第百十九章 死人の蔵
第百十九章 死人の蔵
伊勢。
伊勢神宮へ向かう街道には、人が多い。
参詣人。
商人。
旅僧。
荷駄を引く百姓。
宿場は、そうした者たちを呑み込み、翌朝には吐き出す。
誰がどこから来たのか。
誰がどこへ消えたのか。
いちいち覚えている者はいない。
人を隠すには。
山奥より都合がいい。
「なるほどな」
滝川一益が宿場を見下ろした。
「鼠穴には向いている」
宗一郎たちは、宿場へ直接入らなかった。
街道から外れた小さな寺。
そこに長秀が待っている。
「遅かったな」
「急いできたんですけど」
「一益が遅い」
「俺か?」
「馬を替えなかっただろう」
「お前は替えすぎだ」
「喧嘩は後でしてください」
宗一郎が割って入る。
長秀が地面へ地図を広げた。
「三つの蔵はここだ」
一つ。
街道沿い。
一つ。
川に近い。
最後の一つ。
宿場の裏手。
「全部」
「佐久間玄蕃の名で?」
「ああ」
「だが直接ではない」
土地の持ち主。
蔵の持ち主。
金を受け取った者。
すべて違う。
「ただ」
「銭の出所を辿ると」
「同じ商人へ行き着く」
「誰です」
「伊勢屋ではない」
長秀が念を押した。
「松屋清右衛門」
「山田の商人だ」
「本人は?」
「今朝」
「消えた」
宗一郎の目が細くなる。
「気づかれたか?」
「おそらくな」
一益が鼻で笑った。
「なら今夜まで待つ理由はない」
「同感だ」
長秀が答える。
「三つ」
「同時に入る」
宗一郎が地図を見る。
「一つずつではなく?」
「一つ潰せば」
「残り二つが逃げる」
一益が答えた。
「だから同時だ」
長秀が指を置く。
「街道の蔵は儂」
「川沿いは一益」
「裏手は」
「俺?」
「嫌か」
「嫌です」
「なら帰れ」
「行きますよ」
半兵衛が小さく笑った。
「宗一郎殿」
「何です」
「嫌だと言いながら」
「一度も帰りませぬな」
「帰れるなら帰りたいですよ」
宗一郎は地図を畳んだ。
「源八郎」
「は」
「逃げ道は」
「北に二つ」
「川へ一つ」
「山へ入る細道が一つ」
「全部塞げるか?」
「塞ぎませぬ」
宗一郎が見る。
「一つだけ」
「開けておきます」
一益が。
にやりとした。
「分かってきたではないか」
全部を塞げば。
敵は死ぬまで戦う。
一つ残せば。
逃げる。
逃げた先に。
次の穴がある。
「ただし」
源八郎の目が冷える。
「武器を捨てぬ者は」
「通しませぬ」
「それでいい」
宗一郎が答えた。
今回は。
躊躇わなかった。
昼下がり。
宿場は。
普段通りだった。
それが。
逆に不気味だった。
宗一郎は。
旅装のまま。
裏手の蔵へ近づいた。
兵は目立たせない。
六人。
離れてさらに八人。
源八郎の者は。
見えない。
蔵の前。
荷車が一台。
男が二人。
普通の人足に見える。
「止まれ」
宗一郎が言った。
二人が見る。
「織田家の改めです」
片方が。
ほんの僅かに。
右足を引いた。
宗一郎は。
それを見た。
「手を見せろ」
「何を――」
「手を」
男の手が。
腰へ落ちた。
「捕らえろ!」
同時だった。
男が短刀を抜く。
もう一人が。
荷車を蹴った。
俵が落ちる。
中から。
鉄砲。
「伏せろ!」
轟音。
一人が倒れた。
「撃たれた!」
「脇へ!」
「蔵を開けろ!」
宗一郎が叫ぶ。
敵は。
最初から。
戦う準備をしていた。
蔵の戸が。
内側から開く。
三人。
鉄砲。
