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『天下布武、その先へ』―転生者と織田信長が拓いた、誰も知らない日本史―  作者: みなみ


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第百二十五章 長篠を見る者

第百二十五章 長篠を見る者


 甲斐。


 躑躅ヶ崎館。


 一通の書状が。


 武田勝頼の前に置かれていた。


 差出人。


 高槻宗一郎。


 それだけなら。


 珍しいことではない。


 以前にも。


 織田から。


 怪しい者についての知らせが届いた。


 だが。


 今回は違った。


 短い。


 あまりにも。


 短い。


 勝頼は。


 もう一度。


 読む。


 ――長篠という地を。


 ――織田でも徳川でも武田でもない何者かが見ている。


 その下。


 さらに一文。


 ――これは和睦を求める文ではない。


 勝頼の口元が。


 僅かに歪んだ。


「分かっておる」


 誰に言うでもなく。


 呟く。


「何度も書くな」


 傍ら。


 山県昌景が。


 笑いを堪えた。


「高槻という男」


「殿が疑うことまで」


「分かっているのでしょう」


「だから気に食わぬ」


 勝頼が。


 書状を置く。


 そこには。


 山県昌景。


 馬場信春。


 内藤昌豊。


 そして。


 数名の近習。


 高坂昌信は。


 北信濃。


 海津にいる。


 すぐここへ。


 呼べる距離ではない。


 だから。


 書状の写しだけを。


 すでに送らせていた。


「長篠」


 馬場が言った。


「三河」


「ああ」


「徳川の側ですな」


「正確には」


 山県が。


 地図へ手を伸ばす。


「奥三河」


「甲斐から三河へ出る道の一つ」


「武田が」


「三河へ深く入るなら」


「無視できぬ場所です」


 勝頼が。


 山県を見る。


「だから」


「高槻がそこへ目を向けさせたい」


「可能性はございます」


「織田の罠か」


「それも」


 山県は。


 否定しなかった。


 内藤が。


 腕を組む。


「だが」


「妙ではある」


「何がだ」


「罠なら」


「もう少し」


「うまいことを書くでしょう」


 勝頼が。


 眉を寄せる。


「どういう意味だ」


「長篠を見ろ」


「とは書いておらぬ」


「長篠へ行け」


「とも書いておらぬ」


「ただ」


「誰かが見ている」


「それだけです」


 馬場が。


 頷いた。


「確かめれば」


「済む話ですな」


「……」


 勝頼は。


 黙った。


 それが。


 一番。


 気に入らなかった。


 高槻宗一郎は。


 武田へ。


 命令していない。


 警告しているだけ。


 だから。


 無視することもできる。


 だが。


 無視して。


 後から何か起きれば。


 それこそ。


 高槻の思う壺ではないか。


「昌景」


「は」


「人を出せ」


「長篠へ?」


「違う」


 勝頼は。


 地図を指した。


「長篠だけを見るな」


 山県の目が。


 僅かに変わる。


「甲斐から」


「遠江」


「三河へ抜ける道」


「川」


「峠」


「城」


「兵糧を置ける場所」


「全部だ」


「高槻が」


「長篠だけ見ろと言わぬなら」


「こちらも」


「長篠だけ見ぬ」


 馬場が。


 小さく笑った。


「御意」


「それと」


 勝頼の指が。


 地図の上。


 三河へ移る。


「徳川には」


「気取られるな」


「織田にもだ」


「高槻にも?」


 内藤が聞く。


 勝頼は。


 即答した。


「当たり前だ」


「これは」


「武田の目で見る」


     ◆


 数日後。


 奥三河。


 山。


 川。


 細い道。


 二人の男が。


 薪を背負って歩いていた。


 武田の者だった。


 だが。


 刀は。


 見えない。


 百姓にしか。


 見えない。


 一人が。


 川へ降りる。


 石。


 泥。


 水量。


 対岸。


 馬が渡れるか。


 荷駄が渡れるか。


 見る。


 もう一人は。


 道端へ座った。


 休んでいるように見える。


 だが。


 見ている。


 道幅。


 斜面。


 木。


 崖。


「……妙だな」


「何が」


「ここ」


 男が。


 土を指した。


「踏まれている」


「旅人だろう」


「違う」


 指。


 二本。


 地面をなぞる。


「同じ所を」


「何度も」


「行って戻ってる」


 もう一人が。


 しゃがむ。


 確かに。


 街道を進む足跡ではない。


 脇道。


