第百十六章 十二の始まり
第百十六章 十二の始まり
ロレンソは、日記を見た瞬間に言葉を失った。
岐阜。
小さな一室。
いるのは、高槻宗一郎、明智光秀、竹中半兵衛。
そして伊勢屋庄三郎。
信長は来ていない。
まず話を聞け。
それだけ命じていた。
「これは……」
ロレンソの指が、紙の上で止まった。
――ロレンソ殿へ。
――約束は守る。
――神を信じぬ我が子を責めぬでほしい。
――信じぬこともまた、あの子が己で選んだ道なれば。
「庄兵衛殿……」
初めて。
ロレンソの表情が崩れた。
庄三郎は黙っている。
宗一郎も急かさなかった。
しばらくして。
ロレンソが顔を上げた。
「庄三郎殿」
「はい」
「私は」
言葉を探す。
「あなたの父上と」
「友でした」
「存じませんでした」
「話さぬよう」
「頼まれていました」
「何故です」
「あなたが」
「我らの教えを好いていなかったからです」
庄三郎の眉が動いた。
「親父が?」
「はい」
「庄兵衛殿は」
「息子に信仰を押しつけたくないと」
「何度も申しておりました」
庄三郎が俯く。
宗一郎は。
そこへ口を挟まなかった。
聞くべきことは。
別にある。
光秀が先に尋ねた。
「蔵の約束とは」
ロレンソの顔から。
悲しみが消えた。
代わりに。
緊張が出る。
「それを」
「お話しする前に」
「一つ」
ロレンソが庄三郎を見る。
「申し訳ありません」
「何がです」
「あの蔵は」
「本来」
「武器を置く場所ではありませんでした」
庄三郎が。
ゆっくり顔を上げた。
「では」
「何のために」
「薬」
ロレンソは答えた。
「書物」
「紙」
「そして」
「海の向こうから来た者が」
「困った時に」
「一時身を寄せる場所」
宗一郎が聞く。
「宣教師の隠れ家?」
「それだけではありません」
「商人も」
「船乗りも」
「日本人も」
「南蛮人も」
「病人であれば」
「庄兵衛殿は受け入れました」
庄三郎が。
小さく呟く。
「親父らしい」
だが。
宗一郎は。
次へ進んだ。
「宗玄は」
「その約束を知っていた?」
「知っていました」
「あなたから?」
「違います」
即答。
「では誰から」
「庄兵衛殿からでしょう」
「でしょう?」
「私は」
ロレンソが言った。
「宗玄とは」
「ほとんど話したことがありません」
宗一郎の目が細くなる。
「前に」
「宗玄を知らないと言いましたね」
「はい」
「それは」
「嘘だった?」
「名は知っていました」
光秀の表情が変わった。
「ロレンソ殿」
声が冷える。
「我らは」
「既に一度」
「そなたを信じて話を聞いている」
「承知しております」
「なら何故」
「隠した」
ロレンソは。
逃げなかった。
「宗玄という名を知っていた」
「それだけだったからです」
「それだけ?」
「顔を見たことは」
「二度」
「言葉を交わしたことは」
「一度」
「何をしている男か」
「当時は知りませんでした」
宗一郎が聞く。
「今は?」
「分かりません」
「ただし」
ロレンソの目が。
日記へ向く。
「この記述を読んで」
「一つ」
「思い当たることがあります」
「十二?」
「はい」
部屋が。
静かになる。
「話してください」
宗一郎が言った。
ロレンソは。
ゆっくり話し始めた。
「五、六年前」
「九州に」
「十二人ほどの集まりがありました」
宗一郎は。
息を止めた。
「十二使徒?」
「その名ではありません」
「何と」
「正式な名は」
「ありませんでした」
ロレンソは続ける。
「宣教師」
「日本人の信徒」
「通訳」
「商人」
「船に関わる者」
「それぞれが」
「日本での布教について」
「意見を交わす集まりでした」
「十二人だった?」
「いつも十二人ではありません」
宗一郎が。
すぐ反応する。
「じゃあ」
「十二使徒って名前は」
「後から?」
「おそらく」
ロレンソは頷いた。
「最初は」
「ただの呼び名だったのでしょう」
「キリストの十二使徒になぞらえた」
「冗談か」
「自負か」
「それは分かりません」
光秀が尋ねる。
「何を話していた」
「どうすれば」
「この国に教えを伝えられるか」
「言葉」
「習慣」
「寺社との関係」
「大名との関係」
「学校」
