第百二十七章 長島、炎の前夜
第百二十七章 長島、炎の前夜
天正二年、春。
尾張と伊勢の境を流れる木曽三川は、雪解けの水を集め、豊かな流れを見せていた。
木曽川、長良川、揖斐川。
三つの大河は幾筋にも分かれ、合流し、低湿地を縫うように伊勢湾へ注いでいる。その間に点在する村々は、堤によって水を防ぎ、水路によって外の世界と結ばれていた。
長島。
それは一つの城の名ではない。
川と海と湿地に守られた、幾つもの村と砦の集まりだった。
織田信長が二度にわたり攻めながら、容易には屈服させられなかった土地である。
そして今、信長は三度目の大軍を差し向けようとしていた。
◆
岐阜城の大広間には、伊勢と尾張の地図が広げられていた。
信長を中心に、滝川一益、丹羽長秀、佐久間信盛、織田信広、そして高槻宗一郎と竹中半兵衛が座している。
信長の弟、織田信興もいた。
本来なら、元亀元年に小木江城で一向一揆勢に攻められ、自害するはずだった男である。
だが、この歴史では違った。
宗一郎が事前に危険を知らせ、信長が兵を動かし、信興は命を拾っていた。
もっとも、本人にとってそれは単純な幸運ではなかった。
救われた命。
救えなかった家臣。
そして、長島への屈辱。
そのすべてを、信興は忘れていない。
「此度こそ、長島を平らげます」
信興が口を開いた。
「小木江で失った者たちの無念、晴らさずにはおられませぬ」
信長は弟を見た。
「無念を晴らすために戦うのか」
「……兄上」
「それとも、長島を二度と敵の拠点にさせぬために戦うのか」
信興は唇を引き結んだ。
「両方にございます」
「ならば、怒りで兵を動かすな」
信長は冷たく言った。
「怒りは儂が引き受ける。お前は勝つことだけを考えよ」
信興は深く頭を下げた。
「はっ」
宗一郎は、そのやり取りを黙って見ていた。
信長は弟を大切にしている。
だが、それを甘い言葉で示す男ではない。
むしろ、生き残らせるためにこそ厳しく接する。
「宗一郎」
「はい」
「川を押さえると言ったな。どうする」
宗一郎は地図の上に三本の紐を置いた。
「まず、長島へ通じる水路を分けて考えます。大河をすべて封じるのは不可能です」
「ならば、どこを押さえる」
「船が集まる場所です」
宗一郎は木札を置いた。
桑名。
大鳥居。
中江。
屋長島。
篠橋。
「長島の一揆勢は、川を道として使っています。陸の道が塞がれても、小舟で兵糧を運び、兵を動かせる」
半兵衛が続けた。
「こちらが陸から攻めれば、敵は川を渡って背後へ回ることもできます」
「その通りです」
宗一郎は信長を見た。
「ですから、城を攻める前に、船を押さえます」
滝川一益が腕を組んだ。
「船なら伊勢から出せる。だが、川筋は海とは違うぞ」
「承知しています」
「潮が変われば浅瀬も変わる。大船を入れれば、身動きが取れなくなる」
「だから、小舟を使います」
宗一郎は新たな木札を置いた。
「伊勢の船頭、尾張の川船、そして地元の水先案内人を集めます。大きな軍船は河口を押さえ、内側は浅瀬を通れる小舟で動く」
信長が尋ねた。
「九鬼は使えるか」
「協力は求めます。ただし、九鬼殿の船を勝手に動かすことはできません」
「分かっておる」
信長は短く答えた。
「志摩の海は九鬼のものだ。必要なら、相応の条件を出せ」
宗一郎は頷いた。
信長が他家の独立を尊重しているわけではない。
今は、九鬼を無理に従わせるより、協力させた方が得だと判断しているのだ。
「それと、もう一つ」
宗一郎は地図の西側を指した。
「敵を逃がす道を、最初から決めておきたいと思います」
広間の空気が変わった。
佐久間信盛が眉をひそめる。
「逃がす道?」
「はい。武器を捨てた者が出られる場所です」
「長島の者を逃がすのか」
「武器を持つ者と、持たぬ者を分けたいのです」
信興が身を乗り出した。
「宗一郎殿。長島には、幾度も織田へ刃を向けた者がいるのですぞ」
「承知しています」
「女や子供に紛れて逃げる者もおりましょう」
「だからこそ、出口を決めます。誰が出たかを確かめ、武器を預かり、後で身元を調べられるようにする」
信興はなお不満そうだった。
宗一郎は続けた。
「逃げ道をなくせば、戦うつもりのなかった者まで、最後には武器を取ります」