 川。


 そして。


 高み。


 行って。


 戻る。


 何度も。


「猟師?」


「なら」


「川幅なんぞ測るか」


 男が。


 草の中から。


 拾った。


 細い。


 麻紐。


 ところどころ。


 結び目がある。


 二人の顔が。


 変わる。


「測ったな」


「ああ」


「何を」


「分からん」


 男は。


 麻紐を。


 懐へ入れた。


「持ち帰る」


     ◆


 さらに。


 三日。


 別の場所。


 長篠城から。


 少し離れた村。


 茶を売る老婆が。


 武田の者へ。


 何気なく言った。


「この頃」


「妙な旅人が多いねえ」


「妙?」


「道を聞くんだよ」


「旅人なら」


「聞くだろう」


「違う違う」


 老婆が。


 笑う。


「どこへ行けばいいかじゃない」


「どこから兵が来るか」


「聞くんだ」


 男の手が。


 止まる。


「兵?」


「昔の戦の話だよ」


「武田が来た時は」


「どこを通った」


「徳川の侍は」


「どこへ逃げた」


「川は」


「いつ増える」


「馬は」


「どこなら通れる」


「そんなことばっかり」


「誰が」


「さあねえ」


「商人みたいなのもいた」


「坊さんみたいなのもいた」


「一人じゃない?」


「違うねえ」


 老婆は。


 湯を注ぐ。


「顔が」


「違ったからね」


 男は。


 銭を置いた。


「いつ頃から」


「さて」


「今年になってからかねえ」


 男が。


 立つ。


「婆さん」


「何だい」


「そいつら」


「長篠のことだけ聞いた?」


 老婆が。


 首を傾げた。


「そういや」


「設楽の方も」


「聞いてたね」


 男の目が。


 鋭くなる。


     ◆


 甲斐。


 十日後。


 勝頼の前へ。


 報告が並んだ。


 一つではない。


 五つ。


 別々の者が。


 別々の道から。


 調べた。


 長篠。


 設楽。


 豊川。


 寒狭川。


 山道。


 渡河点。


 村。


 兵糧。


 馬。


「一致しております」


 山県が言った。


「何者かが」


「先に見ている」


 勝頼は。


 黙っていた。


「織田か」


 馬場が聞く。


「分かりません」


「徳川は」


「徳川の物見とは」


「やり方が違うようです」


「なら」


「高槻の言った」


「第三者か」


「断定はできません」


 山県は。


 宗一郎と。


 同じことを言った。


 勝頼が。


 少し笑った。


「皆」


「断定せぬな」


「断定して」


「外せば」


「兵が死にます」


「違いない」


 勝頼は。


 麻紐を取った。


 結び目。


 一定の間隔。


 地形を測る。


 何かを。


 数える。


「長篠で」


「何をするつもりだ」


 誰も。


 答えない。


 勝頼が。


 地図を見る。


 もし。


 武田が。


 三河へ出る。


 徳川が。


 迎える。


 織田が。


 援軍に来る。


 どこで。


 ぶつかる。


 長篠。


 設楽。


 川。


 山。


 狭い。


 勝頼の指が。


 地図の上を。


 ゆっくり動いた。


「……嫌な場所だな」


 馬場が。


 勝頼を見る。


「何がでございます」


「兵を入れすぎれば」


「動けぬ」


 勝頼の指が。


 川で止まる。


「前を塞がれ」


「後ろを押されれば」


「馬が死ぬ」


 山県が。


 地図を見る。


 勝頼は。


 さらに続ける。


「鉄砲を」


「並べられる場所は」


「どこだ」


 山県が。


 顔を上げた。


「殿」


「何故」


「鉄砲を?」


「織田だからだ」


 勝頼は。


 それだけ言った。


「高槻がいる」


「火薬を」


「昔より多く作れる」


「鉄砲も」


「同じ物を揃えようとしている」


「なら」


「騎馬だけ考える方が」


「おかしい」


 馬場が。


 ゆっくり。


 頷く。


「確かに」


 勝頼は。


 地図から。


 手を離した。


「長篠で」


「戦わぬ」


 山県が。


 勝頼を見る。


「決めるのですか」


「違う」


 勝頼は。


 首を振った。


「今」


「決めぬ」


「戦う必要があれば」


「戦う」


「だが」


「敵が」


「待っている場所へ」


「わざわざ入るほど」


「武田は安くない」


 山県の口元が。


 僅かに上がった。


「それでこそ」


「御屋形様です」


 勝頼が。


 山県を睨む。


「父なら」


「どうした」


 部屋が。


 一瞬。


 静かになる。


 誰も。


 軽々しく。


 答えられない。


