閑話 帝の名
閑話 帝の名
婚儀を間近に控えた京の御所には、春の気配が漂っていた。
庭の梅は盛りを過ぎ、枝先には若葉が芽吹き始めている。
冬姫は、女房に案内されて御殿の奥へと進んでいた。
織田信長の娘として生まれ、鷹司家の養女となり、やがて帝の妃となる。
その道は、父が決めたものだった。
けれど、今は違う。
帝と幾度も言葉を交わし、その人柄に触れ、冬姫自身が望んだ婚姻だった。
それでも、不安がないわけではない。
相手は、この国で最も尊い座にある人。
自分は、その隣に立つことになる。
父の娘としてではなく、一人の妻として。
「姫様。帝がお待ちにございます」
女房が襖の前で膝をついた。
冬姫は小さく息を整えた。
「参ります」
襖が開かれる。
帝は庭に面した場所に座り、一冊の書物を閉じたところだった。
十七歳。
若い。
しかし、その眼差しには、冬姫がこれまで会った誰とも異なる深さがあった。
時折、遠い場所を見つめるような目をする。
まるで、まだ起きていない何かを憂いているかのように。
「冬姫。よう来た」
「お招きいただき、ありがたく存じます」
「今日は堅苦しい話はせぬ。こちらへ」
帝が隣の座を示す。
冬姫は少し迷い、それから静かに腰を下ろした。
しばらく、二人で庭を眺めた。
風が吹き、梅の花びらが一枚、縁側へ舞い込んだ。
「冬姫」
「はい」
「そなたは、余を恐ろしいと思うか」
突然の問いだった。
冬姫は帝を見る。
「恐ろしい、と申しますと」
「余は帝だ。そなたの父である信長でさえ、朝廷では臣下として礼を尽くす」
「はい」
「余が命じれば、人は動く。余が裁けば、人は死ぬこともある」
穏やかな声だった。
だが、そこには軽さがなかった。
「そのような男の妻になるのだ。不安もあろう」
冬姫は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「ございます」
帝が目を向ける。
「ほう」
「父上は、恐ろしいお方です」
冬姫は微笑んだ。
「幼い頃より、何度も叱られました。家臣の方々が震え上がるところも見てまいりました」
「信長らしい」
「ですが、父上がただ恐ろしいだけの方ではないことも、存じております」
帝は黙って聞いていた。
「帝も、同じではございませんか」
「余が?」
「はい。厳しいお顔をなさる時もございます。けれど、私にはいつも、お優しゅうございます」
「そなたにまで厳しくしては、余には安らぐ場所がなくなる」
思いがけない言葉に、冬姫は目を瞬かせた。
帝は庭へ視線を戻した。
「余は、幼い頃から帝になると決まっていたわけではない」
冬姫は姿勢を正した。
先帝のことは知っている。
正親町天皇。
病によって世を去った、今の帝の父。
そして、その皇位を継ぐはずだった兄君もまた、流行病によって若くして亡くなった。
残された次男が、皇位を継いだ。
それが、今の帝だった。
「兄上は、よく笑う方だった」
帝の声が少し柔らかくなった。
「余よりも人付き合いが上手く、誰に対しても分け隔てがなかった。父上も、兄上が皇位を継ぐものと信じておられた」
「……はい」
「余もそう思っていた」
帝は自分の手を見た。
「兄上が亡くなられた時、余は泣いた。父上が亡くなられた時もな」
冬姫は何も言わなかった。
「だが、泣いている間にも、朝廷は動かさねばならぬ。公家は決断を求め、武家は朝廷の意向を探り、民は戦で苦しんでおる」
帝は静かに息を吐いた。
「いつの間にか、余は泣くことさえ忘れた」
その横顔を見て、冬姫は胸が痛んだ。
父にも、似たところがあった。
誰よりも強くあろうとする人ほど、弱さを見せる場所がない。
「帝」
「何だ」
「私の前では、泣いてくださっても構いません」
帝が振り向いた。
冬姫は真剣だった。
「私に何ができるかは、まだ分かりませぬ。政も、戦も、帝ほどには存じません」
