第百二十九章 長島落日――信長の怒り
第百二十九章 長島落日――信長の怒り
天正二年、九月。
長島を囲む水面に、秋の風が吹いていた。
木曽川、長良川、揖斐川。
幾筋もの流れに守られてきた長島は、今やその川によって外の世界から切り離されていた。
大鳥居、中江の砦は落ちた。
織田軍は周囲の水路を押さえ、伊勢湾からの船も近づけなくなっている。
残された長島方の拠点は、屋長島、篠橋をはじめとする幾つかの砦と、その周辺の村々だった。
信長は、すぐには総攻撃を命じなかった。
兵糧を断ち、降伏を待ったのである。
しかし、その静かな包囲の内側では、すでに別の戦いが始まっていた。
◆
長島、願証寺。
下間頼成の前に、痩せた男が連れてこられた。
男は村の庄屋だった。
「頼成様。どうか、米をお返しください」
「何を申す」
「村に残された米を、すべて兵糧として持っていかれました。子供らに食わせるものがございませぬ」
頼成は目を閉じた。
「戦が終われば、返す」
「戦が終わるまで、子供らは生きておれませぬ!」
庄屋の叫びに、周囲の武装した門徒たちが槍を構えた。
「無礼者!」
頼成は手を上げ、制した。
「……分かっておる」
庄屋は涙を流した。
「ならば、どうか」
頼成は答えられなかった。
兵糧は足りない。
外からの補給も途絶えた。
それでも、織田に降伏すれば、自分たちがどう扱われるか分からない。
比叡山で起きたことを、誰もが知っている。
織田信長という男が、寺社であることを理由に刃を止める人物ではないことも。
「……三日分だけ渡せ」
頼成は側近へ命じた。
「それ以上は、今は出せぬ」
庄屋は何度も頭を下げた。
だが、去っていく背中に希望はなかった。
側近が低く言った。
「このままでは、村々から反発が出ます」
「分かっておる」
「降伏を考えるべきでは」
頼成は顔を上げた。
「降伏して、信長が許すと思うか」
「高槻宗一郎という男は、武器を捨てた者を逃がすと申しております」
「宗一郎が許しても、信長が許すとは限らぬ」
頼成は拳を握った。
「それに、我らが降れば、石山はどうなる」
側近は答えなかった。
長島は、石山本願寺を支える重要な拠点の一つである。
ここが落ちれば、織田の勢力は伊勢湾からさらに広がる。
頼成は、その責任を背負っていた。
だが、責任を背負うことと、人々を生かすことは、必ずしも同じではなかった。
◆
織田軍本陣。
宗一郎は、捕らえた門徒から聞き取った話を半兵衛へ伝えていた。
「城内では、すでに食糧が不足しています」
「でしょうな」
半兵衛は地図を見た。
「このまま包囲を続ければ、敵は降るか、死ぬかしかありません」
「はい」
「ですが、問題はその後です」
宗一郎は頷いた。
「降伏を受け入れるかどうか」
半兵衛は静かに言った。
「信長様のお考え次第です」
宗一郎は、信長のもとへ向かった。
信長は、川向こうの長島を見つめていた。
「殿」
「何だ」
「城内では、すでに餓死者が出始めております」
「そうか」
信長の声は、平坦だった。
「降伏を促す使者を、もう一度出したいと思います」
「前にも出した」
「はい」
「返事は」
「ございません」
信長は宗一郎を見た。
「ならば、待て」
「しかし」
「宗一郎」
信長の声が低くなった。
「儂は、長島を滅ぼすためだけに兵を集めたのではない」
宗一郎は顔を上げた。
「二度と長島を敵の拠点にさせぬためだ」
「承知しています」
「ならば、敵の力が尽きるまで待つ」
信長は川を指した。
「敵が飢えているのなら、こちらが勝っている証拠だ」
宗一郎は唇を噛んだ。
戦としては正しい。
兵糧攻めは、攻城側の損害を抑えるための方法でもある。
だが、その内側には兵だけでなく、女も子供もいる。
「殿。武器を捨てた者の退去だけは、認めていただきたい」
信長はしばらく黙っていた。
「認めよう」
宗一郎は安堵しかけた。
しかし、次の言葉が続いた。
「ただし、今すぐだ」
「……はい?」