半兵衛が静かに頷いた。
「追い詰められた者は、強くなります。勝つためには、敵の数を減らすことも必要です」
信長はしばらく黙っていた。
やがて、宗一郎に問う。
「逃げた者が、再び一揆に加わったらどうする」
「その時は、再び敵として扱います」
「甘いな」
信長の言葉は鋭かった。
「一度逃がした者が、次にお前の兵を殺すかもしれぬ」
「はい」
「それでも逃がすか」
宗一郎は信長の目を見た。
「武器を捨て、戦う意思を失った者まで殺せば、今度はその子や親類が敵になります」
「敵になる者は、何をしても敵になる」
「そうかもしれません」
「ならば」
「ですが、敵にしなくて済む者まで敵にする必要はありません」
広間が静まり返った。
信長は宗一郎を睨んだ。
宗一郎も目を逸らさなかった。
しばらくして、信長が笑った。
「相変わらず、口だけは達者だ」
「殿に鍛えられました」
「抜かせ」
信長は扇を閉じた。
「よかろう。出口を設けることは許す」
宗一郎が頭を下げようとした、その時だった。
「ただし」
信長の声が冷たくなる。
「降伏を装って刃を向けた者は、容赦なく討て。武器を隠して出てくる者も同じだ」
「御意」
「そして、出口を守る兵が危うくなれば、道を閉じよ」
宗一郎は一瞬、息を止めた。
信長は言った。
「儂の兵の命を、敵のために捨てるつもりはない」
その言葉に、反論はできなかった。
◆
長島、願証寺。
織田軍の動きは、すでに一揆勢へ伝わっていた。
寺の広間には、僧侶、地侍、村の有力者たちが集まっている。
その中心にいたのは、長島の防備を預かる指揮官、下間頼成だった。
石山から派遣された坊官であり、戦場の経験も持つ男である。
「織田は、また来る」
頼成は地図を広げた。
「今度は、陸だけではない」
地侍の一人が鼻を鳴らした。
「船を出してくると?」
「そうだ」
「ならば、浅瀬へ誘えばよい。織田の船など、川を知らぬ者が動かしておろう」
「それが通じれば苦労はせぬ」
頼成は冷たく言った。
「高槻宗一郎がいる」
その名を聞き、広間が静まった。
「織田の鉄砲を変えた男か」
「鉄砲だけではない。兵糧も、船も、道も変えた」
頼成は地図を指した。
「こちらが川を使うことなど、分かっておろう」
若い門徒が声を上げた。
「ならば、先に攻めましょう!」
「どこを」
「桑名です! 織田の船が集まる前に!」
「何人で」
「門徒を集めれば、五百、いや千は――」
「その千人を、どうやって戻す」
若者は言葉に詰まった。
頼成は続けた。
「敵が来る前に飛び出し、敵の前で孤立する。それは勇敢ではない。愚かだ」
広間の奥から、年老いた僧が口を開いた。
「頼成殿。では、石山へ援軍を求めるのか」
「求める」
「顕如様がお出しになると?」
「分からぬ」
頼成は正直に答えた。
「石山も織田に囲まれておる。こちらへ大軍を送る余裕はあるまい」
「ならば、どうする」
頼成は地図の水路を指した。
「敵を中へ入れる」
全員が顔を上げた。
「中へ?」
「そうだ。織田が川を押さえようとするなら、押さえさせる」
頼成は木札を一つ置いた。
「ただし、押さえたと思わせる場所を、こちらが選ぶ」
そして、静かに続けた。
「川は、満ちる。引く。流れも変わる」
頼成は笑わなかった。
「織田の兵に、そのことを教えてやる」
◆
伊勢国、桑名。
滝川一益は、川岸に集まった船を見渡していた。
小舟が二十余艘。
関船が数艘。
さらに、荷を運ぶ川船が続く。
宗一郎が整えた船砲も、少数ながら持ち込まれていた。
「まだ足りんな」
一益が呟く。
隣にいた宗一郎が頷いた。
「船だけでなく、船頭も足りません」
「川を知る者は、長島にも多い」
「だから、こちらへ協力してくれる者を探しています」
「銭か」
「銭も必要です」
宗一郎は川を見た。
「ですが、銭だけではありません」
長島の一揆勢に従わない村もある。
寺に米を出し続けることへ不満を持つ百姓もいる。
戦が続くことで、商いを失った船頭もいる。
その者たちに、織田へ協力する理由を示さなければならない。
「戦が終われば、川の通行を保証する」
宗一郎は言った。
「船を奪わず、商いを認める。そう約束します」
一益が横目で見た。
