第百三十章 長島炎上――信長の決断
第百三十章 長島炎上――信長の決断
天正二年、九月。
長島の堤に、銃声が響いた。
降伏した門徒たちが通るはずだった道は、瞬く間に戦場へ変わっていた。
「信長を討て!」
叫んだ男が懐から短刀を抜き、織田兵へ飛びかかった。
その背後から、さらに十数人が走り出す。
全員が武器を捨てたはずだった。
だが、衣の下には短刀が隠され、杖の中には細身の刃が仕込まれていた。
「裏切りだ!」
織田兵の一人が叫ぶ。
槍が突き出され、先頭の男の腹を貫いた。
しかし、男は槍の柄を掴んだまま倒れず、懐から火縄のついた小さな火薬筒を取り出した。
「南無阿弥陀仏!」
爆ぜる音が響いた。
火薬の量は多くなかったが、至近距離にいた織田兵二人が顔を押さえて倒れた。
その混乱に乗じ、別の男たちが堤の奥へ走る。
目指す先には、織田信長の本陣があった。
◆
「通すな!」
織田信興が馬上から叫んだ。
信興は退去路の警固を任されていた。
兄・信長の命令により、武器を捨てた者は通し、武装した者は捕らえる。
それが役目だった。
だが、今や目の前には敵味方の区別がつかない人々が入り乱れていた。
逃げ惑う女。
泣き叫ぶ子供。
その間を縫って刀を振るう門徒。
織田兵は槍を構えながらも、容易に突き出せずにいた。
「道を空けよ!」
信興は馬を降りた。
そして、逃げ惑う女たちを堤の脇へ誘導した。
「武器を持たぬ者は、こちらへ!」
その時、一人の男が近づいた。
痩せた僧形の男だった。
「お助けを……」
男は両手を合わせていた。
信興が振り向いた瞬間、僧の袖から刃が閃いた。
「殿!」
家臣が叫ぶ。
信興は身を捻ったが、刃は左肩を裂いた。
「ぐっ!」
信興が膝をつく。
僧はさらに刃を振り上げた。
だが、その前に家臣の槍が突き出された。
槍先が僧の胸を貫く。
僧は目を見開き、倒れた。
「信興様!」
家臣たちが駆け寄る。
信興は血の流れる肩を押さえながら、叫んだ。
「構うな! 退去路を守れ!」
「しかし!」
「女と子供を逃がせと言われたのだ! ここで道を閉じれば、何のための約束か!」
信興は歯を食いしばって立ち上がった。
その姿を見て、家臣たちが再び槍を構える。
だが、混乱は広がるばかりだった。
◆
宗一郎が現場へ駆けつけた時、堤の上にはすでに多くの死傷者が倒れていた。
「信興様は!」
「肩を負傷されましたが、ご無事です!」
宗一郎は安堵する間もなく、周囲を見渡した。
退去路は一本の細い堤道。
左右には水路がある。
人々が押し合えば、川へ落ちる者も出る。
このまま織田兵が前へ進めば、武器を持たぬ者まで巻き込まれる。
「半兵衛!」
「こちらに!」
「堤の南側に小舟を集めてください!」
半兵衛がすぐに意図を理解した。
「女と子供を船で逃がすのですね」
「はい。堤の上だけでは、人を分けられません」
「承知しました」
半兵衛は伝令を走らせた。
宗一郎は、近くの足軽大将へ命じた。
「鉄砲隊を下げろ!」
「しかし、敵が!」
「この距離で撃てば、逃げる者まで殺す!」
「では、どうすれば!」
「槍で道を塞げ。追うな。武器を捨てた者は通せ!」
足軽大将は一瞬迷った。
だが、宗一郎の声に従った。
槍を持つ兵たちが堤の中央へ並ぶ。
武装した門徒が突進してくる。
「押し返せ!」
槍が一斉に突き出された。
先頭の男が倒れる。
後ろの男たちは足を止めた。
宗一郎は叫んだ。
「刀を捨てろ! 捨てれば命は取らぬ!」
返ってきたのは怒号だった。
「織田の犬め!」
男が刀を振り上げて走り出す。
