第百二十六章 石山、動く
第百二十六章 石山、動く
天正元年、冬。
摂津国、石山本願寺。
夜半を過ぎた御堂に、激しい声が響いた。
「もう一度申してみよ」
顕如の声に、居並ぶ坊官たちが身を硬くした。
石山へ運び込まれた米は百二十七石。だが、それは予定した量のすべてではない。途中で二艘の船を失い、米十三俵が織田方に押さえられ、六人の門徒が捕らえられていた。
その報告自体は、顕如もすでに聞いている。
問題は、その後だった。
「河内の村々より、さらに兵糧を徴発するほかありませぬ。出せぬ村には、信心が足りぬと申し聞かせれば――」
「黙れ!」
顕如が脇息を打った。
「田を耕す者が米を出せぬのは、信心が足りぬからか。昨年の不作も、織田の兵に踏み荒らされた田も、すべて門徒の信心のせいだと申すのか!」
発言した坊官は、額を畳につけた。
「そのような意味では……」
「ならば、言葉を選べ。仏法を、人を脅す道具にするな」
顕如は荒い息を整えた。
まだ三十に満たぬ若い法主である。だが、その肩には畿内だけでなく、北陸、東海、中国筋にまで広がる門徒の命運がかかっていた。
「捕らえられた六人の名は分かったか」
「三人は判明いたしました。残る三人は……」
「米俵の数はすぐに分かるのに、人の名はなぜ分からぬ」
顕如は苦々しく言った。
「残る三人も調べよ。家族があるなら、こちらで暮らしを支える」
「はっ」
顕如は地図を引き寄せた。
石山へ至る道は、もはや一本ではない。堺からの商船、紀伊からの小舟、河内の陸路、淀川を下る川舟。それらを細かく分けて使っている。
それでも織田は、少しずつ手を伸ばしてきた。
「高槻宗一郎か」
顕如が呟いた。
織田信長のもとで、兵糧の扱いも、鉄砲も、船も変わったという。
寺社を焼き払うだけの敵なら、門徒の怒りを結集すればよい。だが、宗一郎という男は、商人の利益を守りながら石山の兵糧だけを断とうとしている。
厄介だった。
「紀伊からの荷はどうなっておる」
「雑賀の者が船を用意しております。ただ、織田方の船が伊勢から出ておりますゆえ、危険がございます」
「危険のない道など、もはやない」
顕如は地図上の木津川口を指した。
「次の荷は、ここから入れる」
坊官の一人が顔を上げた。
「織田の船が見張っております」
「だからこそだ」
顕如の目に強い光が宿った。
「敵が待ち受けておる場所へ、敵が思う通りの荷を運ぶ必要はない」
その夜、石山から三通の書状が出された。
一通は紀伊へ。
一通は堺へ。
そして最後の一通は、西国の毛利家へ。
援軍を求める書状ではない。
ただ、織田が海で何を始めたのか、その情報を求めるものだった。
◆
伊勢国、大湊。
「もう一度撃て」
九鬼嘉隆の声が飛んだ。
船上に据えられた小型の大筒が、白煙を吐いた。
轟音が海面を震わせ、沖合に浮かべた古い舟板の束へ鉄弾が突き刺さる。
「命中!」
「船体は!」
「異常なし!」
水夫たちが歓声を上げた。
だが、嘉隆は笑わなかった。
「砲架を見ろ」
宗一郎が身を屈める。
大筒を支える木組みの一部が、わずかに浮いていた。
「楔が緩んでいますね」
「それだけではない」
嘉隆は甲板を踏んだ。
「撃つたびに船が揺れる。陸の砲台とは違う。波があれば狙いも外れるし、火薬を濡らせば鉄の塊にすぎぬ」
「改良が必要です」
「当たり前だ」
嘉隆は鼻を鳴らした。
「だが、使えぬわけではない」
宗一郎は頷いた。
技術所で造った大筒は、まだ数を揃えられない。砲身の品質にもばらつきがあり、船に載せれば反動の問題が生じる。
それでも、従来の船戦とは違う可能性があった。
「敵船の横腹を狙うより、船首を止める方がよさそうですね」
「船を沈めるつもりか」
「まず動きを止めたいんです。帆柱や舵を壊せれば」
「言うのは簡単だ」
嘉隆は海を見た。
「船は止まってくれぬぞ」
「でしょうね」
「それに、敵も馬鹿ではない。大筒を見れば近づき方を変える」
嘉隆は宗一郎の肩を叩いた。
「海で勝ちたければ、海を相手に考えろ。敵だけを見ておると、波に殺される」
