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『天下布武、その先へ』―転生者と織田信長が拓いた、誰も知らない日本史―  作者: みなみ


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第百十五章 もう一つの名

第百十五章 もう一つの名


 三河。


 岡崎。


 徳川家康は、商人の帳面を集めさせた。


 ただし、城へ持ってこさせたわけではない。


「騒がせるな」


 家康は命じた。


「宗玄という名だけを探せ」


 酒井忠次が尋ねる。


「見つからなければ?」


「似た商いを見る」


「似た商い?」


「薬種、硝石、紙、銀。それに南蛮物だ」


 石川数正が頷く。


「名を変えている可能性を?」


「信長殿がわざわざ尋ねてきた男だ」


 家康は書状を指先で叩いた。


「素直に宗玄と名乗っている方がおかしかろう」


 忠次が苦笑する。


「殿も随分、高槻殿のようなことを申されるようになりましたな」


「やめよ」


「何がでございます」


「嬉しくない」


 数正が僅かに笑った。


 家康は高槻へ人を出した。


 だが、塀を越えるな。


 人を買収するな。


 技術を盗むな。


 外から見えるものだけを見ろ。


 そう命じた。


 帰ってきた者たちが報告したのは、新しい大筒の秘密ではなかった。


 学校。


 帳面。


 倉。


 道。


 人の配置。


 仕事の分け方。


 誰か一人がいなくなっても回る仕組み。


 家康には、それが気になっていた。


「五年前まで遡れ」


「は」


「宗玄という名がなくとも」


「急に増えた取引があれば出せ」


「承知」


 三日後。


 最初の報告が上がった。


 宗玄。


 なし。


 四日目。


 なし。


 五日目。


 数正が一冊の写しを持ってきた。


「殿」


「出たか」


「宗玄ではございませぬ」


 家康が顔を上げる。


「では」


「玄宗」


 部屋が静かになった。


「何?」


「玄宗という薬種商が、四年前に吉田へ入っております」


「どこから」


「伊勢」


「扱った物は」


「薬種、紙、油。それに少量の硝石」


 家康の目が細くなる。


 宗玄。


 玄宗。


 文字を入れ替えただけ。


 偶然かもしれない。


 しかし。


「同じ男かもしれない」


「は」


「玄宗を追え」


「四年前でございます」


「帳面の中をだ」


 信長が尾張で行ったことを。


 家康は知らない。


 それでも。


 同じところへ辿り着いていた。


     ◆


 玄宗は、四年前に三河へ三度来ていた。


 一度目。


 吉田。


 二度目。


 岡崎。


 三度目。


 浜松方面。


 薬種と紙。


 それだけなら珍しくない。


 だが、二度目の取引に。


 銀があった。


「誰と取引した」


 数正が尋ねる。


「岡崎の商人、三河屋新兵衛」


「今もいるか」


「おります」


「会う」


 家康は言った。


 数正が驚く。


「殿ご自身が?」


「呼べ」


「城へ?」


「いや」


 家康は少し考える。


「数正が会え」


「私が」


「儂が会えば」


「相手は何でも知っていると言い出す」


 忠次が吹き出した。


「笑うな」


「失礼」


 三河屋新兵衛は。


 五十を越えた商人だった。


 玄宗のことを聞かれると。


 すぐに思い出した。


「珍しい男でございました」


「何が」


「物を売るより」


「話を聞く方が好きで」


 数正の目が変わる。


「何を聞いた」


「道」


「米の値」


「馬」


「鉄砲」


「どの城に何人いるか」


「それを答えたのか」


「まさか」


 新兵衛は苦笑する。


「商人同士の世間話にございます」


「だが聞かれた」


「はい」


「徳川家については」


 新兵衛が少し考えた。


「信長様との仲を」


「何度か」


「他には」


「武田との戦になれば」


「三河の商人は困るか、と」


 数正の表情が消えた。


「何と答えた」


「困るに決まっておる、と」


 当然だった。


 戦になれば道が止まる。


 馬を取られる。


 荷を徴発される。


 商いは細る。


「それから」


 新兵衛が続ける。


「妙なことも」


「何だ」


「家康様は」


「信長様を恐れておられるのかと」


 数正は黙った。


「何と答えた」


「知るか、と」


 新兵衛が笑う。


「殿様の腹など」