「降るなら、今すぐ降れ。兵糧が尽きてから、命だけ助けろと申しても、儂は聞かぬ」
信長の目は冷たかった。
「戦の初めに降る者と、負けが決まってから降る者を、同じに扱うつもりはない」
宗一郎は言葉を失った。
それは、信長の戦の理屈だった。
◆
石山本願寺。
長島からの使者が、顕如の前に膝をついた。
「長島は、もはや限界にございます」
顕如は顔を上げた。
「兵糧は」
「残りわずか。村々では、すでに飢えが広がっております」
「織田は」
「周囲の水路を押さえ、船を通しませぬ」
顕如は拳を握った。
「信長め……」
側近が進み出た。
「猊下。長島を救うには、紀伊の門徒衆を動かすほかございませぬ」
「動かせるのか」
「雑賀の者たちに頼めば、船を出すことはできましょう」
「織田の船を破れるか」
「それは……」
顕如は立ち上がった。
「ならば、何のための援軍だ!」
怒声が御堂に響いた。
側近たちは頭を下げた。
顕如は荒い息を吐いた。
長島を見捨てれば、各地の門徒たちが動揺する。
だが、無理に援軍を出せば、石山の守りが薄くなる。
顕如は、しばらく考えた。
そして、決断した。
「紀伊へ書状を出せ」
「援軍を?」
「そうだ」
側近が顔を上げる。
「しかし、猊下。今、船を出せば――」
「分かっておる!」
顕如が遮った。
「分かっておるが、長島を見捨てるわけにはいかぬ!」
その声には、怒りと焦りが混じっていた。
冷静に考えれば、危険な決断だった。
だが、顕如には、信仰を頼りに戦ってきた者たちを見捨てることができなかった。
そして、その決断が新たな犠牲を生むことになる。
◆
数日後。
伊勢湾の沖合に、紀伊からの船団が現れた。
小舟を中心とした二十余艘。
兵糧と武器を積み、長島へ向かっていた。
しかし、その動きはすでに九鬼嘉隆の耳に入っていた。
「来たか」
嘉隆は船上で笑った。
隣には、滝川一益の配下の水軍がいる。
宗一郎も、その船に乗っていた。
「数は二十余艘です」
宗一郎が言った。
「こちらは十五艘ほど」
「数では負けておるな」
嘉隆は平然としていた。
「ですが、船の大きさはこちらが上です」
「大きければ勝てるわけではない」
嘉隆は海を見た。
「敵は長島へ入ろうとしておる。ならば、入れぬ場所へ追い込めばよい」
嘉隆は船頭へ命じた。
「潮を見ろ。満ち始めたら動く」
宗一郎は地図を広げた。
伊勢湾の河口には、浅瀬が幾つもある。
潮が満ちれば通れる場所も、引けば船底が泥に触れる。
嘉隆は、その地形を利用するつもりだった。
「宗一郎」
「はい」
「大筒は使えるか」
「二門だけなら」
「十分だ」
嘉隆は笑った。
「敵を沈める必要はない。進路を変えさせればよい」
◆
午後。
紀伊の船団が河口へ近づいた。
その時、九鬼の船が横から現れた。
「織田の船だ!」
紀伊方の船頭が叫ぶ。
「突破せよ!」
船団が速度を上げた。
九鬼の船から鉄砲が撃たれる。
紀伊方も撃ち返した。
海上に白煙が広がる。
その中で、宗一郎の大筒が火を噴いた。
轟音。
鉄弾が紀伊方の先頭船の前方へ落ち、水柱を上げた。
「外れた!」
砲手が叫ぶ。
「構いません!」
宗一郎は答えた。
「敵の進路を変えればいい!」
二発目。
今度は船の舷側をかすめ、木片を飛ばした。
紀伊方の先頭船が大きく舵を切る。
後続の船も、それに続いた。
だが、その先には浅瀬があった。
嘉隆は潮を見ていた。
「今だ」
九鬼の船が一斉に進路を変えた。
紀伊方の船団は、浅瀬と九鬼の船に挟まれた。
「戻れ!」
紀伊方の指揮官が叫ぶ。
しかし、後続の船が詰まっている。
一艘が浅瀬へ乗り上げた。
続く船が衝突する。
そこへ、九鬼の船が迫った。
「鉤縄を投げろ!」
九鬼の水夫たちが敵船へ取りつく。
刀が交わる。
槍が突き出される。
紀伊方も必死に抵抗した。
だが、船が動けない。
その差は大きかった。
夕刻。
紀伊の船団は敗れた。
数艘が逃れたものの、兵糧の大半は織田方に奪われた。