その時、見張りの水夫が声を上げた。
「紀伊筋より船!」
沖合に三艘の小舟が現れた。
帆を低く張り、沿岸を伝うように進んでいる。
宗一郎は目を細めた。
「商船ですか」
「見ただけでは分からぬ」
嘉隆は即答した。
「だが、あの進み方は気に入らんな」
小舟は三艘とも同じ方向へ進んでいる。ところが、互いの間隔が妙に広かった。
先頭の一艘だけが、しきりに進路を変えている。
「先の船が、こちらを見ている」
嘉隆が言った。
「後ろの二艘を逃がすつもりかもしれぬ」
「追いますか」
「一艘だけな」
嘉隆は船頭へ命じた。
「足の速い関船を出せ。だが、撃つな。まず行き先を確かめろ」
宗一郎は嘉隆を見た。
「捕まえないんですか」
「捕まえる理由がまだない」
嘉隆は笑った。
「お前が言ったのだろう。商いをする船を、片端から敵にするなと」
宗一郎も苦笑した。
「確かに」
「それに、三艘のうち一艘だけが騒がしい。あれは追わせるための船かもしれぬ」
関船が港を離れた。
やがて、先頭の小舟が突然帆を大きく広げ、沖へ向かった。
関船も進路を変える。
その間に、残る二艘は沿岸へ寄り、入り組んだ入り江の向こうへ姿を消した。
「ほらな」
嘉隆が呟いた。
「追わせる船だった」
宗一郎は歯噛みした。
「では、残る二艘が本命ですか」
「そうとは限らぬ」
嘉隆は海を指した。
「本命は、もっと後ろかもしれぬぞ」
◆
その夜。
紀伊から出た船は、三艘ではなかった。
六艘だった。
昼間、織田方の目を引いた三艘は囮である。
残る三艘は日暮れを待ち、別の浜から出航した。
積荷は米だけではない。
鉛、火薬の原料、薬、塩。
石山が長く戦うために必要な品々だった。
船団を率いるのは、雑賀の船頭・孫六。
海で生まれ、海で育った男である。
「風は」
「南寄りです」
「潮は」
「まだ使える」
孫六は暗い海を見た。
「木津川口へ向かう」
若い水夫が不安げに尋ねた。
「織田の船が待っているのでは」
「待っておるだろうよ」
「ならば、どうして……」
「敵が見ておるのは、海から来る船だ」
孫六は口元を歪めた。
「ならば、海から来た船が、最後まで海にいる必要はない」
三艘は河口へ向かう前に、低い岸へ寄った。
そこには、あらかじめ用意された小舟が待っていた。
大きな船から小舟へ。
小舟から川筋へ。
さらに、浅瀬を知る地元の者が荷を受け取る。
船団そのものが石山へ入る必要はなかった。
荷だけが入ればよい。
しかし、その動きは完全には隠せなかった。
「船影!」
織田方の見張りが叫んだ。
河口の暗がりから、関船が二艘現れる。
船首に立つのは、滝川一益の配下、滝川家の水軍を預かる河野又兵衛だった。
「止まれ!」
又兵衛が叫ぶ。
「積荷を改める!」
孫六は答えなかった。
代わりに、船尾へ合図を送った。
小舟が一斉に散る。
「逃がすな!」
又兵衛が命じた。
織田方の関船が進む。
その時、岸の葦原から銃声が響いた。
先頭の水夫が肩を撃たれ、甲板へ倒れる。
「伏せろ!」
又兵衛は叫びながら、船縁へ身を沈めた。
二発目の銃声。
織田方の櫂手が一人、腕を押さえてうずくまる。
「岸に鉄砲!」
又兵衛は即座に判断した。
「岸を撃て! だが、船を寄せるな!」
織田方の鉄砲が火を噴く。
葦原の一角から悲鳴が上がった。
だが、敵の姿は見えない。
孫六は、その間に小舟を川筋へ逃がしていた。
「米を先に!」
彼は叫んだ。
「火薬は後だ! 荷を捨てても人を残せ!」
水夫たちが必死に櫂を動かす。
しかし、最後尾の小舟は逃げ切れなかった。
織田方の関船が横から迫り、鉤縄を投げた。
「引け!」
小舟が傾く。
乗っていた男が刀を抜いた。
「離せ!」
織田方の足軽が槍を突き出す。
男は槍を避けようとして船縁へ足をかけたが、揺れた小舟から海へ落ちた。
もう一人が鉄砲を構える。
又兵衛は叫んだ。
「撃たせるな!」
弓が放たれた。
矢が男の胸に刺さる。
男は鉄砲を取り落とし、その場に崩れた。
関船が小舟へ接舷する。