槍がその胸を貫いた。
宗一郎は歯を食いしばった。
助けたい。
だが、助けるためには、まず殺さなければならない者がいる。
その現実が、目の前にあった。
◆
信長の本陣。
織田信広が駆け込んできた。
「信長!」
「分かっておる」
信長は静かに答えた。
「信興が負傷したそうだな」
「左肩を斬られた。命に別状はない」
「そうか」
信長の表情は変わらなかった。
だが、信広には分かった。
弟を傷つけられた怒りが、信長の内側で燃えている。
「信長。宗一郎が退去路を守っておる」
「知っておる」
「ならば、今しばらく待て。まだ女や子供が残っておる」
信長は地図を見た。
長島本体。
屋長島。
篠橋。
残された砦と村々。
そこには、まだ武装した門徒たちが立て籠もっている。
「信広」
「何だ」
「儂は、降伏を認めた」
「そうだ」
「武器を捨てた者には、命を与えると約した」
「……ああ」
「その約束を、敵は破った」
信長の声が低くなった。
「儂の弟を斬り、兵を殺し、降伏の列を戦場に変えた」
信広は黙った。
信長は続けた。
「ここで許せば、次も同じことをする」
「だからといって、すべてを焼くのか」
信長は兄を見た。
「すべてではない」
その言葉に、信広が顔を上げた。
「宗一郎が逃がしておる者は、逃がせ」
「……信長」
「だが、残って武器を取る者は、一人残らず討つ」
信長は立ち上がった。
「長島の砦を焼け。逃げ道を塞ぎ、武器を持つ者を外へ出すな」
信広は息を呑んだ。
「火を使えば、逃げ遅れた者も死ぬぞ」
「承知しておる」
信長の声は、冷たかった。
「だから、今、逃がしておる」
そして、静かに言った。
「それでも残る者のために、儂の兵をこれ以上死なせるつもりはない」
◆
長島、屋長島砦。
下間頼成は、退去路での襲撃を聞いて顔色を失った。
「誰が命じた!」
側近は震えていた。
「分かりませぬ。降伏に反対する者たちが、独断で……」
「独断で、信長を討とうとしたのか!」
頼成は脇に置かれた木杯を叩きつけた。
「愚か者どもが!」
広間にいた門徒たちは顔を伏せた。
頼成は、すでに戦の終わりを悟っていた。
兵糧は尽きかけている。
援軍は敗れた。
織田軍は水路を押さえ、逃げ場をなくしている。
だからこそ、降伏を決めた。
それなのに、最後の最後で、すべてが壊された。
「まだ、退去できる者はおるか」
「一部は、高槻の兵が通しております」
「ならば、急がせよ!」
頼成は立ち上がった。
「武器を捨てた者は、すべて外へ出せ!」
「しかし、織田が許すかどうか……」
「許さぬなら、頼み込め!」
頼成の声が震えた。
「儂が頭を下げる。首を差し出してもよい。だが、子供らだけは――」
その時、外から叫び声が上がった。
「火だ!」
頼成が振り向く。
「何?」
「織田が、砦の外へ火を放ちました!」
頼成は戸口へ走った。
遠くの堤の向こうに、黒い煙が上がっていた。
それは、長島の終わりを告げる煙だった。
◆
午後。
織田軍は、屋長島と篠橋の周囲へ兵を進めた。
堤道には槍兵。
水路には小舟。
河口には九鬼の船が待機している。
信長の命令は明確だった。
武装した者を逃がさず、砦を焼く。
ただし、宗一郎が確保した退去路には火を近づけない。
丹羽長秀は、火を放つ部隊へ厳しく命じた。
「風向きを見よ! 南へ火が回れば、退去路まで燃える!」
足軽たちが頷いた。
しかし、火は人の命令通りには動かない。
乾いた葦が燃え、風が吹く。
炎は堤の外側から、砦の柵へと移っていった。
屋長島の門徒たちは、必死に水をかけた。