「商人に分かるものではございませぬ」


「よい答えだ」


「ありがとうございます」


「玄宗はその後」


「一度だけ」


「人を寄越しました」


「誰だ」


「名前は」


 新兵衛が眉を寄せる。


「確か……」


「善次?」


「違う」


「善……」


 数正が待つ。


「善右衛門」


 空気が。


 変わった。


 数正は。


 その名を知らない。


 だが。


 記録する。


「何をした」


「紙を買いました」


「どれほど」


「かなり」


「どこへ」


「尾張へ運ぶと言っておりました」


 数正は。


 それ以上。


 玄宗について聞かなかった。


「最後に一つ」


「はい」


「玄宗は」


「キリシタンだったか」


 新兵衛は。


 首を傾げた。


「さあ」


「十字架は」


「見た覚えがございませぬ」


「伴天連と一緒にいたことは」


「一度だけ」


 数正が顔を上げる。


「どこで」


「吉田で」


「南蛮人か」


「いいえ」


「日本人の切支丹だったと思います」


「名は」


「存じませぬ」


「何を話していた」


「聞いておりませぬ」


 数正は頷いた。


 そこから先を。


 無理に埋めなかった。


 家康は報告を聞き終えると。


 長く黙った。


「玄宗」


「善右衛門」


「尾張」


 信長から知らされたのは。


 宗玄だけ。


 善右衛門という名は。


 聞いていない。


「信長殿へ」


 忠次が言う。


「すぐ知らせますか」


「知らせる」


「全て?」


 家康は。


 少し考えた。


「玄宗」


「善右衛門」


「尾張へ紙」


「そこまでだ」


「切支丹の件は?」


「書かぬ」


「何故」


「一度会っただけだ」


 家康は即答した。


「それで切支丹すべてを疑わせる必要はない」


 忠次と数正が。


 僅かに顔を見合わせた。


「何だ」


「いえ」


「申せ」


 忠次が笑う。


「殿も」


「変わられましたな」


「誰と比べている」


「以前の殿と」


「ならよい」


 高槻とは言わなかった。


 忠次も。


 そこまで無謀ではなかった。


     ◆


 岐阜。


 家康からの書状を読んだ宗一郎は。


 一行目で立ち上がった。


「玄宗!」


 信長が顔をしかめる。


「うるさい」


「でも」


「玄宗ですよ!」


「読めば分かる」


「善右衛門まで出てる!」


「それも読んだ」


 光秀が書状を受け取る。


 半兵衛も覗く。


 宗玄。


 玄宗。


 善右衛門。


 尾張へ運ばれた紙。


「繋がりましたな」


 半兵衛が言う。


「かなり」


 宗一郎は頷いた。


「でも」


 官兵衛が言う。


「何が繋がったのでしょう」


 宗一郎が見る。


「宗玄と玄宗が同一人物」


「それは?」


「……かなり高い」


「証は」


 宗一郎が黙る。


 官兵衛は続ける。


「善右衛門が両方に繋がる」


「はい」


「扱う品も似る」


「はい」


「時期も合う」


「はい」


「それでも」


「名を入れ替えただけの別人という可能性は残る」


 宗一郎が。


 ため息をついた。


「官兵衛は」


「嫌なところ突くな」


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてない」


 信長が言った。


「同じ男として調べろ」


 宗一郎が顔を上げる。


「断定するんですか」


「違う」


「同じ男だと仮に置く」


「違えば捨てる」


 宗一郎は。


 少し驚いた。


「何だ」


「いや」


「それ」


「俺が言おうと思ってた」


「遅い」


 信長は。


 書状を光秀へ渡した。


「三河屋の古い帳面を」


「写しでよい」


「家康に頼め」


「承知」


「長秀」


「は」


「伊勢屋の帳面と比べろ」


「は」


「宗一郎」


「はい」


「府内と平戸」


「善右衛門と宗玄の記録」


「並べろ」


「分かりました」


「半兵衛」


「はい」


「全部を見ろ」


 半兵衛が。


 少し笑う。


「一番面倒な役でございますな」


「貴様が一番向いておる」


「光栄にございます」


 数日。


 記録が集められた。


 尾張。


 三河。


 府内。


 堺。


 平戸。


 宗玄。


 玄宗。


 善右衛門。


 品物。


 日付。


 場所。


 そして。


 一つ。


 妙なことが見つかった。