「撃たせるな!」
こちらも撃つ。
白煙が。
狭い道を埋めた。
宗一郎は。
壁へ身体を寄せる。
耳が。
鳴る。
「右!」
源八郎の声。
屋根。
一人いる。
弓。
矢が落ちる。
宗一郎の前にいた兵の肩へ刺さった。
「上だ!」
甲賀の者が。
横の家から屋根へ上がる。
敵も逃げる。
瓦が割れる。
人が落ちる。
地面へ。
鈍い音。
それでも敵は。
短刀を抜いた。
源八郎が。
先に喉元へ刃を当てる。
「捨てろ」
男は。
刃を捨てなかった。
源八郎も。
二度は言わなかった。
一閃。
宗一郎は。
それを見た。
だが。
止めなかった。
「中!」
兵が叫ぶ。
「火をつけるぞ!」
宗一郎が振り返る。
蔵の奥。
火。
油壺。
「駄目だ!」
宗一郎が走る。
「水!」
「火を消せ!」
「中へ入るな!」
半兵衛が叫ぶ。
「火薬があるかもしれませぬ!」
宗一郎の足が止まる。
次の瞬間。
蔵の中から。
男が飛び出した。
火のついた松明。
手には。
小さな樽。
宗一郎は。
意味を理解した。
「射て!」
銃声。
男が倒れる。
樽が。
転がる。
松明が落ちる。
「離れろ!」
兵が。
樽へ土をかける。
火薬だった。
あと少し。
松明が触れていれば。
蔵ごと。
吹き飛んでいた。
宗一郎の背中に。
冷たい汗が流れた。
「……本当に」
「証拠ごと」
「死ぬつもりだったのか」
半兵衛が答える。
「自分が捕らえられれば」
「何人も危うくなるのでしょう」
「そこまで」
宗一郎は。
蔵を見る。
「守りたいものが」
「あるってことか」
「あるいは」
半兵衛が言った。
「恐れている者が」
「いる」
戦いは。
長く続かなかった。
裏手の蔵。
敵六人。
死者四。
捕縛二。
こちらは。
一人死亡。
三人負傷。
宗一郎は。
死んだ兵の前で。
一度だけ頭を下げた。
名前を聞く。
「伊藤又八」
「尾張の者です」
「家族は」
「妻と」
「子が二人」
「記録して」
「はい」
それだけ。
戦の最中に。
長く悼む時間はない。
だが。
名を知らないまま。
死者を数字へ変えることだけは。
したくなかった。
◆
川沿い。
滝川一益のところは。
もっと激しかった。
「前!」
鉄砲。
銃声。
川辺に。
白煙が広がる。
「船を出すぞ!」
「出させるな!」
一益が。
自ら前へ出た。
「右から回れ!」
敵は十二人。
小舟が二艘。
箱を。
川へ運び出している。
「箱は捨てろ!」
「人を先に捕れ!」
家臣が。
一益を見る。
「荷はよいのですか!」
「荷が逃げるか!」
人を取れば。
次が分かる。
箱に夢中になって。
人を逃がす方が愚かだ。
三人が。
小舟へ乗る。
「弓!」
一益が叫ぶ。
矢が飛ぶ。
一人。
腕。
もう一人。
脚。
船頭が。
それでも櫂を入れる。
「鉄砲!」
「一益様!」
「船を沈めるな!」
狙うのは。
船頭。
銃声。
水面が弾ける。
外れ。
二発目。
船頭の肩。
櫂が落ちる。
小舟が。
流れへ横を向けた。
「取れ!」
別の小舟を出す。
だが。
蔵側で。
叫び。
「火だ!」
一益が振り返る。
こちらも。
燃やすつもりだ。
「消せ!」
「抵抗する者は斬れ!」
敵の一人が。
刀を抜いて突っ込む。
一益は。
避けない。
自ら。
刀を抜く。
一合。
二合。
三合目は。
なかった。
一益の刃が。
男の胸へ入った。
引き抜く。
「次!」
戦場で。
悩んでいる暇はない。
敵を斬った直後に。