「桶を回せ!」
「井戸の水を!」
だが、砦の外には織田兵がいる。
水を汲みに出た者は、矢を浴びた。
火が広がる。
屋根が燃える。
煙が砦の中へ流れ込む。
頼成は、最後の兵を集めた。
「門を開ける」
側近が顔を上げた。
「討って出るのですか」
「そうだ」
「勝てませぬ!」
「分かっておる」
頼成は刀を抜いた。
「だが、ここで焼かれるよりはよい」
そして、残された門徒たちを見渡した。
「武器を捨てて出る者は、今すぐ行け。儂は止めぬ」
誰も動かなかった。
頼成は怒鳴った。
「生きたい者は、生きろ!」
その言葉に、何人かが泣きながら刀を置いた。
頼成は頷いた。
「それでよい」
そして、残った者たちへ向き直った。
「行くぞ」
門が開いた。
煙の中から、長島方の兵が飛び出した。
◆
「敵、討って出ます!」
織田方の見張りが叫んだ。
屋長島の門から、槍を持つ門徒たちが走り出す。
先頭には、下間頼成。
その数、二百余。
対する織田方は、堤の上に槍兵を並べていた。
「構え!」
足軽大将が叫ぶ。
長島方が突進する。
「南無阿弥陀仏!」
叫び声とともに、槍がぶつかった。
堤の上では、大軍を展開できない。
前に立つ者が倒れれば、後ろの者が進む。
織田方の槍兵が一人、胸を突かれて倒れた。
その隙へ、長島方の兵が飛び込む。
刀が振り下ろされ、織田兵の兜を叩いた。
織田方も押し返す。
槍が突き出され、長島方の兵が次々に倒れる。
だが、頼成は止まらなかった。
「押せ!」
頼成の刀が閃き、織田兵の槍を斬り払う。
続けて、肩口へ刃を叩き込んだ。
織田兵が倒れる。
その勢いに乗り、長島方が一時、堤の一角を押し返した。
「退くな!」
織田方の指揮官が叫ぶ。
だが、狭い堤では、後ろの兵が前へ出られない。
頼成は、その隙を逃さなかった。
「今だ! 抜けろ!」
長島方の一部が、堤を突破した。
しかし、その先には別の織田勢が待っていた。
滝川一益だった。
「ここまでだ」
一益は馬上から、静かに言った。
「鉄砲、構え」
織田方の鉄砲隊が横一列に並ぶ。
頼成は足を止めた。
逃げ道は、ない。
「撃て!」
轟音が響いた。
長島方の先頭が崩れた。
頼成も肩を撃たれ、膝をつく。
だが、刀を離さなかった。
「まだだ……!」
立ち上がろうとした、その時。
織田方の槍が、頼成の胸を貫いた。
頼成は目を見開いた。
刀が手から落ちる。
そして、ゆっくりと倒れた。
長島の指揮官、下間頼成。
その最期だった。
◆
夕刻。
屋長島は炎に包まれていた。
篠橋でも戦いが続いていたが、もはや組織的な抵抗は難しくなっていた。
宗一郎は、退去路の端に立っていた。
小舟が次々に人を運んでくる。
女。
子供。
老人。
傷ついた門徒。
武器を捨てた者たち。
宗一郎は、負傷者を運ぶ兵へ命じた。
「重傷者から治療所へ!」
「はっ!」
「水を切らすな! 火傷を負った者は、まず冷やせ!」
高槻技術所から来た医師たちが、必死に働いていた。
だが、運び込まれる負傷者は、後を絶たない。
その中に、一人の少女がいた。
十歳ほどだろうか。
少女は、煤で真っ黒になった顔で、宗一郎を見上げた。
「……お父は?」
宗一郎は言葉を失った。
「お父は、まだ中におるの」
少女は、燃える長島を指した。
「迎えに行ってくれる?」
宗一郎は、少女の前に膝をついた。
答えられなかった。
行けるものなら、行きたい。
だが、火はすでに砦を包み、織田兵でさえ近づけない。
「……名前は?」
「お春」
「お春」
宗一郎は、少女の手を握った。
