第百二十八章 長島決戦――三川を封じる
第百二十八章 長島決戦――三川を封じる
天正二年、夏。
伊勢国桑名に、織田の旗が集まった。
尾張から丹羽長秀、佐久間信盛。伊勢から滝川一益。織田信広、信興の兄弟も兵を率いて着陣した。
そして、織田信長自身が岐阜を発った。
集められた兵は三万を超える。
しかし、その大軍を前にしても、長島の一揆勢は城門を開かなかった。
長島は、平地の城とは違う。
木曽川、長良川、揖斐川が幾筋にも分かれ、洲と島を作り、堤に囲まれた村々を守っている。大軍が横一列に並んで進める道など、ほとんどなかった。
細い堤道の左右には、水田と泥深い湿地。
舟を使えば移動できるが、潮が引けば浅瀬に乗り上げる。
そして敵は、その土地を知り尽くしていた。
信長の本陣が桑名に置かれた日の夕刻、宗一郎は滝川一益とともに川岸へ立っていた。
「先日の敗戦で、敵は我らを侮っておりましょう」
宗一郎が言うと、一益は首を振った。
「いや。敵の大将がまともなら、侮るまい」
「なぜです」
「こちらが敗れた後、殿が三万を動かしたからだ」
一益は川向こうを指した。
「あちらは勝った。だが、こちらは勝つまで攻めると決めた。どちらが恐ろしいか、考えれば分かる」
宗一郎は黙って頷いた。
川の向こうでは、長島方の見張り火が幾つも揺れている。
宗一郎は、前回の敗戦で失った十八人の顔を思い出した。
あの時は、川を知らなかった。
今度は違う。
◆
翌朝、軍議が開かれた。
信長は地図を前に、諸将を見渡した。
「まず、どこを攻める」
佐久間信盛が答えた。
「大鳥居、中江の砦を押さえ、長島本体へ迫るのがよろしいかと」
「道は」
「堤を進みます」
「敵は何をする」
「堤の上で迎え撃ちましょう」
信長は宗一郎へ目を向けた。
「お前はどう見る」
宗一郎は地図の上へ、細い木札を置いた。
「堤を正面から攻めれば、こちらの兵数を活かせません」
「三万いてもか」
「はい。堤の幅が狭ければ、前に出られるのは数十人です。後ろの兵は、前が倒れるのを待つしかありません」
半兵衛が続けた。
「しかも敵は、堤の両側から船で迫れます。前を塞ぎ、横から撃たれれば、逃げ場がなくなります」
信長は頷いた。
「ならば、どうする」
「堤を攻める前に、堤の両側を押さえます」
宗一郎は地図の上に三つの木札を置いた。
「一益殿の船を東側へ。長秀殿の船を西側へ。九鬼殿には河口からの出入りを監視していただきます」
信長が尋ねた。
「九鬼は承知したか」
「条件付きで」
「申せ」
「志摩から出す船と水夫の費用は織田が負担すること。九鬼の船の指揮は九鬼殿が執ること。そして、戦後の伊勢湾の通商について、九鬼の権益を認めることです」
信長は少し考えた。
「よかろう」
滝川一益が口を開いた。
「だが、船だけでは足りぬぞ。敵は浅瀬を知っておる」
「だから、地元の船頭を雇いました」
宗一郎は答えた。
「桑名と尾張の川船衆です。長島の一揆勢に従わず、これまで商いを妨げられていた者もいます」
「信用できるか」
「全員を無条件に信用するつもりはありません。複数の船頭に同じ水路を確かめさせました」
半兵衛が木札を動かした。
「そして、最初の攻撃は大鳥居へ向けます。ただし、主攻は堤の正面ではありません」
信長の目が細くなった。
「どこだ」
「川からです」
◆
長島、大鳥居砦。
下間頼成は、織田軍の動きを聞いて眉をひそめた。
「東西に船を出しただと」
「はい。堤の両側へ進んでおります」
「大船か」
「小舟が中心にございます」
頼成は舌打ちした。
「前の敗戦から学んだか」
地侍の一人が言った。
「ならば、再び火船を使いましょう」
「同じ手が二度通じると思うな」
頼成は即座に退けた。
「織田は、こちらが火船を使うことを知っている。今度は先に射られる」
「では、どういたします」
頼成は地図を見た。
大鳥居砦の前には細い堤道がある。