次の命令を出す。
それが。
滝川一益だった。
街道側。
長秀の蔵では。
戦いそのものが。
起きなかった。
戸を破った時。
中は。
空だった。
「逃げたか」
家臣が言う。
長秀は。
首を振った。
「違う」
「最初から」
「ここは人を置く場所ではない」
蔵いっぱい。
紙。
帳面。
木札。
封蝋。
印。
各地の商人の名。
寺。
船。
宿。
「これは」
家臣が。
言葉を失う。
長秀も。
すぐには触れなかった。
戦の武器庫ではない。
もっと。
厄介なもの。
「人を動かすための」
長秀が呟く。
「武器庫か」
その時。
奥で。
音がした。
「誰だ!」
兵が刀を抜く。
箱の陰。
一人。
老人。
震えている。
「待て!」
長秀が止める。
「武器を持っておらぬ」
老人は。
腰を抜かしていた。
「名は」
「……弥兵衛」
「ここで何をしていた」
「字を……」
「字?」
「帳面を」
「写していただけで……」
「誰に頼まれた」
「知りませぬ!」
兵が。
苛立つ。
「嘘を――」
「待て」
長秀が。
老人の手を見る。
墨。
爪。
指。
長年。
筆を持つ者の手。
「武器は」
「ございませぬ!」
「印の意味は」
「知りませぬ!」
「十二使徒を知っているか」
「何でございます、それは……」
長秀は。
老人を見た。
そして。
「縛るな」
家臣が驚く。
「よいのですか」
「逃がせとは言っておらぬ」
「別室へ置け」
「飯を食わせろ」
「は」
「知らずに働いた者と」
「知って人を殺した者を」
「一緒にするな」
信長の命。
そのままだった。
◆
夕刻。
三つの蔵の結果が。
一つの宿へ集められた。
宗一郎。
半兵衛。
長秀。
一益。
源八郎。
死者。
こちら二人。
負傷七人。
敵。
死者九。
捕縛十一。
逃亡。
三。
「逃げた三人は」
宗一郎が聞く。
「追っている」
源八郎が答える。
「ただし」
「一人は」
「わざと通しました」
「予定通り?」
「はい」
「どちらへ」
「南」
一益が。
地図を見る。
「大湊か」
「まだ分かりませぬ」
「追え」
宗一郎が言う。
「でも」
「捕まえない」
「承知」
そして。
押収した物。
火薬。
銀。
鉄砲。
薬。
紙。
印。
複数の港の記録。
だが。
一番大きかったのは。
長秀の蔵。
帳面。
宗一郎は。
一冊開いた。
普通の商いに見える。
米。
薬。
紙。
油。
銀。
船賃。
「暗号?」
「いや」
長秀が言う。
「弥兵衛に聞いた」
「本人は意味を知らぬ」
「指示された通り」
「写しただけだ」
「同じ帳面を」
「三冊ずつ」
宗一郎が。
手を止める。
「三冊?」
「木札」
半兵衛が言った。
――三。
宗一郎が。
顔を上げる。
「三は」
「場所でも」
「人でもない」
「写しの数?」
「可能性はございます」
長秀が。
別の紙を出す。
「弥兵衛は」
「一冊は伊勢」
「一冊は西」
「一冊は東へ送ると」
「聞いていた」
「どこ」
「知らぬそうだ」
「本当に?」
「おそらく」
長秀は。
淡々と答えた。
「だが」
「こちらは知っている」
宗一郎が見る。
長秀は。
三つの木札を置いた。
一つ。
――尾張。
一つ。
――紀伊。
そして。
一つ。
――甲斐。
部屋が。
静かになった。
「甲斐……」
宗一郎が呟く。
佐吉。
尾張から東へ。
商人へ渡されたもの。
甲斐へ向かった。
そして。
道順の箱にも。
甲斐の木札。