「ここです」


 半兵衛が。


 紙を指した。


 六年前。


 尾張。


 宗玄。


 薬種。


 紙。


 四年前。


 三河。


 玄宗。


 薬種。


 紙。


 硝石。


 日付の差。


 十一日。


「十一日?」


 宗一郎が言う。


「尾張から三河なら」


「行ける」


「十分に」


 半兵衛が頷く。


「次」


 三河での玄宗。


 その十八日後。


 堺で宗玄。


「これも行ける」


「次」


 堺。


 その後。


 府内。


 船を使えば。


 可能。


 記録上。


 宗玄と玄宗が。


 同じ日に別の場所へいた例が。


 一つもない。


「偶然?」


 宗一郎が聞く。


「可能性はございます」


 半兵衛が答える。


「しかし」


「同じ男である可能性は」


「かなり高くなりました」


 さらに。


 筆跡。


 本人の筆は少ない。


 多くは代筆。


 だが。


 数字の書き方。


 品物の並べ方。


 硝石を記す時の略し方。


 同じ癖。


 そして。


 決定的ではないが。


 もう一つ。


 三河屋新兵衛が覚えていた。


 玄宗の身体。


「右足を」


「少し引いて歩いていた?」


 宗一郎が確認する。


 光秀が頷く。


「家康殿から追加で届いた」


「左手は」


「薬指が」


「なかったそうだ」


 部屋が。


 静かになった。


 右脚の僅かな跛行。


 左手薬指の欠損。


 鷺の根付。


 府内で追った。


 宗玄。


「同じ男だ」


 秀吉が言った。


 今度は。


 宗一郎も。


 否定しなかった。


「はい」


「ほぼ間違いない」


 信長が。


 宗玄と玄宗。


 二つの名を。


 墨で一本の線に繋いだ。


「十年近く」


 誰も答えない。


「こいつは」


「国々を歩き」


「商いをし」


「話を聞き」


「人を繋ぎ」


「道を作っていた」


 宗一郎は。


 背筋に。


 冷たいものを感じた。


 暗殺。


 偽書。


 銀。


 火薬。


 それらは。


 最近始まった。


 だが。


 準備は。


 もっと前からだった。


「十二使徒は」


 宗一郎が言う。


「最初から」


「十二使徒だったのかな」


 光秀が見る。


「どういう意味だ」


「十年前から」


「今みたいなことをするつもりだったのか」


「それとも」


「最初は」


「別のものだったのか」


 南蛮交易。


 布教。


 商い。


 情報交換。


 人脈。


 そこから。


 いつ。


 暗殺や政治工作へ変わった。


「重要ですな」


 半兵衛が言った。


「もし途中で変わったなら」


「変えた者がおります」


「誰かが」


 宗一郎が続ける。


「宗玄たちに」


「商いじゃなく」


「国を動かせと」


「命じた」


 信長の目が。


 鋭くなった。


「海の向こうか」


「まだ」


 宗一郎は首を振る。


「分かりません」


「日本の中かもしれない」


「宗玄自身かもしれない」


「別の誰かかもしれない」


「なら」


 信長が言った。


「昔と今を分けろ」


 宗一郎が。


 信長を見る。


「宗玄が」


「いつ変わった」


「何を扱い始めた」


「誰と会い始めた」


「そこを探せ」


「はい」


 これは。


 新しい調べ方だった。


 宗玄を追うのではない。


 宗玄が。


 変わった時を追う。


     ◆


 その答えを。


 最初に持ってきたのは。


 伊勢屋庄三郎だった。


「高槻様」


「何か?」


 庄三郎は。


 父の古い帳面を。


 抱えていた。


「家に」


「残っておりました」


「先代の?」


「はい」


「商いの帳面ではございませぬ」


 宗一郎が受け取る。


「何です?」


「父の日記のようなものです」


 庄三郎は。


 少し複雑な顔をした。


「切支丹になってから」


「父は」


「時折」


「思ったことを書くようになりまして」


 宗一郎の手が。


 止まる。


「読んでも?」


「そのために持ってきました」


 古い紙。


 ところどころ。


 聖書の教えらしき言葉。


 神への祈り。


 家族。


 商い。


 病人。


 貧しい者。


 宗一郎には。


 先代庄兵衛が。


 狂信的な人間には見えなかった。


 むしろ。


 自分の生き方を。


 何度も問い直している。


 そして。


 宗玄の名。


 何度か。