「お父さんの名前を教えてくれるか」
少女は、震える声で答えた。
宗一郎は、その名を覚えた。
そして、近くの者へ伝えた。
「生存者の中に、父親がいないか探してくれ」
少女は宗一郎の袖を掴んだ。
「必ず、見つけてくれる?」
宗一郎は、すぐには答えられなかった。
やがて、静かに言った。
「探す。必ず探す」
それ以上の約束は、できなかった。
◆
夜。
長島の炎は、まだ消えていなかった。
信長は、本陣からその光景を見つめていた。
宗一郎が戻ってきた。
衣は煤に汚れ、顔には疲労が浮かんでいる。
「殿」
「何だ」
「退去できた者は、千を超えました」
「そうか」
「ですが、まだ中に残っている者がいます」
「知っておる」
信長は短く答えた。
宗一郎は拳を握った。
「火を止めることは、できませんか」
信長は宗一郎を見た。
「今さら止めて、どうする」
「残っている者を――」
「残っている者の中には、まだ槍を持つ者がおる」
「はい」
「その者が、また儂の兵を殺す」
「……」
信長は、炎へ視線を戻した。
「宗一郎。儂は、長島を二度と敵にしたくない」
「承知しています」
「だから、ここで終わらせる」
宗一郎は唇を噛んだ。
「殿は……後悔されませんか」
信長は、しばらく黙っていた。
やがて、低く答えた。
「後悔する暇があるなら、次の戦を考える」
宗一郎は顔を上げた。
信長の横顔は、炎に照らされていた。
冷酷だった。
だが、そこに迷いがないわけではない。
信長は、迷いを表へ出さないのだ。
「お前は、儂を恨むか」
突然、信長が尋ねた。
宗一郎は驚いた。
「……いいえ」
「ならば、何を思う」
宗一郎は、しばらく考えた。
「もっと、早く終わらせる方法がなかったのかと」
信長は笑わなかった。
「ならば、次は見つけよ」
宗一郎は顔を上げた。
「次は、儂に火を使わせぬ方法を考えよ」
その言葉は、慰めではなかった。
信長は、自分の決断を撤回しない。
だが、宗一郎に考えることを禁じてもいなかった。
「……御意」
宗一郎は深く頭を下げた。
◆
翌朝。
長島の炎は、ようやく弱まっていた。
砦は焼け落ち、村々には黒い柱が残っている。
戦は終わった。
長島一向一揆は、組織的な抵抗を失った。
だが、勝利を喜ぶ声は少なかった。
織田兵たちも、多くの仲間を失っている。
宗一郎は、焼け跡を見つめていた。
半兵衛が隣に立つ。
「宗一郎殿」
「はい」
「終わりましたな」
「……はい」
半兵衛は、しばらく黙っていた。
「これで、伊勢湾の道は開けます」
「そうですね」
「織田の力は、さらに大きくなります」
「はい」
宗一郎は、遠くの焼け跡を見た。
長島の戦いは、確かに終わった。
だが、信長と顕如の戦いは終わっていない。
そして、武田勝頼も、毛利輝元も、まだ織田に屈してはいない。
宗一郎は、静かに息を吐いた。
「半兵衛殿」
「何でしょう」
「次は、武田です」
半兵衛は頷いた。
「長篠、ですな」
「はい」
宗一郎は、かつて知っていた歴史を思い出した。
天正三年。
長篠の戦い。
織田・徳川連合軍と武田勝頼が激突する、戦国史の大きな転換点。
だが、この歴史では、勝頼はすでに長篠の危険を知っている。
史実と同じ戦いには、ならない。
宗一郎は、焼け跡から目を離した。
「今度は、未来の知識だけでは勝てません」
半兵衛は、静かに笑った。
「ならば、今を見て戦いましょう」
宗一郎は頷いた。
長島の炎は消えた。
しかし、戦国の火は、まだ消えていなかった。
その火は、次に三河の山々へと移ろうとしていた。