 だが。


 馬場信春が。


 口を開いた。


「御屋形様」


「何だ」


「信玄公なら」


「高槻の文など」


「信じなかったでしょう」


 勝頼の顔が。


 僅かに固くなる。


「だが」


 馬場は。


 続けた。


「調べたでしょうな」


 勝頼が。


 馬場を見る。


「そして」


「自分の目で」


「決めたでしょう」


 沈黙。


 勝頼は。


 ゆっくり。


 息を吐いた。


「なら」


「同じだ」


「は」


「高槻を」


「信じたのではない」


 勝頼が。


 地図を叩く。


「武田の目を」


「信じた」


     ◆


 その夜。


 勝頼は。


 一通の文を。


 書かせた。


 宛先。


 高槻宗一郎。


 長くはない。


 ――長篠について調べた。


 ――確かに我ら以外の目がある。


 ――ただし、それをもって織田を信じる理由とはせぬ。


 勝頼は。


 そこで。


 筆を止めさせた。


「もう一つ」


 祐筆が。


 待つ。


 勝頼は。


 少し考える。


「こう書け」


 ――次に知っていることがあるなら。


 ――答えを寄越すな。


 祐筆が。


 顔を上げる。


「そのまま?」


「ああ」


 筆が。


 動く。


 ――我らが自ら確かめられるものを寄越せ。


 勝頼は。


 頷いた。


「それでよい」


     ◆


 伊勢。


 数日後。


 宗一郎は。


 勝頼の返書を読んだ。


 半兵衛が。


 隣にいる。


 最後まで読み。


 宗一郎は。


 笑った。


「どうされました」


「いや」


「勝頼って」


「やっぱり」


「馬鹿じゃないなと思って」


「当たり前でしょう」


「後世だと」


「色々言われるんですよ」


「後世?」


「こっちの話」


 半兵衛が。


 呆れた顔をした。


 宗一郎は。


 もう一度。


 最後の一文を見る。


 ――答えを寄越すな。


 ――我らが自ら確かめられるものを寄越せ。


「これ」


「大事ですね」


 半兵衛が言う。


「はい」


「未来を教えて」


「勝頼を動かしたわけじゃない」


「事実を渡して」


「勝頼殿が」


「自分で判断した」


「はい」


 宗一郎は。


 文を畳んだ。


「これで」


「長篠の未来は」


「少し変わった」


「少し?」


「まだ」


「戦がなくなったわけじゃない」


「武田と徳川は」


「敵です」


「織田とも」


「敵のままです」


「なら」


「戦う可能性はある」


「ただ」


 宗一郎は。


 地図の長篠を見る。


「史実と」


「同じようには」


「ならないかもしれない」


 半兵衛が。


 宗一郎を見る。


「それを」


「恐れますか」


 宗一郎は。


 少し考えた。


「前なら」


「怖かったかもしれません」


「今は?」


「むしろ」


「その方がいい」


「何故」


「俺が知ってる未来が」


「正解のままだったら」


「俺は」


「いつか」


「未来に頼り続ける」


 宗一郎は。


 長篠から。


 手を離した。


「でも」


「未来が外れ始めれば」


「自分で考えるしかない」


 半兵衛が。


 静かに笑った。


「ようやく」


「我らと同じですな」


「何ですか」


「明日のことなど」


「誰にも分からぬ」


「その中で」


「勝つ方法を考える」


「武将は」


「ずっとそうしております」


「……」


「宗一郎殿だけが」


「少々ずるかった」


「それ」


「信長様にも言われそうだな」


「間違いなく」


 二人が。


 僅かに笑った。


 その時だった。


 廊下。


 足音。


 速い。


「宗一郎様!」


 戸が。


 開く。


 使者。


 泥。


 汗。


 息が。


 乱れている。


「岐阜より」


「急ぎにございます」


 宗一郎の顔が。


 変わる。


「何があった」


「石山です」


 笑みが。


 消えた。


「本願寺が?」


「兵糧が」


「また入りました」


 宗一郎が。


 立つ。


「どれくらい」


「確認できたものだけで」


「百石を超えると」


「海?」


「海だけではございません」


「何?」


「川」


「陸」


「商人」


「門徒」


「小さく分け」


「別々に」


「運んでおります」


 半兵衛が。


 目を細める。


「変えてきましたな」


「はい」


 使者が。


 もう一通。


 差し出す。


「信長様より」


「宗一郎様へ」


 宗一郎が。


 開く。


 短い。


 信長らしい。


 ――戻れ。


 その下。


 もう一行。


 ――未来と戦う前に、今の戦を片付ける。


 宗一郎は。


 しばらく。