「守れるのか」
「守らせます」
「誰に」
「俺が責任を持ちます」
一益は鼻を鳴らした。
「若いな」
「よく言われます」
「だが、悪くない」
一益は川へ視線を戻した。
「船頭を敵に回せば、川では勝てぬからな」
その時、一人の足軽が駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何だ」
「上流の見張りより報せ! 長島方の小舟、十数艘が動きました!」
一益の目が鋭くなる。
「どこへ」
「こちらへ向かっております!」
「兵は」
「不明! ただし、船腹が深く沈んでおります!」
宗一郎が眉をひそめた。
「荷を積んでいる?」
「あるいは兵だ」
一益は即座に命じた。
「船を出せ! だが、深追いするな!」
織田方の小舟が動き始めた。
宗一郎も船へ乗り込もうとした。
「宗一郎!」
一益が呼び止める。
「お前は後ろだ」
「ですが」
「お前が死ねば、誰がこの厄介な船を直す」
宗一郎は苦笑した。
「……分かりました」
小舟が川へ滑り出した。
水面には、春の光が反射している。
その向こうから、長島方の船影が近づいてきた。
◆
最初の銃声は、長島方からだった。
先頭の小舟に乗った門徒が鉄砲を構え、織田方へ撃ちかけた。
弾は水面を叩いた。
「撃ち返せ!」
織田方の鉄砲が火を噴く。
長島方の小舟で、一人が倒れた。
だが、船は止まらない。
むしろ、さらに速度を上げてきた。
「突っ込んでくるぞ!」
織田方の船頭が叫ぶ。
宗一郎は後方の船から、その様子を見ていた。
長島方の小舟は、奇妙なほどまっすぐ進んでいる。
舵を切らない。
撃たれても、止まらない。
「……おかしい」
宗一郎が呟いた。
隣の半兵衛が目を細める。
「何か、お気づきですか」
「あの船、兵が少なすぎる」
宗一郎は叫んだ。
「一益殿! 船を近づけるな!」
だが、声が届くより早く、長島方の先頭船が織田の小舟へ迫った。
船腹に積まれていた藁束が、突然燃え上がった。
「火船だ!」
誰かが叫んだ。
長島方の船頭たちは、すでに川へ飛び込んでいた。
燃え盛る小舟が、潮に乗って織田方へ流れ込む。
「避けろ!」
織田方の船が必死に舵を切る。
だが、狭い水路では逃げ場がない。
一艘が火船と接触した。
乾いた音が響き、炎が帆へ燃え移る。
「水をかけろ!」
「縄を切れ!」
甲板が混乱する。
その瞬間、岸の葦原から鉄砲が鳴った。
織田方の船頭が胸を撃たれ、倒れた。
船は舵を失い、横向きになって流された。
「岸にも敵!」
半兵衛が叫んだ。
宗一郎は即座に状況を理解した。
火船で進路を塞ぐ。
動けなくなったところを岸から撃つ。
そして、潮の流れを利用して船を重ねさせる。
長島方は、最初から船を沈めるつもりだったのだ。
「後続を止めろ!」
宗一郎が叫んだ。
「前へ出すな! 船を重ねるな!」
半兵衛が伝令へ命じる。
「旗を上げよ! 後退の合図だ!」
だが、前方の船はすでに混乱していた。
火が広がる。
水夫が川へ飛び込む。
織田方の足軽が、岸へ向けて鉄砲を撃ち返す。
しかし、葦原に隠れた敵は容易に姿を見せない。
宗一郎は歯を食いしばった。
ここで大筒を撃てば、岸の敵を追い払えるかもしれない。
だが、味方の船が近すぎる。
しかも、船が揺れている。
誤射すれば、味方を殺す。
「……撃てない」
宗一郎は呟いた。
半兵衛が横を見た。
「宗一郎殿」
「大筒は使いません」
「よろしいのですか」
「はい」
宗一郎は前方を指した。
「まず、燃えている船を切り離します」
半兵衛が頷いた。
「では、救助を優先しましょう」
宗一郎は船頭へ命じた。
「川下へ回れ! 流された兵を拾う!」
船が大きく向きを変えた。
その時、岸から放たれた矢が、宗一郎のすぐ脇へ突き立った。
半兵衛が宗一郎の肩を押した。
「伏せて!」
宗一郎は甲板へ身を伏せた。
続いて銃声。
船縁が砕け、木片が飛び散る。
「宗一郎殿!」
「大丈夫です!」
宗一郎は顔を上げた。
前方では、燃える小舟から一人の足軽が川へ飛び込んでいた。
鎧が水を吸い、沈みかけている。
「助けろ!」
宗一郎が叫んだ。
水夫が縄を投げた。
足軽は必死に手を伸ばしたが、届かない。
宗一郎は船縁へ駆け寄った。
「もう一度!」