「書物」
「医療」
宗一郎の表情が。
少し変わった。
最初から。
国を奪う相談をしていたわけではない。
「だが」
ロレンソの声が低くなる。
「意見が」
「分かれました」
「何について」
「人を一人ずつ」
「説くべきか」
「それとも」
「国主を先に得るべきか」
宗一郎は。
庄兵衛の日記を見た。
――国主一人を得れば、その民も従う。
「宗玄が言ったことと同じだ」
「はい」
「その集まりに」
「宗玄は?」
「おりません」
宗一郎が顔を上げる。
「本当に?」
「少なくとも」
「私がいた時には」
「おりませんでした」
「あなたもいた?」
「二度だけ」
光秀が。
鋭く聞く。
「何故今まで言わなかった」
「その集まりが」
「今の十二使徒と同じものだとは」
「考えていなかったからです」
「だが印は知っていた」
「印を見たのは」
「もっと後です」
ロレンソは。
日記を指した。
「この頃には」
「まだ」
「あの印はありませんでした」
二本の横線。
その下に丸。
それは。
後から生まれた。
「では」
半兵衛が。
初めて口を開いた。
「分かれた時がございますな」
全員が見る。
「最初は」
「布教の方法を話す集まり」
「そこから」
「国主を先に動かすべきだと考える者たちが」
「別の道へ進んだ」
「そして」
「いつしか」
「銀」
「武器」
「偽書」
「暗殺」
「そこまで行った」
ロレンソが。
苦しそうに頷いた。
「そう考えるのが」
「自然だと思います」
宗一郎が尋ねる。
「誰が」
「そっちへ持っていった?」
ロレンソは。
しばらく答えなかった。
「分かりません」
宗一郎は待つ。
「ですが」
「一人」
「思い当たる者がいます」
「名前は」
「日本人ではありません」
光秀の目が。
僅かに細くなる。
「南蛮人か」
「はい」
「宣教師?」
ロレンソは。
首を振った。
「少なくとも」
「聖職者ではありませんでした」
「商人?」
「そう名乗っていました」
「名は」
「ディオゴ」
「姓は?」
「分かりません」
「ポルトガル人?」
「おそらく」
「おそらく?」
「ポルトガル語を話しました」
「ですが」
「それだけで」
「どこの者かは決められません」
宗一郎は頷いた。
大事だった。
ポルトガル語を話す。
だからポルトガル王国の命令。
そうはならない。
「何をした人?」
「銭を持っていました」
「船も」
「人脈も」
「マカオ」
「ゴア」
「マラッカ」
「平戸」
「府内」
「堺」
「多くの港の名を知っていました」
宗一郎の背筋が。
僅かに冷える。
「宗玄との関係は」
「見たことはありません」
「でも?」
「ディオゴが」
「日本人の仲介者を」
「必要としていると」
「話していたことがあります」
「いつ」
「五年ほど前」
時期が。
重なる。
「特徴は」
「背が高い」
「髭」
「年は当時四十ほど」
「他には」
ロレンソが。
記憶を探る。
「左耳に」
「小さな傷がありました」
「それだけ?」
「はい」
宗一郎は。
記録役を見る。
「そのまま書いて」
「余計な推測はなし」
「は」
光秀が。
ロレンソを見続ける。
「まだ」
「隠していることは」
「あるか」
ロレンソは。
今度は。
長く考えた。
「あります」
宗一郎の表情が。
変わる。
「何」
「ディオゴは」
「日本を」
「征服するとは」
「言いませんでした」
「では」
「こう言いました」
ロレンソは。
一語ずつ。
思い出すように話した。
「国を取る必要はない」
「国を動かす者を」
「動かせばよい」
誰も。
すぐには口を開かなかった。
宗一郎は。
その言葉を。
紙へ書いた。
国を取る必要はない。
国を動かす者を動かせばよい。
宗玄が。
やってきたこと。
大名。
商人。
寺。
港。
そして。
帝の婚姻。
すべて。
その考え方なら。
繋がる。
「ディオゴは」
宗一郎が尋ねる。
「今どこに」
「分かりません」
「日本を出たのは?」
「四年ほど前と聞きました」
「行き先」
「マカオ」
また。
その名だった。
宗一郎は。
海の向こうへ消えた宗玄を思い出す。
偶然。
かもしれない。
だが。
調べる価値はある。
「追いません」
宗一郎が言った。
光秀が見る。