積荷を調べた足軽が叫んだ。
「鉛と硝石です!」
又兵衛は舌打ちした。
「やはり軍需の荷か」
だが、残る小舟は闇の中へ消えていた。
追えば、浅瀬へ入る。
岸にはまだ鉄砲を持った敵がいる。
又兵衛は歯を食いしばった。
「深追いするな!」
部下が振り向く。
「よろしいので?」
「ここで船を座礁させれば、残りも失う!」
又兵衛は川の暗がりを睨んだ。
「捕らえた荷を守れ。負傷者を運べ」
その判断は正しかった。
だが、石山へ向かう荷をすべて止めることはできなかった。
◆
翌朝。
石山本願寺には、米と薬、塩が届いていた。
ただし、予定した量の半分にも満たない。
鉛と硝石を積んだ小舟は、織田方に奪われていた。
孫六は顕如の前に膝をついた。
「申し訳ございませぬ」
顕如は黙っていた。
「荷をすべて通すことができませんでした」
「死者は」
「三人。負傷者五人にございます」
「捕らえられた者は」
「二人」
顕如は目を閉じた。
「……そうか」
孫六は頭を下げた。
「次は、必ず」
「待て」
顕如の声が鋭くなった。
「次も同じことをするつもりか」
「それは……」
「敵はすでに、こちらのやり方を知った。今度は岸を押さえるであろう」
孫六は黙った。
「そなたは、よくやった」
顕如は言った。
「だが、同じ策を繰り返してはならぬ」
坊官の一人が口を開いた。
「しかし、猊下。織田方も損害を受けております。今こそ、さらに船を出して――」
「何艘ある」
「は?」
「こちらの船が何艘あり、船頭が何人いて、失えば補えるのかと聞いておる」
坊官は答えられなかった。
顕如の顔が険しくなった。
「数も知らずに船を出せと申すのか!」
御堂が静まり返る。
顕如は立ち上がった。
「信仰があれば、船は沈まぬのか。念仏を唱えれば、鉄砲の弾は避けてくれるのか」
誰も答えない。
「違うであろう」
顕如は拳を握った。
「だからこそ、我らは考えねばならぬのだ」
その時、別の使者が駆け込んできた。
「猊下!」
「何事だ」
「河内の門徒衆が、織田方の荷改め所を襲撃したとの報せにございます!」
顕如の眉が動いた。
「誰が命じた」
「現地の坊官が、独断で……」
「また独断か!」
顕如が怒鳴った。
使者は震えながら続けた。
「織田方の役人を三人討ち取り、米を奪ったと」
その場の空気が変わった。
坊官の一人が言った。
「それは、よい知らせではございませぬか」
顕如が振り向く。
「何?」
「織田の荷改め所を破れば、石山へ通じる道も――」
「その後はどうなる」
顕如の声が低くなった。
「織田が黙っておると思うか」
「……」
「村を焼き、門徒を捕らえ、さらに兵を出してくるであろう」
顕如は歯を食いしばった。
「勝手なことを……」
だが、すでに遅かった。
河内の襲撃は、織田方へ伝わっていた。
◆
岐阜城。
信長は報告を聞き終えると、静かに立ち上がった。
「三人、殺されたか」
「はい」
丹羽長秀が答えた。
「荷改め所を襲われ、米二十俵を奪われました。襲撃した者は河内の門徒衆と見られます」
「見られる、では困る」
信長の声が冷えた。
「確かめよ」
長秀が頭を下げる。
「すでに調べております」
信長は地図へ歩み寄った。
「宗一郎は」
「伊勢におります」
「呼び戻せ」
「はっ」
信長は地図上の河内を指した。
「荷改め所を襲った者は、必ず討つ」
長秀が頷いた。
「ただし、村ごと焼くのは待て」
意外な言葉に、長秀が顔を上げた。
信長は鋭い目で見返した。
「何だ」
「いえ……」
「宗一郎に感化されたと思うたか」
「そのようなことは」
「構わぬ」
信長は鼻を鳴らした。
「儂は、無駄なことが嫌いなだけだ」
そして、地図を指で叩いた。
「村を焼けば、敵も味方も米を失う。だが、襲った者を見逃せば、次も同じことが起こる」
信長の目が細くなった。
「首謀者を差し出せと命じよ。三日待つ」
「差し出さぬ場合は」
「その村を攻める」
長秀は息を呑んだ。
「逃げ道は」
「女、子供、武器を持たぬ者には道を開け」
信長は言った。
