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『天下布武、その先へ』―転生者と織田信長が拓いた、誰も知らない日本史―  作者: みなみ


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第百十四章 甲斐の鼠

第百十四章 甲斐の鼠


 甲斐。


 躑躅ヶ崎。


 織田信長から届いた書状は、評定が終わっても勝頼の手元に残っていた。


 ――甲斐へ向かう不審な文使いあり。


 ――南蛮交易に関わる者との繋がりを疑う。


 ――武田家との関係を示す証はなし。


 ――ゆえに、そちらで確かめよ。


 そして最後。


 ――これを謀と疑うなら、疑ったまま調べればよい。


「腹が立つ」


 勝頼が呟いた。


 高坂昌信が僅かに笑う。


「織田殿らしい文ではございます」


「だから腹が立つのだ」


 信じろ。


 とは書いていない。


 味方になれとも。


 協力しろとも書いていない。


 ただ。


 自分の国なら自分で調べろ。


 そう言われたに等しい。


「昌信」


「は」


「織田から来た者を使うな」


「当然にございます」


「こちらの目で見る」


「御意」


 勝頼は、信玄の死後。


 国の中を見直していた。


 兵。


 馬。


 米。


 城。


 道。


 鉄砲。


 矢。


 人。


 その中には。


 商人も含まれている。


「南蛮物を扱う者」


「硝石を扱う者」


「薬種」


「銀」


「紙」


「甲斐へ入る異国の品」


 勝頼は言った。


「三年分を見る」


 穴山信君が眉を寄せた。


「全てでございますか」


「全部を見る必要はない」


 勝頼は即答した。


「増えた物を見ろ」


「増えた物?」


「急に増えた商い」


「急に増えた銭」


「今まで来なかった者」


「そこからだ」


 高坂の目が。


 僅かに細くなる。


 織田から送られてきた情報には。


 そのやり方までは書いていない。


 これは。


 勝頼自身の判断だった。


「山県」


「は」


「甲府へ入る街道」


「馬場」


「は」


「信濃側」


「内藤」


「承知」


「駿河へ抜ける道」


「穴山」


「は」


「富士川筋」


「昌信」


「は」


「全部を繋げろ」


 高坂が頭を下げる。


「御意」


「ただし」


 勝頼は家臣たちを見た。


「南蛮物を持っているだけで捕らえるな」


 穴山が顔を上げた。


「よろしいので?」


「薬を持っていれば敵か」


「硝石を売れば敵か」


「違うであろう」


 勝頼は。


 信長からの文を指で叩いた。


「織田にできて」


「武田にできぬと思われるのは」


「もっと気に入らん」


 山県昌景が。


 今度こそ笑った。


「それは」


「まことに」


「御意にございます」


     ◆


 最初に見つかったのは。


 銀だった。


 甲府の商人。


 名は。


 小田切屋源兵衛。


 南蛮商人ではない。


 キリシタンでもない。


 普通の甲斐商人。


 米。


 塩。


 布。


 薬。


 何でも扱う。


 だが。


 ここ半年。


 銀の扱いが。


 明らかに増えていた。


「どこからだ」


 高坂の者が。


 帳面を見る。


 駿河。


 違う。


 美濃。


 違う。


 伊勢。


 一部。


 そして。


 尾張。


「尾張?」


 帳面に。


 名前がある。


 伊勢屋。


 ただし。


 庄三郎ではない。


 先代。


 庄兵衛。


 古い取引だった。


 六年前。


 五年前。


 四年前。


 薬種。


 紙。


 銀。


 その仲介。


 宗玄。


 高坂へ報告が上がる。


「宗玄」


 高坂は。


 その名を知らなかった。


 だが。


 信長の書状にあった。


 南蛮交易。


 尾張から甲斐へ向かった文使い。


 そして。


 古い帳面に残る。


 宗玄。


「源兵衛を捕らえるな」


 高坂は命じた。


「見ますか」


「見る」


 織田と。


 同じ判断だった。


 源兵衛は。


 怪しい動きをしなかった。


 朝。


 店。


 昼。


 蔵。


 夕。


 家。


 三日。


 四日。


 何もない。


 五日目。


 一人の旅商人が来た。


 美濃から。


 紙を持ってきた。


 普通の商い。


 値を決める。


 荷を渡す。


 銭を払う。


 終わり。


 旅商人は宿へ。


 翌朝。


 甲府を出る。