 文を見た。


 そして。


 小さく。


 笑った。


「やっぱり」


「言われた」


 半兵衛が。


 覗く。


「何と」


「未来ばっかり」


「見てるなって」


「そのようですな」


 宗一郎は。


 文を畳んだ。


「行きましょう」


「岐阜へ?」


「はい」


 宗一郎は。


 長篠の地図を。


 巻いた。


 代わりに。


 別の地図を。


 広げる。


 摂津。


 大坂湾。


 堺。


 紀伊。


 淡路。


 そして。


 石山。


「顕如は」


「待ってくれない」


「当然です」


「九鬼殿が」


「海を見てる」


「滝川様も動いてる」


「それでも」


「百石以上入った」


 半兵衛が。


 地図を見る。


「敵も」


「学んでおります」


「はい」


「だったら」


 宗一郎は。


 石山を。


 指で押さえた。


「こっちも」


「次へ行く」


     ◆


 石山本願寺。


 同じ頃。


 顕如の前にも。


 報告が並んでいた。


「百二十七石」


「入ったか」


「はい」


「損失は」


「米俵十三」


「小船二艘」


「捕らえられた者」


「六名」


 顕如は。


 目を閉じた。


「六名」


「はい」


「名は」


 坊官が。


 一瞬。


 詰まった。


「……確認いたします」


 顕如の目が。


 開いた。


「今」


「何と申した」


「は」


「確認いたします、と」


「……は」


「米は」


「百二十七石と」


「すぐ言えた」


「は」


「失った米俵も」


「十三と」


「言えた」


「は」


「船も」


「二艘」


「数えた」


「はい」


 顕如の声が。


 低くなる。


「なのに」


「捕らえられた六人の」


「名を知らぬのか」


 部屋が。


 静まった。


「門徒を」


「数としか」


「見ておらぬのか」


「猊下」


「そのようなつもりでは」


「なら」


「名を覚えよ」


 声が。


 強くなる。


「米俵より」


「先にだ」


 坊官が。


 頭を下げる。


「申し訳ございません」


 顕如は。


 しばらく。


 黙った。


 怒りを。


 飲み込む。


「……続けよ」


「は」


「織田方は」


「海だけではなく」


「港での荷改めを」


「増やしております」


「九鬼か」


「いえ」


「九鬼だけではございません」


「堺」


「伊勢」


「近江」


「各地で」


「荷の流れそのものを」


「見始めております」


 顕如の顔が。


 変わる。


「高槻か」


「おそらく」


 顕如は。


 小さく。


 息を吐いた。


「船を止めるのではなく」


「荷を追うか」


「はい」


「厄介な男よ」


 坊官の一人が。


 言った。


「ならば」


「こちらも」


「さらに細かく分ければ」


「よろしいかと」


「どこまで」


「百石を」


「十石ずつ」


「それでも見つかれば」


「一石ずつ」


 顕如が。


 男を見る。


「一石の米を」


「十の村から集めるのか」


「は」


「その十の村が」


「織田に疑われる」


「……」


「我らが生きるために」


「門徒の村を」


「一つずつ」


「焼かせるつもりか」


 男が。


 黙る。


 顕如は。


 立った。


「戦はする」


 静かな声。


 だが。


 強い。


「石山も」


「捨てぬ」


「しかし」


「我らが生き残るためだけに」


「門徒を」


「使い潰すな」


 誰も。


 口を挟まない。


「織田は」


「変わった」


 顕如が言う。


「なら」


「我らも」


「変わらねばならぬ」


 地図を見る。


 海。


 川。


 陸。


 そして。


 西。


「毛利へ」


 坊官たちが。


 顔を上げる。


「援軍を?」


「違う」


 顕如は。


 即座に否定した。


「まだ」


「兵は借りぬ」


「では」


「聞くのだ」


「何を」


 顕如の指が。


 海をなぞった。


「織田が」


「海をどこまで」


「見始めているか」


「毛利は」


「我らより」


「海を知っておる」


 そして。


 もう一言。


「ただし」


「頭は下げぬ」


 顕如の目に。


 強い光が戻る。


「石山は」


「まだ」


「負けておらぬ」


 未来を巡る。


 見えない戦いの裏で。


 もう一つの戦は。


 一度も。


 止まってはいなかった。


 石山本願寺。


 十年に及ぶ戦いは。


 これから。


 さらに。


 形を変えようとしていた。

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