「うむ」
「ですが、お話を聞くことはできます」
冬姫は少しだけ頬を染めた。
「妻とは、そのようなものではございませんか」
帝はしばらく彼女を見つめていた。
そして、声を立てて笑った。
「まったく、信長の娘とは思えぬほど優しい」
「父上も、お優しい時はございます」
「それは余も知っておる。だが、あの男が聞けば、さぞ嫌な顔をするであろうな」
二人は笑った。
庭を渡る風が、少し暖かく感じられた。
◆
「冬姫」
しばらくして、帝が改まった声を出した。
「今日は、そなたに伝えておきたいことがある」
「何でございましょう」
「余の名だ」
冬姫は首を傾げた。
「帝のお名前……でございますか」
「そうだ」
帝は微笑んだ。
「そなたは、余を何と呼ぶ」
「帝にございます」
「婚儀の後もか」
「それは……」
冬姫は言葉に詰まった。
天皇の諱を軽々しく口にするものではない。
それは幼い頃から教えられてきた。
まして、自分の夫となる人であっても、相手は帝である。
「余はな」
帝が静かに言った。
「そなたにだけは、知っておいてほしい」
冬姫が顔を上げる。
「父上が余にくださった名だ」
帝は一度、庭へ目を向けた。
亡き父。
亡き兄。
そして、今は自分が背負う皇位。
そのすべてを思い出すように。
「澄仁」
冬姫は息を止めた。
「すみひと、と読む」
帝は微笑んだ。
「余が帝になる前から持っていた名だ」
「澄仁……様」
冬姫は、そっと口にした。
帝は頷いた。
「そうだ」
「なんと、美しいお名前でしょう」
「そう思うか」
「はい」
冬姫は少し考え、続けた。
「澄んだ水のようでございます」
「水か」
「はい。濁りを払い、空を映す水のような」
帝は目を細めた。
「父上も、似たようなことを仰せだった」
懐かしむような声だった。
「人の世は濁る。だからこそ、濁りに呑まれず、澄んだ目で物事を見よ、と」
冬姫は、その言葉を胸に刻んだ。
「澄仁様」
もう一度、呼んだ。
帝が冬姫を見る。
「何だ」
「お呼びしても、よろしいのでございますか」
「人前では困るな」
帝は悪戯っぽく笑った。
「公家たちが卒倒するやもしれぬ」
冬姫も笑った。
「では、二人の時だけ」
「ああ」
帝は頷いた。
「二人の時だけだ」
冬姫は嬉しそうに微笑んだ。
けれど、その笑みはすぐに、少し真剣なものへ変わった。
「では、澄仁様」
「うむ」
「私からも、一つお願いがございます」
「申してみよ」
「私を、織田の姫としてだけではなく、冬という一人の女として見ていただきとうございます」
帝の表情が変わった。
冬姫は続ける。
「私は父上の娘です。これからは帝の妃にもなります。それは誇らしいことです」
そして、小さく息を吸った。
「けれど、澄仁様のお側では、ただの冬でありたいのです」
帝は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと手を差し出した。
冬姫の手のすぐそばへ。
触れてよいかを問うように。
冬姫は自分から、その手に指を重ねた。
「冬」
初めて、姫をつけずに呼んだ。
「はい」
「余も、そなたの前では、ただの澄仁でありたい」
冬姫の頬が赤く染まる。
帝はその手を、そっと包んだ。
「余は、そなた以外の妃を迎えるつもりはない」
冬姫が顔を上げた。
「帝……」
「宮中の慣わしに従えば、色々と申す者もおろう。皇統を守るため、妃を増やせと言う者も出るやもしれぬ」
帝の声は穏やかだった。
しかし、その意志は揺るがなかった。
「だが、余は望まぬ」
「……」
「そなたを妻と決めた。ならば、余の妻はそなただけだ」
冬姫の目に涙が浮かんだ。
「よろしいのでございますか」
「余が決めた」
「けれど、帝には……」
「帝である前に、一人の男だ」
澄仁は微笑んだ。
「せめて妻を愛することくらい、自分で決めさせてほしい」