左右には水路。
正面から攻める敵を防ぐには、絶好の地形だった。
「堤の前へ柵を二重に築け。鉄砲は正面へ集める」
「船は」
「左右へ分けよ。敵が堤を攻め始めたら、横から撃つ」
頼成は冷たく笑った。
「織田が川を使うなら、こちらも川を使うまでだ」
しかし、その判断が、宗一郎と半兵衛の狙いだった。
◆
午前。
大鳥居砦の前へ、織田軍の先鋒が進んだ。
先頭は佐久間勢。
槍を持つ足軽が堤道を進み、その後ろに鉄砲隊が続く。
砦から鐘が鳴った。
「敵襲!」
長島方の鉄砲が火を噴く。
堤の上を進んでいた織田兵が倒れた。
「伏せろ!」
佐久間勢の指揮官が叫ぶ。
織田方も鉄砲を撃ち返す。
白煙が堤を覆った。
だが、砦の柵は簡単には崩れない。
その時、長島方の船が左右の水路から現れた。
「今だ!」
船上の門徒たちが鉄砲を構える。
堤道の織田兵へ、横から弾が飛んだ。
織田方の先頭が崩れる。
「退け!」
佐久間勢が後退を始めた。
長島方の船頭たちが歓声を上げる。
「逃げるぞ!」
「追え!」
船が前へ出た。
その瞬間だった。
東側の水路から、滝川一益の小舟が現れた。
「撃て!」
織田方の鉄砲が一斉に火を噴く。
長島方の船上で、門徒たちが倒れた。
同時に、西側から丹羽勢の小舟が迫る。
長島方の船は、左右から挟まれた。
「罠だ!」
誰かが叫んだ。
長島方の船頭が舵を切る。
だが、水路は狭い。
後ろから来た船とぶつかり、二艘が横向きになった。
そこへ、織田方の小舟が鉤縄を投げた。
「引け!」
長島方の船が引き寄せられる。
槍が突き出された。
門徒の一人が胸を貫かれ、川へ落ちた。
別の男が刀を振り上げる。
織田方の足軽が盾で受け、横から槍を突き込んだ。
船上で血が飛び散った。
長島方も必死に抵抗した。
鉄砲を撃ち、槍を突き、船縁を蹴って織田兵を川へ落とす。
だが、船の数で劣る。
しかも、退路を塞がれていた。
宗一郎は後方の船から、その様子を見ていた。
「敵船が詰まりました!」
伝令が叫ぶ。
宗一郎は頷いた。
「大筒を前へ」
船上に据えられた小型の大筒が、ゆっくりと向きを変えた。
狙いは、砦の木柵。
敵船ではない。
「距離、二百歩!」
「まだ遠い」
宗一郎は首を振った。
「もう少し近づけます」
船頭が不安げに言った。
「敵の鉄砲が届きますぞ」
「承知しています」
宗一郎は砲手へ目を向けた。
「一発で決める必要はありません。ただし、味方の船が射線に入ったら撃つな」
船が進む。
砦の木柵が近づいた。
「今です!」
砲手が火縄を近づけた。
轟音。
大筒が火を噴いた。
鉄弾は水面を跳ね、砦の柵へ突き刺さった。
木片が飛び散る。
「命中!」
だが、柵は倒れない。
「次弾!」
砲手たちが急いで装填する。
その間に、砦から鉄砲が撃ち返された。
宗一郎の船の舷側に弾が当たり、木片が飛んだ。
「伏せてください!」
半兵衛が叫ぶ。
宗一郎は身を低くした。
「二発目!」
再び轟音。
今度は柵の支柱が砕けた。
木柵の一部が大きく傾く。
「佐久間勢へ合図!」
半兵衛が叫んだ。
旗が振られる。
後退していた佐久間勢が、再び前へ出た。
「進め!」
槍を持つ足軽たちが堤道を駆ける。
長島方は鉄砲を撃とうとしたが、左右の船を失い、砦の守りも乱れていた。
織田兵が柵へ取りつく。
槍が交わる。
刀がぶつかる。
砦の門が破られた。
「押し込め!」
佐久間勢が雪崩れ込む。
長島方の指揮官は最後まで抵抗した。
だが、背後から回り込んだ丹羽勢に退路を断たれ、討ち取られた。
昼過ぎ。
大鳥居砦は陥落した。
◆
信長の本陣。
「大鳥居、落ちました」
丹羽長秀が報告した。
信長は短く頷いた。
「損害は」
「こちらの死者二十余、負傷者六十余。敵は百余を討ち取り、船七艘を捕らえました」
「よし」
信長は地図を見た。
「次は中江だ」
宗一郎が進み出た。
「殿。中江へ攻める前に、捕らえた船を使わせてください」
「何に」
