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第十一章 近江

第十一章 近江


織田信長の勢力が拡大するにつれ。


近江の情勢も、少しずつ変わっていった。


京。


美濃。


近江。


越前。


そして東海。


地図を広げれば、近江がいかに重要な場所にあるのかがよく分かる。


京から東へ進むにも。


越前へ向かうにも。


美濃と京を繋ぐにも。


近江は避けて通れない。


宗一郎は机の上に広げた地図を見つめていた。


その向かいには半兵衛がいる。


「ここです」


宗一郎は地図の一点を指で押さえた。


「浅井」


半兵衛が頷く。


「浅井長政ですな」


「そうだ」


若い当主。


北近江を治める男。


そして、織田家にとって重要な位置にいる。


宗一郎は、しばらく浅井の領地を見つめていた。


頭の中には、この先の歴史が浮かんでいる。


浅井長政。


お市。


朝倉義景。


金ヶ崎。


そして――撤退。


宗一郎は、その記憶を押し込めた。


まだ何も起きていない。


未来を知っているからといって、それをそのまま現在に持ち込むわけにはいかない。


未来は変えられる。


だからこそ、今の判断を誤ってはならない。


「浅井は?」


宗一郎が尋ねた。


「今のところ、信長様に従っております」


半兵衛が答える。


「だが?」


「朝倉との関係が深い」


「そうだ」


宗一郎は頷いた。


浅井と朝倉。


長年の関係。


そして織田と朝倉。


その間にいる浅井。


「浅井は、織田と朝倉の間にいる」


「はい」


半兵衛は地図を見る。


「ならば、いつまでも信長様の味方とは限りませんな」


「そういうことだ」


宗一郎は静かに答えた。


「だが、それだけで敵と決めつける理由にはならない」


半兵衛が宗一郎を見る。


「では……」


少し考えてから尋ねた。


「浅井を攻めるべきですか?」


宗一郎は首を横に振った。


「まだ早い」


即答だった。


半兵衛の眉が、わずかに動く。


あまりにも迷いがなかった。


「しかし、浅井が朝倉と繋がっている以上、いずれ織田と衝突する可能性もあります」


「可能性はある」


宗一郎は認めた。


「だが、可能性だけで戦を始めていたら、いくら兵がいても足りない」


「……なるほど」


半兵衛は頷いた。


だが、納得したのとは少し違った。


宗一郎は、まるで浅井の将来を知っているかのように話す。


それは以前から感じていた。


戦のことだけではない。


兵糧。


商い。


街道。


人の流れ。


宗一郎は時々、まだ誰も気づいていない危険を先に見つける。


偶然と言えば、それまでだ。


だが――


偶然にしては、多すぎる。


半兵衛はその疑念を胸の奥にしまった。


「戦というものは、勝てばいいわけではない」


宗一郎は言った。


「勝った後に何が残るかだ」


「……勝った後」


「そうだ」


宗一郎は浅井の領地を見つめた。


「浅井を攻めれば、北近江は手に入るかもしれない」


「はい」


「だが、その代わりに朝倉との関係が悪化する」


「さらに越前へ?」


「そうなる」


宗一郎は頷いた。


「一つの戦が、次の戦を呼ぶ」


それが戦国だった。


一つの城を取る。


すると、その城を取り戻そうと敵が動く。


敵を追えば、別の勢力が警戒する。


同盟を結べば、その同盟相手と敵対する者まで敵になる。


戦は、勝敗だけで終わらない。


その後に残る関係こそが重要だった。


「一つを敵にすれば、その背後まで敵になる」


宗一郎は言った。


「ならば、今は浅井を敵にする理由がない」


半兵衛は頷いた。


「確かに、その通りです」


だが、半兵衛の視線は地図から宗一郎へ移っていた。


「宗一郎様」


「何だ?」


「もし……」


半兵衛は言葉を選んだ。


「もし、浅井がいずれ敵になるとしたら?」


宗一郎の指が止まった。


ほんの一瞬だった。


だが半兵衛は見逃さなかった。


「その時に考える」


宗一郎は答えた。


「今から敵にする必要はない」


「……そうですか」


半兵衛は微笑んだ。


だが、その目は笑っていなかった。


――やはり。


何かある。


そう思った。


しかし、証拠はない。


宗一郎は浅井長政の性格を知らないはずだ。


朝倉との関係も、普通の家臣が知る程度には知っている。


それなのに、なぜここまで慎重なのか。


なぜ、まだ何も起きていない浅井について、これほど先のことを考えているのか。


「宗一郎様は……」


「うん?」


「時々、不思議なことを仰いますな」


宗一郎の表情が一瞬だけ固まった。


「そうか?」


「はい」


半兵衛は笑った。


「まるで、まだ起きていないことを見てきたような」


沈黙。


わずかな沈黙だった。


だが宗一郎にとっては、長く感じられた。


「考えすぎだ」


宗一郎は笑った。


「俺はただ、失敗するのが嫌いなだけだ」


「……そうですか」


半兵衛はそれ以上追及しなかった。


しかし、胸の中には小さな疑念が残った。


宗一郎は何かを隠している。


それは確かだ。


だが、それが何なのかは分からない。


過去のことなのか。


あるいは、誰にも話せない何かなのか。


半兵衛は、そこで考えるのを止めた。


人には誰にでも秘密がある。


それを無理に暴く必要はない。


ただ――


これからも宗一郎の言葉を注意深く聞いておこう。


そう思った。


「宗一郎様」


「何だ?」


「浅井長政が、最後まで信長様に従うか」


半兵衛は改めて尋ねた。


「分からない」


宗一郎は答えた。


それは本心でもあった。


未来を知っている。


だが、その未来が同じように訪れる保証はない。


自分がすでに歴史を変えているからだ。


「だから、分からないものを決めつけない」


宗一郎は言った。


「今は、そう考えておけばいい」


半兵衛は静かに頷いた。


「承知しました」


そして、心の中で付け加える。


――それでも。


いつか聞いてみよう。


宗一郎様が、なぜそこまで先を見ているのか。


ただの勘なのか。


それとも――


何かを知っているのか。


その答えを、今すぐ求めるつもりはなかった。


半兵衛は、宗一郎という男を観察することにした。


敵としてではない。


家臣として。


友として。


そして――


まだ名もつけられない、わずかな疑念を抱く者として。


二人は再び地図へ目を落とした。


近江。


そこには、まだ戦の火は灯っていない。


浅井も。


織田も。


朝倉も。


まだ決定的な一線を越えてはいない。


だからこそ――


この時、宗一郎は浅井を攻めることを止めた。


それは小さな判断だった。


誰も、その重要性には気づかなかった。


だが。


後に歴史が大きく動いた時。


この判断が、織田家の運命を左右することになる。


そして宗一郎はまだ知らなかった。


近江の山々の向こうで。


浅井と朝倉。


二つの家の運命が、静かに絡み始めていることを。


歴史はまだ、誰にも見えないところで――


少しずつ、その形を変え始めていた。


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