「よいのか」
「船を出して」
「マカオへ行って」
「ディオゴを探す?」
「今の俺たちには無理です」
「それに」
「向こうの土地で」
「誰が味方かも分からない」
半兵衛が頷く。
「なら」
「日本側を」
「はい」
「宗玄とディオゴが」
「本当に繋がっていたか」
「そこを先に探す」
ロレンソが。
宗一郎を見る。
「私からも」
「マカオへ問いを出します」
「前に言ってた」
「信頼できる人へ?」
「はい」
「ただし」
「返事には」
「長くかかります」
「構いません」
宗一郎は。
少し笑った。
「海の向こうは」
「急いでも」
「近くならないので」
ロレンソも。
僅かに笑った。
◆
庄三郎は。
最後まで。
黙っていた。
宗一郎が。
日記を返そうとすると。
「高槻様」
「はい」
「父は」
言葉が止まる。
「間違っていたのでしょうか」
宗一郎は。
すぐには答えなかった。
「何について?」
「切支丹になったことです」
「それは」
「俺には決められません」
「では」
「蔵を貸したこと」
「結果だけ見れば」
宗一郎は言った。
「利用された」
庄三郎の目が。
少し伏せられる。
「でも」
「最初から」
「人を殺すために貸したわけじゃない」
「病人」
「書物」
「薬」
「海を渡って困った人」
「そういう人のためだった」
「はい」
「なら」
「最初の約束まで」
「全部間違いだったとは」
「俺は思いません」
庄三郎は。
父の日記を見る。
「途中で」
「使う人間が変わった」
「そういうことです」
「では」
庄三郎は。
静かに言った。
「私は」
「父の約束を終わらせます」
宗一郎が見る。
「蔵を?」
「はい」
「今回の調べが終われば」
「もう」
「誰か分からぬ者には貸しませぬ」
「それがいいと思います」
「ただ」
庄三郎が。
少し笑った。
「病人なら」
「これまで通り入れます」
宗一郎も笑った。
「それも」
「いいと思います」
ロレンソは。
何も言わず。
深く。
庄三郎へ頭を下げた。
◆
その夜。
信長は。
報告を最後まで聞いた。
宗一郎。
光秀。
半兵衛。
長秀。
秀吉。
官兵衛。
「ディオゴ」
信長が。
初めて聞く名を繰り返す。
「はい」
「商人を名乗る南蛮人」
「五年ほど前」
「布教の方法を話していた者たちと接触」
「国を取る必要はない」
「国を動かす者を動かせばいい」
「そして」
「四年ほど前に」
「マカオへ向かった可能性」
信長が。
宗一郎を見る。
「宗玄も」
「マカオへ向かった可能性があります」
「会いに行ったか」
「可能性はある」
「証は?」
「ないです」
「なら」
「書くな」
宗一郎が頷く。
「はい」
信長は。
それ以上。
ディオゴについて話さなかった。
代わりに。
「明日」
宗一郎が顔を上げる。
「京へ行く」
「何かありました?」
「主上からだ」
光秀は。
既に知っていた。
「新たな武家の役について」
「候補を選ぶ者」
「その範囲を」
「決める」
宗一郎は。
思わず。
机の上にある十二使徒の記録を見る。
外から。
国を動かす者を動かす。
まさに。
今。
自分たちは。
国を動かす者が。
誰なのかを決めようとしている。
「嫌な時に」
「嫌な言葉を聞いたな」
宗一郎が呟く。
信長が笑う。
「だからこそ」
「今決める」
「何を?」
「誰が」
信長の声が。
低くなる。
「天下の兵を」
「動かせるのかだ」
◆
翌日。
禁裏。
帝。
織田信長。
高槻宗一郎。
明智光秀。
竹中半兵衛。
鷹司家当主。
前に。
これまで積み上げてきた案が置かれている。
大きな私戦を止める。
外敵に対して兵をまとめる。
京を守る。
主要な街道を整える。
戦時の兵糧と動員を調整する。
禁裏の内は。
朝廷が守る。
役を持つ者が。
勝手に恒久の全国税を取ることは許さない。
役は。
世襲ではない。
信忠であっても。
自動的には継がない。
役を持つ者が。
朝廷へ兵を向ける。
無断で外国と軍事の盟約を結ぶ。
国の兵や蔵を。
自家の物にする。
そうした時には。
罷免できる。
そして。
緊急時には。
先に兵を動かせる。
後から。
朝廷へ報告する。
ここまでは。
既に決まっている。
問題は。
後継者。