縄が投げられる。
今度は届いた。
足軽が縄を掴む。
水夫たちが一斉に引いた。
男が甲板へ引き上げられた時、すでに意識を失っていた。
宗一郎は膝をついた。
「息は!」
「ございます!」
「鎧を外せ! 濡れた衣を脱がせろ!」
水夫たちが動く。
宗一郎は、遠くの火船を見た。
炎は、まだ川面を照らしていた。
◆
夕刻。
織田方の船は桑名へ戻った。
失った小舟は四艘。
大破した船が二艘。
死者は十八人。
負傷者は三十余人。
長島方の損害は不明だった。
滝川一益は、報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。
「……してやられたな」
宗一郎は頭を下げた。
「申し訳ありません」
「お前が謝ることではない」
一益は川を見た。
「敵が上手かった」
宗一郎は顔を上げた。
「ですが、こちらの見通しが甘かったのも事実です」
「そうだ」
一益は即答した。
「だから、次は同じ手を食わぬ」
半兵衛が地図を広げた。
「敵は、我らが川へ入ることを予想していました」
「でしょうね」
「しかも、火船を使う場所まで選んでいた」
宗一郎は頷いた。
「潮と川幅を知っていたんです」
半兵衛が続ける。
「こちらは船を揃えました。しかし、川を知る者が足りませんでした」
宗一郎は苦笑した。
「九鬼殿に言われた通りですね」
その時、伝令が駆け込んできた。
「岐阜より早馬!」
一益が顔を上げた。
「信長様か」
「はっ!」
伝令は書状を差し出した。
一益は封を切り、目を通した。
そして、顔を引き締めた。
「……殿が動かれる」
宗一郎が尋ねた。
「いつですか」
「まもなくだ」
一益は書状を畳んだ。
「此度の敗報を受け、長島への総攻撃を早めるとのことだ」
宗一郎は息を呑んだ。
信長は、待たない。
敗れたからこそ、さらに大きな力を投入する。
それが織田信長という男だった。
◆
岐阜城。
信長は、滝川一益から届いた敗報を読み終えた。
船四艘を失い、十八人が死んだ。
川を押さえるための先遣隊が、逆に川の恐ろしさを思い知らされた。
信長は書状を置いた。
「火船か」
丹羽長秀が頷いた。
「はっ。長島方は、潮の流れを利用した模様にございます」
「一益は」
「兵を引き、立て直しております」
「宗一郎は」
「無事にございます」
信長は短く頷いた。
そして、立ち上がった。
「よし」
長秀が顔を上げる。
「殿?」
「長島へ出る」
「総攻撃にございますか」
「そうだ」
信長は地図を指した。
「今度は、船だけではない」
木曽三川の河口。
桑名。
長島。
周囲の砦。
信長の指が、それらを順に押さえていく。
「陸からも、川からも、海からも攻める」
長秀が頭を下げた。
「兵の動員を進めます」
「ただし、急ぐな」
信長の言葉に、長秀が目を上げた。
「総攻撃を早めるのでは?」
「攻めると決めたのだ。だからこそ、備えを疎かにするな」
信長は冷たく笑った。
「長島の者どもは、儂を怒らせたと思っておろう」
長秀は黙っていた。
「間違いではない」
信長は続けた。
「だが、怒りだけで攻めれば、また川に兵を食われる」
地図の上へ、信長は扇を置いた。
「次は、逃がさぬ」
その声には、ためらいがなかった。
◆
長島、願証寺。
下間頼成のもとへ、勝利の報告が届いた。
「織田の船四艘を焼き、十八人を討ち取りました!」
広間に歓声が上がった。
「見たか!」
「織田の船など、恐れるに足らぬ!」
「このまま桑名まで攻め込め!」
門徒たちが口々に叫ぶ。
だが、頼成は笑わなかった。
「敵の船を四艘焼いた」
静かに言った。
「それで、織田の船は何艘残っておる」
歓声が止まった。
「信長は、何万の兵を動かせる」
誰も答えない。
頼成は地図を見た。
「一度勝っただけだ」
そして、低く続けた。
「次は、信長本人が来る」
その言葉に、広間が静まり返った。
頼成は、寺の外へ目を向けた。
川は、何事もなかったように流れている。
だが、その向こうでは、織田の大軍が動き始めていた。
長島の戦いは、まだ始まったばかりだった。
そして、この戦いが終わる時。
長島の地は、二度と以前と同じ姿には戻らない。
そのことを、まだ誰も知らなかった。