「敵の退路を断ちます」
信長は宗一郎を見た。
「逃げ道を残すと言ったのではなかったか」
「残します」
宗一郎は地図を指した。
「ただし、武装した兵が船で逃げ、別の砦へ入る道は断ちます」
信長の口元が上がった。
「なるほど」
「降伏する者には、武器を捨てて陸へ出る道を用意します」
「その道を使わぬ者は」
「敵として扱います」
信長は笑った。
「よかろう」
そして、諸将へ命じた。
「中江を攻めよ。だが、長島本体へはまだ入るな」
滝川一益が顔を上げた。
「なぜにございますか」
「敵を一つずつ潰す」
信長は地図の中央を指した。
「外を失えば、中の者は飢える」
その声は、冷たかった。
「今度こそ、長島を終わらせる」
◆
長島、願証寺。
大鳥居陥落の報せを聞いた下間頼成は、拳を握り締めた。
「……やられたか」
側近が言った。
「織田は、左右の水路を押さえたうえで砦を攻めました」
「高槻か」
「おそらく」
頼成は地図を見た。
大鳥居を失えば、外からの兵糧が入りにくくなる。
中江も落ちれば、長島の防備は大きく崩れる。
「石山へ使いを出せ」
「援軍を求めますか」
「そうだ」
頼成は即答した。
「このままでは、長島は持たぬ」
側近が躊躇った。
「しかし、石山も織田と戦っております」
「分かっておる!」
頼成が怒鳴った。
そして、深く息を吐いた。
「……分かっておる」
頼成は地図の中央へ目を落とした。
長島には、兵だけでなく、多くの門徒とその家族がいる。
逃げ道を失えば、すべてが戦に巻き込まれる。
「中江を守れ」
頼成は命じた。
「ただし、守りきれぬと判断したら、兵を引け」
「どこへ」
「長島本体へ」
側近が頷いた。
頼成は、もう一つ命じた。
「女と子供を、奥の村へ移せ」
「はい」
「そして、兵糧を集めよ」
その言葉に、側近が顔を上げた。
「村々から、さらに?」
「そうだ」
「すでに米は少なく……」
「それでも集めよ!」
頼成は怒鳴った。
側近は頭を下げた。
頼成は、しばらく黙っていた。
やがて、低く呟く。
「……すまぬ」
その言葉を聞いた者はいなかった。
◆
翌日。
中江砦の前に、織田軍が現れた。
だが、今度は正面から攻めなかった。
宗一郎は、捕らえた長島方の船を水路へ並べさせた。
船の上には、槍を持つ足軽。
その後ろには、鉄砲隊。
中江砦の守備兵は、前方の織田軍と、川の船を交互に見た。
「どちらを防ぐ!」
指揮官が叫ぶ。
その時、背後から鐘が鳴った。
別の水路を進んだ滝川勢が、砦の後ろへ回り込んでいた。
「背後に敵!」
中江砦は、三方から囲まれた。
守備兵たちは必死に抵抗した。
だが、半日も持たなかった。
夕刻。
中江砦も陥落した。
織田軍は、長島の外郭をほぼ制圧した。
残るは、長島本体と幾つかの砦。
そして、その中には、なお多くの門徒たちが立て籠もっていた。
◆
信長は、長島を望む高台に立っていた。
川の向こうに、寺の屋根が見える。
その周囲には、村々が広がっている。
「宗一郎」
「はい」
「ここから先は、どうする」
宗一郎は答えた。
「兵糧を断ち、降伏を促します」
「どれほど待つ」
「敵の蓄えによりますが……」
「一月か。二月か」
「……」
信長は宗一郎を見た。
「待つ間にも、こちらの兵は死ぬ」
「はい」
「病も出る。米も減る」
「承知しています」
「ならば、覚えておけ」
信長の声が低くなった。
「儂は、いつまでも待たぬ」
宗一郎は深く頭を下げた。
「御意」
信長は長島を見た。
その目には、迷いがなかった。
「降るなら今だ」
そして、静かに続けた。
「次に刃を向けた時は、容赦せぬ」
長島を囲む川の流れは、何事もなかったように続いていた。
だが、その川は、もはや長島を守るだけのものではなかった。
織田軍が水路を押さえた今、川は長島を閉じ込める壁へと変わっていた。
そして、城内では、兵糧の残りを告げる鐘が鳴り始めていた。