 出てくる。


 ――宗玄殿、薬を持参。


 ――異国の教えについて語る。


 ――彼は洗礼を受けておらぬという。


 宗一郎の指が。


 止まった。


「宗玄」


「キリシタンじゃなかった?」


 庄三郎も。


 そこを読んでいた。


「少なくとも」


「父がこれを書いた頃は」


 さらに読む。


 翌年。


 ――宗玄殿、再び来る。


 ――近頃は神の話より、国の話をする。


 次。


 ――日本は一つになれば強くなると宗玄殿。


 ――されど、その一つが誰の下にあるべきかは語らず。


 そして。


 その翌年。


 庄兵衛の筆が。


 変わった。


 ――宗玄殿と争う。


 宗一郎が。


 顔を上げる。


「争った?」


 庄三郎も。


 知らなかったらしい。


「続きが」


 宗一郎は読む。


 ――神を広めるため、力ある者を先に得るべしと宗玄殿。


 ――国主一人を得れば、その民も従うと言う。


 ――私は違うと申した。


 ――信じるとは、命じられることではない。


 宗一郎は。


 何も言えなかった。


 庄三郎が。


 父の字を見つめる。


 次。


 ――宗玄殿、怒る。


 ――我らは遅すぎると言う。


 ――海の向こうでは、もっと大きな考えが動いていると。


 その次の行。


 墨が。


 少し薄い。


 ――「十二」という言葉を聞く。


 部屋の空気が。


 変わった。


「いつです」


 宗一郎が尋ねる。


 庄三郎が。


 日付を見る。


「五年前」


 十二使徒。


 少なくとも。


 五年前には。


 その言葉が。


 宗玄の周囲にあった。


 さらに。


 最後。


 庄兵衛が亡くなる。


 半年ほど前。


 ――宗玄殿とは、しばらく会わぬこととした。


 ――だが、昔の約束は残る。


 ――蔵は、海の向こうとこの国を繋ぐ者のため貸す。


 ――宗玄殿のためではない。


 庄三郎の手が。


 震えた。


「親父……」


 宗一郎は。


 何も言わなかった。


 父は。


 宗玄と決別していた。


 だが。


 蔵を貸す約束そのものは。


 別の誰かとのものだった。


 庄三郎は。


 父の遺言を。


 守った。


 しかし。


 その遺言を。


 宗玄の側が。


 利用した。


「庄三郎さん」


「はい」


「あなたの父上は」


 宗一郎は。


 言葉を選んだ。


「少なくとも」


「途中で」


「宗玄を疑っていた」


 庄三郎は。


 目を閉じた。


「そうですか」


「でも」


「蔵を貸せと言った」


「はい」


「何故でしょう」


「分かりません」


 宗一郎は。


 正直に答えた。


「ただ」


「宗玄のためではない」


「そう書いてある」


「なら」


 庄三郎が。


 ゆっくり顔を上げる。


「父が約束した」


「友とは」


「宗玄ではない」


「可能性が高いです」


「誰です」


「それを」


 宗一郎は。


 日記を見る。


「探しましょう」


 そして。


 最後の頁。


 庄兵衛が。


 死の数日前に。


 書いた短い文があった。


 ――ロレンソ殿へ。


 宗一郎の呼吸が。


 止まった。


 庄三郎が見る。


「ご存じなのですか」


「……はい」


 ロレンソ。


 十二使徒について。


 宗一郎たちへ。


 最初に。


 自分から警告した男。


 宣教師。


 そして。


 先代伊勢屋庄兵衛の。


 友。


「まさか」


 宗一郎が呟く。


 日記には。


 続きがあった。


 ――ロレンソ殿へ。


 ――約束は守る。


 ――神を信じぬ我が子を責めぬでほしい。


 ――信じぬこともまた、あの子が己で選んだ道なれば。


 庄三郎の目から。


 初めて。


 涙が落ちた。


 父は。


 知っていた。


 息子が。


 自分の信仰を継がないことを。


 それでも。


 責めていなかった。


 宗一郎は。


 静かに日記を閉じた。


 そして。


 一つだけ。


 確信した。


 ロレンソには。


 まだ。


 聞いていないことがある。


 宗玄を。


 知っているか。


 ではない。


 もっと前。


「伊勢屋庄兵衛と」


 宗一郎は呟いた。


「何を約束した」


 十二使徒の始まりを探す道が。


 海の向こうではなく。


 もう一度。


 日本の中へ。


 戻ってきた。

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