「これだけか」


 見張り役が。


 迷う。


 だが。


 高坂から言われていた。


 ――いつもと違うことを見ろ。


 源兵衛の奉公人に。


 それとなく聞く。


「昨日の紙屋は」


「ああ」


「初めてですよ」


「初めて?」


「旦那様も」


「誰だっけ、と」


 見張り役の目が変わる。


 初めての相手。


 なのに。


 店の奥へ通した。


 茶まで出した。


「追うぞ」


 旅商人を。


 追う。


 男は。


 甲府を出て。


 東へ向かった。


 だが。


 途中。


 突然。


 北へ折れた。


 信濃方面。


「……」


 見張りは。


 距離を取る。


 夕刻。


 男は。


 小さな寺へ入った。


 夜になっても。


 出ない。


 翌朝。


 出てきた時。


 荷が減っていた。


 紙の束。


 一つ。


 消えている。


 代わりに。


 小さな包みを持っている。


 男は。


 甲府へ戻らない。


 そのまま。


 西へ。


 見張り役は。


 男を追わなかった。


 寺を見た。


 半日後。


 別の男が出る。


 僧。


 荷はない。


 南へ。


 その僧を。


 別の者が追う。


 やがて。


 僧は。


 甲府の外れで。


 一人の武士と会った。


 そこで。


 武田の目が。


 初めて。


 止まった。


「誰だ」


「調べます」


 答えは。


 その日のうちに出た。


 武田家臣ではない。


 だが。


 武田の兵に。


 出入りしている。


 浪人。


 名を。


 塚原甚内。


 鉄砲の売買を仲介していた。


 高坂は。


 ここで。


 勝頼へ報告した。


「宗玄」


「小田切屋」


「美濃から来た旅商人」


「寺」


「僧」


「塚原甚内」


 勝頼は。


 並べられた名前を見る。


「まだ」


「何もないな」


 穴山が驚く。


「これだけ繋がっても?」


「商人が商人に会った」


「僧が浪人に会った」


「それだけだ」


「では」


「甚内を見る」


 勝頼は。


 短く言った。


 その判断が。


 当たりだった。


 三日後。


 甚内が。


 甲府を出た。


 向かったのは。


 山中の小さな屋敷。


 持ち主は。


 没落した国人の縁者。


 今は。


 ほとんど使われていない。


 夜。


 灯。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 人が集まる。


 浪人。


 商人。


 僧。


 そして。


 一人。


 身なりのよい男。


 武田の者は。


 顔を知らない。


 だが。


 言葉が。


 僅かに違った。


「尾張者か」


 見張りが呟く。


 聞こえたのは。


 断片だけ。


「……信長……」


「……上洛……」


「……勝頼……」


「……若い……」


「……今なら……」


 見張り役の身体が。


 固まる。


 もっと近づきたい。


 だが。


 近づかない。


 聞けたものだけ。


 持ち帰る。


 高坂へ。


 そして。


 勝頼へ。


     ◆


「若い」


 勝頼が。


 その言葉を繰り返した。


 山県の顔が険しくなる。


「殿を」


「侮っておりますな」


「それはどうでもよい」


 勝頼は。


 意外なほど。


 静かだった。


「問題は」


「何をさせたいかだ」


 馬場が言う。


「信長の名が出ております」


「ああ」


「なら」


「織田との戦を?」


「まだ決めるな」


 勝頼は。


 父なら。


 どうしただろう。


 そう考えかけて。


 止めた。


 父なら。


 ではない。


 今。


 武田を率いているのは。


 自分だ。


「甚内を捕らえる」


 高坂が尋ねる。


「屋敷ごと?」


「いや」


 勝頼は。


 地図を見る。


「出てからだ」


「何故」


「屋敷に」


「他の者が来るかもしれん」


「それに」


 勝頼の指が。


 甲府へ向かう道をなぞる。


「甚内一人なら」


「逃げたと思わせられる」


 高坂が。


 静かに頭を下げた。


「承知」


 翌日。


 塚原甚内は。


 屋敷を出た。


 供。


 一人。


 山道。


 人気がなくなったところで。


 武田の兵が。


 前へ。


 後ろへ。


「何者だ!」


 甚内が刀へ手を伸ばす。


「抜くな」


 声。


 山県昌景だった。


 甚内の顔色が変わる。


「山県……」