「大名とは何か」
帝が言った。
宗一郎は。
少し嫌そうな顔をした。
帝が。
それに気づく。
「何だ」
「いや」
「やっぱりそこからなんだなって」
「そなたが」
「仕組みにせよと言ったのだろう」
「そうなんですけど」
信長が。
横から言う。
「諦めろ」
「信長様は楽しそうですね」
「儂が決める側だからな」
「最悪だ」
鷹司家当主が。
咳払いをした。
「御前にございます」
「……すみません」
帝は。
少し笑っていた。
だが。
すぐに。
表情を戻す。
「全ての大名に」
「一票ずつ持たせる」
「それは無理だ」
信長が即答した。
「何故」
「百石の国人と」
「百万石を動かす者を」
「同じにはできぬ」
「石高だけで決めれば?」
宗一郎が聞く。
「土地を持たぬが」
「兵を動かせる者もいる」
光秀が答える。
「寺社勢力もございます」
半兵衛も続く。
「港と船を握る者も」
「九鬼殿のような?」
「はい」
宗一郎は。
少し考える。
「じゃあ」
「大名って言葉を」
「使わなければいいんじゃないですか」
全員が見る。
「どういう意味だ」
信長が聞く。
「大名を決めるから」
「終わらない」
「必要なのは」
「次の役を選ぶ時に」
「誰の意見を聞くかでしょう?」
半兵衛が。
僅かに笑った。
「続けてください」
「地域ごとに」
「代表を出す」
「畿内」
「東海」
「北陸」
「山陽」
「山陰」
「四国」
「九州……」
宗一郎が。
途中で止まる。
「いや」
「今の支配範囲で」
「九州まで決めるのは無理か」
「その通りだ」
信長が言った。
「従わぬ者を」
「勝手に制度へ入れるな」
「じゃあ」
「朝廷の命に従う意思を示した武家の中から」
「地域ごとに?」
光秀が考える。
「悪くはない」
「だが」
「地域の境を誰が決める」
「また増えた……」
宗一郎が。
頭を抱えた。
帝が。
今度ははっきり笑った。
「天下を作るとは」
「そういうことなのであろう」
「笑い事じゃないですよ」
「朕は」
「少し面白い」
「主上まで……」
だが。
信長が。
そこで口を開いた。
「難しくするな」
全員が見る。
「最初から」
「百年後の仕組みを作ろうとするな」
宗一郎の表情が変わった。
信長は続ける。
「今」
「この役が必要なのだ」
「なら」
「今使える仕組みを作る」
「後で」
「足りぬところを直せ」
宗一郎は。
思わず。
信長を見る。
「何だ」
「いや」
「すごく正しいこと言ったなって」
「宗一郎」
「はい」
「御前だぞ」
「すみません」
半兵衛が。
口元を隠した。
信長は。
紙を引き寄せる。
「まず」
「役を継ぐ候補を」
「今の役持ちが」
「一人では決めぬ」
「はい」
「朝廷だけでも決めぬ」
「はい」
「なら」
「朝廷に従い」
「一定以上の兵を動かせる家から」
「何家かを」
「評議へ出させる」
光秀が尋ねる。
「何家ほど」
「多すぎれば決まらぬ」
「少なすぎれば」
「一部の家だけで天下を動かします」
鷹司家当主が言う。
「七」
帝が言った。
宗一郎が。
帝を見る。
「七家?」
「奇数の方がよかろう」
「そういう問題?」
「そういう問題でもある」
帝は。
真面目だった。
「ただし」
「七家を」
「永久に固定せぬ」
半兵衛の目が。
僅かに動く。
「一定の年ごとに」
「見直す?」
「そうだ」
「領地」
「兵」
「朝廷への奉仕」
「国の安定」
「それを見て」
「評議へ出る家を変える」
宗一郎は。
未来の制度を思い浮かべそうになって。
やめた。
これは。
選挙ではない。
議会でもない。
戦国の現実から。
作ろうとしている。
別のものだ。
「七家が」
宗一郎が言う。
「候補を出す」
「朝廷が認める」
「ただ」
「現職の家は」
「自分の後継を決める時」
「外した方がいい」
信長が。
宗一郎を見る。
「儂が」
「信忠を推すのを防ぐためか」
「信長様だけじゃない」
「誰でもです」
「よい」
即答。
「外せ」
宗一郎が。
少し驚く。
「いいんですか」
「前にも言った」
「信忠に力があるなら」
「儂が押さずとも」
「選ばれればよい」
帝が頷いた。
「では」
「現職の家は」
「次代選定の評議から外す」
光秀が。
