
だが、この戦を越えたことで、確実に何かが変わった。
秀吉はさらに上へ登る。
光秀もまた、信長の近くへ進む。
そして自分は、その二人を警戒しながら、織田家を支えなければならない。
「……秀吉」
「どうされました?」
半兵衛が尋ねる。
「やはり、あの男は恐ろしい」
「武勇のためですか?」
「違う」
宗一郎は首を横に振った。
「死地から戻った者の顔をしていない。次にどこへ進むかを考えている顔だ」
宗一郎は光秀にも目を向けた。
「そして、光秀も同じだ」
「明智殿も?」
「あの男は、戦場の先にあるものを見ている」
金ヶ崎からの撤退は終わった。
だが、信長包囲網の始まりは、ここからだった。