「知っておるなら」


「話が早い」


「何の御用で」


「殿がお呼びだ」


「勝頼様が?」


「来い」


 甚内が。


 一瞬。


 後ろを見る。


 逃げられない。


 刀から。


 手を離した。


 躑躅ヶ崎。


 勝頼は。


 自ら甚内に会った。


「塚原甚内」


「は」


「鉄砲を売っているそうだな」


「商いにございます」


「誰から買う」


「堺」


「伊勢」


「美濃」


「南蛮物も?」


「時には」


「宗玄」


 甚内の顔が。


 止まった。


 ほんの一瞬。


「誰にございます」


「知らぬか」


「存じませぬ」


「そうか」


 勝頼は。


 追及しない。


「では」


 次。


「佐吉」


 今度は。


 甚内の目が。


 明らかに動いた。


 高坂が。


 それを見る。


 勝頼も。


 見た。


「知らぬか」


「……存じませぬ」


「そうか」


 また。


 追及しない。


「信長」


「敵にございます」


「儂は?」


「武田の御屋形様」


「若いか」


 甚内が。


 初めて。


 息を止めた。


 勝頼は。


 静かに言った。


「答えなくてよい」


「もう」


「分かった」


 甚内の額に。


 汗が浮かぶ。


「何を」


「何も」


 勝頼は。


 高坂を見る。


「牢へ」


「は」


「待ってくだされ!」


 甚内が。


 初めて声を荒らげた。


「私は何も!」


「そうかもしれぬ」


「なら調べる」


「拷問でも!」


「せぬ」


 甚内が。


 逆に。


 言葉を失った。


「何故……」


「痛めつければ」


「儂が聞きたいことを言う」


 勝頼は。


 淡々と答えた。


「それでは」


「役に立たぬ」


 甚内は。


 連れて行かれた。


 山県が。


 勝頼を見る。


「殿」


「何だ」


「高槻の真似でございますか」


 勝頼が。


 山県を睨んだ。


「違う」


「そうですか」


「違う」


 高坂が。


 僅かに笑った。


     ◆


 甚内の荷。


 家。


 取引帳。


 全て。


 調べた。


 そして。


 一つ。


 見つかった。


 文。


 織田を討て。


 とは書かれていない。


 信長を殺せ。


 とも。


 違う。


 もっと。


 巧妙だった。


 ――信玄公亡き今こそ、若き虎は己の牙を示すべし。


 ――織田は将軍を失わせ、朝廷を己が家へ取り込まんとしている。


 ――今動かねば、武田は織田の下に置かれる。


 ――尾張より兵を動かすとの報あり。


 山県が。


 文を握り締める。


「殿」


「偽りです」


「分かっている」


「尾張から兵が動いたという報は」


「ない」


 高坂も言う。


「こちらの目でも確認できておりませぬ」


「それだけではない」


 勝頼が。


 文を指す。


「妙だ」


「何が」


「儂を」


「煽りすぎている」


 若い。


 父が死んだ。


 力を示せ。


 侮られる。


 今動け。


 勝頼が。


 最も。


 腹を立てそうな言葉。


 それを。


 並べている。


「儂が」


「父上と比べられるのを」


「嫌っていることまで」


「知っている」


 部屋が。


 静かになる。


「武田の中に」


 穴山が言う。


「内通者が?」


「まだ分からぬ」


 勝頼は。


 すぐ止めた。


「商人からでも」


「噂からでも」


「知れることだ」


「だが」


 文を裏返す。


 小さな印。


 二本の横線。


 その下に。


 丸。


「これが」


「織田の言っていたものか」


 高坂が。


 ゆっくり頷く。


「おそらく」


「十二使徒」


 勝頼が。


 初めて。


 その名を聞いた。


「何だ、それは」


「詳しくは分かりませぬ」


「織田側が追っている」


「南蛮交易に関わる集まりと」


「なら」


 勝頼は。


 文を机へ置いた。


「織田へ送れ」


 穴山が驚く。


「文そのものを?」


「写しだ」


「原本は残す」


「何と書きます」


 勝頼は。


 少し考えた。


「短くてよい」


 筆を取る。


 ――鼠一匹、捕らえた。


 山県が。


 笑いを堪える。


 勝頼は続ける。


 ――織田と戦えと、我らを煽る文あり。


 ――尾張より兵が動くとも記す。


 ――こちらでは、その事実を確認できず。


 そして。


 少し考え。


 最後。


 ――そちらの鼠は、武田が動くと言っておらぬか。


 筆を置いた。