記録へ落とす。
「七家」
「ただし現職家を除く場合」
「補いを一つ入れる必要がございます」
「八家目を?」
「臨時に」
「それでよい」
信長が言った。
少しずつ。
形ができる。
完璧ではない。
穴もある。
だが。
動く形にはなってきた。
そして。
帝が。
最後の紙を。
前へ出した。
「では」
「そろそろ」
「名を決めよう」
部屋が。
静かになる。
長かった。
権を先に決めた。
継承を決めた。
罷免を決めた。
緊急時を決めた。
ようやく。
名。
「征夷大将軍ではない」
帝が言う。
「はい」
光秀が答える。
「管領でもない」
「はい」
「古き幕府を」
「作り直すのでもない」
「御意」
帝は。
信長を見る。
「そなたは」
「何と呼ばれたい」
「別に」
信長が即答する。
「役目が分かれば」
「何でもよい」
「信長様らしいなあ」
「黙れ宗一郎」
「はい」
帝は。
一枚の紙を。
信長の前へ置いた。
そこには。
四文字。
宗一郎は。
ゆっくり読んだ。
「天下……鎮護」
その下。
もう一字。
職。
――天下鎮護職。
帝が言う。
「天下の兵乱を鎮め」
「朝廷と国土を護る」
「されど」
「天下を己が家の物とはせぬ」
「そのための役だ」
信長は。
紙を見る。
長い。
沈黙。
「気に入らぬか」
帝が尋ねる。
「いや」
信長が答えた。
「悪くない」
「なら」
「織田信長」
帝の声が。
変わった。
私的な話ではない。
帝として。
国の武家へ。
命じる声。
「そなたに」
「最初の天下鎮護職を」
「命ずる」
宗一郎は。
息を止めた。
室町幕府が終わり。
将軍が消え。
空いたままだった場所。
そこへ。
同じものを戻すのではない。
別の役を。
作った。
信長は。
頭を下げた。
「謹んで」
そこで。
一度。
顔を上げる。
「ただし」
宗一郎は。
思わず目を閉じた。
やっぱり言う。
帝は。
驚かなかった。
「申せ」
「この役」
「織田家の物には」
「なさいませぬよう」
帝の口元が。
僅かに上がった。
「それを」
「そなた自身が言うか」
「だから申します」
「儂が死んだ後」
「愚かな倅が」
「これは父から受け継いだ物だと」
「勝手に名乗らぬよう」
「信忠殿が聞いたら」
「怒りますよ」
宗一郎が言う。
「怒るくらいでよい」
信長は答えた。
「それで努力するなら」
「まだ見込みがある」
帝は。
ゆっくり頷いた。
「認める」
「天下鎮護職は」
「織田家の家職にあらず」
「朝廷より」
「その時代の武家へ」
「任ずる役とする」
「は」
信長が。
もう一度。
頭を下げた。
その日。
まだ。
天下すべてが知ったわけではない。
毛利も。
上杉も。
武田も。
本願寺も。
この役を認めたわけではない。
紙一枚で。
戦国が終わったわけでもない。
だが。
確かに。
一つ。
変わった。
将軍ではない。
幕府でもない。
そして。
世襲でもない。
最初の。
天下鎮護職。
織田信長。
信長は。
任を受けた直後。
帝へ尋ねた。
「一つ」
「何だ」
「今日から」
「使ってよいのでしょうな」
宗一郎が。
嫌な予感を覚えた。
帝も。
少しだけ。
目を細める。
「何をする」
信長は。
笑った。
「国中の港を」
「数えます」
宗一郎が。
思わず。
九鬼嘉隆の顔を思い浮かべた。
「やっぱり海か……」
信長が振り返る。
「宗一郎」
「はい」
「九鬼を呼べ」
「嫌がりますよ」
「知るか」
「あと」
「何です」
「三月で」
「海に何が足りぬか」
「全部出させろ」
船。
船大工。
水夫。
港。
鉄。
木。
縄。
火薬。
水。
兵糧。
そして。
海を知る者。
天下鎮護職。
織田信長が。
最初に目を向けたのは。
新しい城でも。
新しい領地でもなかった。
海だった。
宗一郎は。
その意味を。
理解していた。
海の向こうへ。
宗玄が消えたからではない。
本願寺が。
海から兵糧を入れているからだけでもない。
毛利が。
海を見ているからだけでもない。
日本が。
これからも。
国を閉じないのなら。
海は。
国の外ではない。
国の入口になる。
そして。
入口を開けたまま守る。
その難しさを。
宗一郎たちは。
ようやく知り始めていた。