「ただし、武器を捨てぬ者は、誰であろうと討て」
「御意」
信長は窓の外を見た。
その顔には、怒りよりも冷たい決意があった。
「顕如に伝えよ」
長秀が顔を上げる。
「石山の門徒を守りたいなら、勝手な戦を始める者を抑えよ、と」
そして、低く続けた。
「抑えられぬなら、儂が抑える」
◆
伊勢。
宗一郎は、九鬼嘉隆とともに海戦の報告を読んでいた。
「鉛と硝石は押さえました」
「だが、米は入った」
嘉隆が言った。
「はい」
「負けではない。だが、勝ちでもないな」
「そうですね」
宗一郎は報告書を置いた。
小舟への積み替え。
岸からの鉄砲。
浅瀬への誘導。
相手は海を知っている。
しかも、こちらの船砲がどれほど使えるかも、少しずつ探っている。
「嘉隆殿」
「何だ」
「船を増やしたい」
「金は」
「信長様に頼みます」
「材木は」
「手配します」
「船大工は」
「……探します」
嘉隆は大笑いした。
「それでは船は増えぬ!」
「分かっています」
「分かっておらぬ」
嘉隆は宗一郎の肩を叩いた。
「船は材木を集めればできるものではない。海を知る者が造り、海を知る者が動かす」
「では、力を貸してください」
「儂は信長の家臣ではないぞ」
「承知しています」
「ならば、何を差し出す」
宗一郎は少し考えた。
「技術です」
「ほう」
「船砲だけではありません。船の修理、帆の改良、船底の保護、火災への備え。九鬼の船に役立つものを、共同で作りたい」
嘉隆は腕を組んだ。
「それで、儂には何の得がある」
「九鬼の船が、今より強くなります」
「織田の船も強くなる」
「はい」
「正直だな」
嘉隆は笑った。
そして、海を見た。
「よかろう」
宗一郎が顔を上げる。
「ただし、条件がある」
「何でしょう」
「船のことは、儂の言うことを聞け」
宗一郎は即座に頭を下げた。
「もちろんです」
「それと」
「はい」
「次に海で戦う時は、お前も船に乗れ」
宗一郎は一瞬、固まった。
「……俺がですか」
「そうだ」
「戦の指揮はできませんよ」
「指揮をしろとは言わぬ」
嘉隆はにやりと笑った。
「自分の造ったものが、波の上でどうなるか、目で見ろ」
宗一郎は苦笑した。
「厳しいですね」
「海はもっと厳しいぞ」
その時、岐阜からの早馬が到着した。
信長の命令。
河内での門徒衆襲撃。
三日以内に首謀者を差し出さねば、織田軍が攻める。
宗一郎は書状を読み終えると、顔を引き締めた。
「……嘉隆殿」
「何だ」
「岐阜へ戻ります」
「戦か」
「はい」
嘉隆は頷いた。
「ならば、行け」
宗一郎は頭を下げた。
嘉隆は背中へ声をかけた。
「高槻!」
宗一郎が振り向く。
「船は逃げられる。だが、陸の村は逃げられぬ」
宗一郎は、その言葉を胸に刻んだ。
「……はい」
そして、馬に乗った。
◆
三日後。
河内の村から、首謀者は差し出されなかった。
村の有力者たちは、織田の要求を拒んだ。
理由は一つではない。
襲撃した者が村の親類だったこと。
織田の処罰を恐れたこと。
そして、石山からの救援を信じたこと。
だが、救援は来なかった。
村の外れに、織田の旗が現れた。
先頭に立つのは、滝川一益の配下の部将だった。
兵は三百。
村の男たちは、寺の鐘を鳴らして集まった。
槍を持つ者。
弓を持つ者。
鉄砲を持つ者。
その後ろには、女や子供たちがいた。
織田方の使者が進み出る。
「首謀者を差し出せ!」
返事はなかった。
「武器を捨て、女と子供を退かせよ!」
村の門が閉ざされた。
部将はしばらく待った。
やがて、静かに命じた。
「攻めよ」
鉄砲が鳴った。
村の柵が砕ける。
弓矢が飛び交う。
門徒衆も必死に抵抗した。
だが、三百の織田兵を前に、村の守りは長く持たなかった。
門が破られた。
槍を構えた織田兵が雪崩れ込む。
村の男たちが倒れていく。
その中で、一人の若い門徒が叫んだ。
「石山は、我らを見捨てたのか!」
答える者はいなかった。
夕刻。
村は制圧された。
武器を捨てた者は捕らえられ、女と子供は村の外へ出された。
だが、死者は少なくなかった。