宗一郎は、甲板に倒れた敵兵を見た。
まだ若い男だった。
胸を槍で突かれ、息をしていない。
その手には、数珠が握られていた。
宗一郎は目を閉じた。
信仰を持つことと、戦場で人を殺すこと。
その二つが、同じ男の中に存在している。
それが、この時代だった。
◆
長島。
援軍敗北の報せは、城内に絶望を広げた。
下間頼成は、しばらく黙っていた。
「……終わりか」
側近が顔を上げる。
「頼成様」
「兵糧は尽きる。援軍も来ぬ」
頼成は地図を見た。
「これ以上、戦えば、村の者が死ぬだけだ」
側近が震える声で尋ねた。
「では、降伏を?」
頼成は頷いた。
「使者を出す」
その言葉に、周囲の者たちがざわめいた。
「信長に降るのですか!」
「我らは、仏法のために戦ってきたのですぞ!」
頼成は立ち上がった。
「仏法のために、子供を飢え死にさせるのか!」
広間が静まり返った。
頼成は続けた。
「我らが守るべきものは、寺の屋根ではない。そこに生きる人々だ」
誰も答えられなかった。
その夜、長島から白旗を掲げた小舟が出た。
織田軍へ、降伏を申し出るためだった。
◆
信長の本陣。
使者の言葉を聞いた信長は、しばらく黙っていた。
「今さら降ると申すか」
「はっ」
使者は震えていた。
「武器を捨て、長島を明け渡します。どうか、門徒たちの命だけは……」
信長は、使者を見下ろした。
「これまで、何度降伏の機会を与えた」
使者は答えられなかった。
「儂の兵を殺し、船を焼き、道を塞ぎ、最後まで抗った」
信長の声は、静かだった。
「そして、米が尽きたから命を助けよと申すのか」
使者は額を地につけた。
「何卒……」
信長は立ち上がった。
「宗一郎」
「はい」
「お前は、どう思う」
宗一郎は一瞬、息を止めた。
信長は、試している。
戦を終わらせるための判断。
そして、命を救うための判断。
その二つを、宗一郎に突きつけていた。
「殿」
宗一郎は、ゆっくりと口を開いた。
「長島は、すでに戦う力を失っています」
「それで」
「ここで降伏を受け入れれば、これ以上の兵の損害は避けられます」
「敵の命も救えるな」
「はい」
信長は冷たく笑った。
「それが、お前の答えか」
「……はい」
信長は、しばらく宗一郎を見つめた。
そして、使者へ向き直った。
「よかろう」
宗一郎が顔を上げた。
「降伏を受け入れる」
使者が涙を流した。
「ありがたき幸せにございます!」
だが、信長は続けた。
「ただし、武器はすべて捨てよ。兵は一人ずつ出てこい。指揮官は別に捕らえる」
「はっ!」
「女と子供は、宗一郎の定めた道を通せ」
宗一郎は深く頭を下げた。
「御意」
信長は、最後に言った。
「そして、降伏を装って刃を向けた者が一人でもおれば――」
その声が冷たく響いた。
「その時は、儂も約束を守らぬ」
◆
翌朝。
長島の門が開いた。
痩せた門徒たちが、武器を捨てて外へ出てくる。
女たちは子供の手を引き、老人たちは杖をついて歩いた。
宗一郎は、退去の道を見守っていた。
半兵衛が隣に立つ。
「宗一郎殿」
「はい」
「これで、戦が終わればよいのですが」
宗一郎は頷いた。
「……そうですね」
その時だった。
列の中ほどで、突然、叫び声が上がった。
「信長を討て!」
武器を隠していた門徒たちが、一斉に刀を抜いた。
織田方の兵へ襲いかかる。
「敵襲!」
鉄砲が鳴った。
槍が突き出された。
退去の列は、瞬く間に混乱した。
宗一郎は叫んだ。
「女と子供を下がらせろ!」
だが、すでに遅かった。
信長の本陣にも、その報せが届いていた。
信長は、ゆっくりと立ち上がった。
「……やはりな」
その目に、怒りが宿った。
「儂の慈悲を、仇で返したか」
信長は扇を閉じた。
そして、冷たく命じた。
「長島を焼け」
その一言が、長島の運命を決めた。
宗一郎が変えようとしていた歴史は、ここで再び、史実の暗い影へと近づいていく。
長島の戦いは、まだ終わっていなかった。