冬姫は俯いた。
涙が一粒、膝へ落ちた。
「……はい」
それだけ答えるのが精一杯だった。
◆
しばらくして、冬姫が涙を拭うと、帝は庭へ視線を向けた。
「冬」
「はい」
「余は、この国を変えたい」
その声には、先ほどまでの柔らかさとは違うものがあった。
「戦が続き、人が死に、田が焼かれ、子が親を失う。そんな世を、いつまでも続けてはならぬ」
「はい」
「そなたの父は、そのために戦っておる」
冬姫は頷いた。
「高槻宗一郎も、また違うやり方で、この国を変えようとしている」
帝は遠くを見た。
その瞳には、冬姫には見えないものが映っていた。
焼け落ちる都市。
逃げ惑う人々。
空から降る、破滅の光。
かつて別の人生で学んだ歴史。
あの未来へ、この国を進ませてはならない。
それが澄仁の胸にある、誰にも明かせぬ誓いだった。
「だが、余一人ではできぬ」
帝は冬姫へ向き直った。
「そなたの父の力も、高槻の知恵も必要だ。そして、余の隣には、そなたがいてほしい」
冬姫は、その言葉を静かに受け止めた。
「澄仁様」
「うむ」
「私は、難しい政のことはまだ分かりませぬ」
「これから学べばよい」
「はい。学びます」
冬姫は、まっすぐに帝を見た。
「そして、いつか澄仁様が迷われた時には、私も自分の考えを申し上げます」
「ほう」
「たとえ、帝のお考えと違っていても」
澄仁は一瞬驚き、それから笑った。
「それは頼もしい」
「父上には、よく言われます」
「何と」
「冬は存外、頑固だと」
澄仁は声を立てて笑った。
「それは間違いなく、信長の娘だ」
冬姫も笑う。
その笑顔を見ながら、澄仁は思った。
この娘を守りたい。
ただ、危険から遠ざけるだけではない。
この娘が笑い、怒り、学び、自分の意志で生きられる世を作りたい。
そして、いつか生まれるかもしれない子供たちにも。
同じ世を残したい。
帝として守るべきものと、一人の男として守りたいもの。
その二つが、初めて同じ形を持った気がした。
◆
冬姫が御所を辞する時。
帝は自ら廊下まで見送った。
「婚儀の日まで、しばし会えぬな」
「はい」
「寂しいか」
冬姫は頬を染めた。
「……少し」
「余もだ」
冬姫は嬉しそうに微笑んだ。
そして、女房たちから少し離れたところで、そっと振り返った。
「澄仁様」
帝が足を止めた。
「何だ、冬」
「婚儀の日を、楽しみにしております」
澄仁は微笑んだ。
「余もだ」
冬姫は深く一礼し、歩き去っていった。
その背中を見送りながら、帝はしばらく動かなかった。
やがて、背後から老臣が近づく。
「主上」
「何だ」
「姫君に、諱をお伝えになられたのでございますか」
「ああ」
老臣の顔が強張った。
「それは、あまりにも……」
「分かっておる」
澄仁は静かに遮った。
「だが、あの娘は余の妻になる」
「されど、帝の御名は……」
「誰にも呼ばせぬ名を、妻にまで隠さねばならぬのか」
老臣は言葉を失った。
澄仁は庭へ目を向けた。
「朝廷のしきたりは守る。皇位の重みも忘れぬ」
そして、少しだけ笑った。
「だが、余が澄仁であったことまで、忘れたくはない」
老臣は、しばらく黙っていた。
やがて深く頭を下げる。
「……御意にございます」
澄仁は、冬姫の去った廊下をもう一度見た。
帝には、国を守る責任がある。
その責任から逃げるつもりはない。
必要ならば、冷酷にもなろう。
人を裁き、命を奪う決断も下そう。
だが。
あの娘の前でだけは。
玉座に座る帝ではなく、一人の男でありたい。
「冬」
誰にも聞こえぬ声で、名を呼んだ。
そして、静かに微笑んだ。
「待っておれ」
春の風が、御所の庭を渡っていった。
この日、冬姫は帝の名を知った。
そして帝は、初めてその名を呼んでくれる妻を得ようとしていた。
まだ婚儀の前。
二人が正式に夫婦となるのは、もう少し先のことである。