「武田ではない」
宗一郎が。
先に言った。
「まだ」
「分かっております」
半兵衛が答える。
「ですが」
「甲斐に」
「中継点がある可能性は」
「かなり高くなりました」
一益が。
腕を組む。
「勝頼へ知らせるか」
「知らせます」
宗一郎が答えた。
「全部?」
「いいえ」
「こっちの手の内まで」
「見せる必要はない」
長秀が。
宗一郎を見る。
少しだけ。
口元が動いた。
「ようやく」
「人が悪くなってきたな」
「褒めてますか?」
「半分な」
「残り半分は」
「まだ甘い」
「十分です」
その時。
源八郎が。
新しい紙を持ってきた。
「高槻様」
「何」
「川沿いの蔵から」
「妙なものが」
宗一郎が受け取る。
それは。
帳面の切れ端。
焼こうとして。
半分だけ。
残った紙。
文字は。
少ない。
――玄蕃。
――次は名を変える。
その下。
別の文字。
――宗玄。
宗一郎は。
息を止めた。
「……やはり」
半兵衛が。
紙を取る。
一益。
長秀。
全員が見る。
「佐久間玄蕃と」
宗一郎が。
ゆっくり言った。
「宗玄が」
「同じ人?」
「待ってください」
半兵衛が止める。
「この一枚だけでは」
「そこまで言えませぬ」
「分かってます」
宗一郎は。
もう一度。
紙を見る。
玄蕃。
次は名を変える。
宗玄。
並んでいる。
だが。
意味は。
まだ一つではない。
玄蕃が宗玄へ名を変えた。
玄蕃が宗玄という別人へ引き継いだ。
宗玄が玄蕃の名を使った。
他にもある。
「ロレンソに」
「見せます」
「それと」
宗一郎が。
長秀を見る。
「岐阜へ」
「殿へ報告だ」
長秀が答える。
「はい」
「今度は」
宗一郎は。
紙を折った。
「死人が」
「一人ではすまなかった」
◆
その夜。
宿場から。
一人の男が。
南へ走っていた。
織田が。
わざと逃がした男。
本人は。
それを知らない。
山道。
村。
小さな渡し。
何度も。
後ろを見る。
誰もいない。
いる。
だが。
見えない。
源八郎の者が。
距離を変えながら。
追っている。
男は。
二日目の夜。
大湊へ入らなかった。
さらに南。
小さな入り江。
漁村。
一軒の家。
灯り。
戸を。
三度。
叩く。
一度。
間を置く。
もう二度。
戸が開いた。
「伊勢が破られた」
男が言う。
「三つともか」
中から。
声。
「はい」
「弥七は」
「分かりません」
「清右衛門は」
「消えました」
沈黙。
「玄蕃様へ」
「知らせなければ」
中の男が。
答えた。
「その名を」
「口にするな」
「しかし」
「もう」
声が。
低くなる。
「玄蕃などという男は」
「この世にはおらぬ」
外。
闇の中。
源八郎の配下が。
その言葉を聞いた。
そして。
家の裏手。
海側。
小舟が。
静かに岸を離れた。
乗っているのは。
一人。
年老いた男。
月明かり。
横顔。
左手。
指が。
一つ。
足りない。
船は。
沖へ向かう。
追う者は。
まだ。
手を出さない。
だが。
その男の腰には。
小さな根付があった。
鳥。
白鷺。
府内で。
源八郎たちが追った男と。
同じ。
印。
同じ夜。
伊勢の宿で。
宗一郎は。
まだ知らない。
五年前に。
平戸の海で死んだはずの男。
そして。
府内で。
宗玄と十二使徒を繋ぐ手掛かりとして追っていた。
あの。
鷺の男。
二つの影が。
今。
一つに。
重なろうとしていた。