織田方にも、門徒方にも。
そして、その報告は、石山本願寺へ届いた。
◆
「……何人だ」
顕如の声は、低かった。
「村の男、三十余名が討たれました。織田方の死者は七名にございます」
「女と子供は」
「村の外へ出されたとのことです」
顕如は目を閉じた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、顕如は言った。
「河内の世話役を呼べ」
「猊下……」
「呼べ」
その声に、怒りが戻っていた。
「誰が、勝手に戦を始めよと命じた」
坊官たちは震えた。
「織田が憎いのは分かる。石山を守りたいのも分かる」
顕如は立ち上がった。
「だが、守るべき村を戦場にして、何が信心だ!」
その怒声は、御堂の外まで響いた。
顕如は拳を握り締めた。
「……信長め」
低く呟く。
「三日待ったというだけで、村を攻めるか」
側近が答えた。
「織田は、首謀者を差し出せと……」
「分かっておる!」
顕如が怒鳴った。
だが、すぐに口を閉じた。
分かっている。
独断で襲撃した者に責任がある。
それでも、三十余人の死を聞いて、冷静でいられるはずがなかった。
「……これ以上、好きにはさせぬ」
顕如は地図を広げた。
石山。
河内。
堺。
紀伊。
そして、その先の瀬戸内。
「毛利への使いを急がせよ」
坊官が顔を上げる。
「援軍を求めますか」
「まだだ」
顕如は言った。
「まず、織田の海の力を知る」
その目には、怒りとともに、冷たい決意が宿っていた。
「信長が道を断つなら、こちらは新たな道を開く」
そして、静かに続けた。
「石山は、まだ落ちぬ」
◆
岐阜城。
河内の村を制圧した報告を受け、信長は一言だけ言った。
「よし」
宗一郎は、その隣に立っていた。
村の死者三十余名。
織田方の死者七名。
首謀者は戦死。
女と子供は退去。
数字だけを見れば、命令は守られている。
だが、宗一郎の胸は重かった。
「殿」
「何だ」
「次は、村を戦場にしない方法を考えます」
信長は宗一郎を見た。
「考えよ」
意外なほど短い返事だった。
「だが、覚えておけ」
信長は立ち上がった。
「儂が三日待ったのは、慈悲ではない」
宗一郎は顔を上げた。
「敵に、選ばせたのだ」
「……はい」
「武器を捨てるか、戦うか」
信長は冷たく言った。
「戦うと決めた者には、戦の結果を受けてもらう」
宗一郎は黙っていた。
信長は続けた。
「お前が何を考えようと構わぬ。だが、敵が槍を向けた時に、迷うな」
「御意」
信長は地図へ目を向けた。
「次は長島だ」
宗一郎の胸が強く打った。
長島一向一揆。
史実では、信長が苛烈な攻撃を加え、多くの命が失われた戦い。
宗一郎は、その結末を知っている。
だが、すでに歴史は変わっていた。
信長の弟・信興は生きている。
浅井長政も生きている。
武田信玄は死に、勝頼は長篠の危険を知り始めている。
そして、顕如は石山で新たな戦いを準備している。
「殿」
「何だ」
「長島へ向かう前に、一つだけ進言があります」
「申せ」
「川を押さえましょう」
信長の目が細くなった。
「川か」
「はい」
宗一郎は地図を指した。
「長島は、陸だけでは攻めきれません」
木曽川。
長良川。
揖斐川。
幾筋もの水が、伊勢湾へ注いでいる。
その間に広がる輪中と低湿地。
宗一郎は静かに言った。
「今度は、敵の城を攻める前に、敵の道を断ちます」
信長は、しばらく地図を見つめた。
そして笑った。
「よかろう」
その笑みは、決して穏やかなものではなかった。
「長島の者どもに、思い知らせてやろう」
宗一郎は頭を下げた。
戦が始まる。
今度の戦は、これまで以上に厳しいものになる。
そして宗一郎は、知っていた。
未来を変えるということは、誰も死なない世を作ることではない。
死ぬはずだった者を救うために、別の誰かの命を奪う決断を迫られることもある。
その重さを背負わなければ、歴史は変えられない。
天正二年。
長島へ向けて、織田の軍勢が動き始めようとしていた。