「送れ」


「は」


 高坂は。


 その文を見た。


 勝頼が。


 信長へ。


 初めて。


 自分から情報を返す。


 だが。


 味方になったわけではない。


 織田を信じたわけでもない。


 ただ。


 敵に。


 別の敵がいる。


 その可能性を。


 認めただけだった。


     ◆


 岐阜。


「鼠一匹、捕らえた」


 信長が読み上げる。


 宗一郎が。


 思わず笑った。


「勝頼も言うようになったな」


「信長様の文に似てません?」


「似ておらぬ」


「似てますよ」


「黙れ」


 だが。


 次を読んだ時。


 信長の笑みは。


 消えた。


 ――織田と戦え。


 ――尾張より兵が動く。


 宗一郎も。


 表情を変える。


「嘘です」


「ああ」


 織田は。


 武田へ向けて。


 大軍を動かしていない。


「光秀殿」


「はい」


「尾張で見つかった方は」


「まだ佐吉から先を追っております」


「武田の動きについて」


「何か?」


「今のところ」


「ございませぬ」


 半兵衛が。


 静かに言った。


「なら」


「探す場所が決まりましたな」


「どこ?」


「武田を」


「見ていた者です」


 宗一郎が。


 理解する。


 十二使徒は。


 勝頼の性格を。


 ある程度。


 知っていた。


 信玄の死。


 勝頼への代替わり。


 父と比較される立場。


 そこを。


 突いてきた。


「甲斐の中だけじゃない」


 宗一郎が言う。


「武田について」


「情報を集めていた場所」


「堺」


 光秀。


「京」


 半兵衛。


「尾張」


 長秀。


「あるいは」


 官兵衛が言った。


「三河」


 全員が。


 官兵衛を見る。


「何故三河」


 秀吉が尋ねる。


「武田と織田」


「双方を見るなら」


「徳川領は」


「悪くない場所です」


 宗一郎は。


 十二枚の木札を思い出した。


 安芸。


 甲斐。


 三河。


 尾張。


「……三河」


 だが。


 すぐ。


 首を振る。


「家康が関わってるとは限らない」


「もちろん」


 官兵衛が答える。


「三河に」


「何かがある」


「それだけです」


 信長が。


 立ち上がった。


「家康へ」


 宗一郎が見る。


「知らせる?」


「ああ」


「甲斐と同じように?」


「同じではつまらん」


「そこ?」


 信長は。


 既に筆を取っていた。


「三河で」


「妙な南蛮の銀か」


「宗玄という商人か」


「十二使徒なる印を見たことはないか」


「調べろ」


 宗一郎が。


 慌てて止める。


「待って」


「何だ」


「十二使徒の印まで」


「全部教えるんですか」


「何故駄目だ」


「向こうが」


「もう知ってたら?」


 信長の手が。


 止まった。


「……なるほど」


 情報を渡しすぎれば。


 家康が何を知っていたのか。


 測れなくなる。


 信長は。


 紙を替えた。


「なら」


「宗玄だけだ」


「はい」


「南蛮交易に関わる商人」


「宗玄」


「三河で見たことがあるか」


「それだけ」


 信長が。


 宗一郎を見る。


「これでよいか」


「いいと思います」


「偉そうだな」


「聞いたの信長様です」


 半兵衛が。


 また。


 小さく笑った。


 その文は。


 三河へ。


 岡崎へ。


 送られた。


 数日後。


 徳川家康は。


 信長の書状を。


 何度も読んでいた。


「宗玄」


 酒井忠次が。


 首を傾げる。


「存じませぬ」


 石川数正も。


 知らない。


 家康は。


 すぐには答えなかった。


「商人の帳面を」


「調べさせよ」


「どこまで」


「五年」


「南蛮物」


「薬」


「硝石」


「銀」


「紙」


「宗玄の名」


 忠次が尋ねる。


「織田殿へ」


「返事は」


「まだだ」


 家康は。


 信長の文を畳む。


「まず」


「我らで確かめる」


 甲斐と。


 同じ答えだった。


 だが。


 家康は。


 最後に。


 一つ付け加えた。


「高槻へ出した者たちの報告も」


「もう一度持ってこい」


 数正の目が。


 僅かに動いた。


「高槻殿と」


「関係があると?」


「分からぬ」


 家康は。


 静かに答えた。


「だから」


「並べる」


 織田。


 武田。


 徳川。


 互いに。


 敵になり得る者たち。


 その三者が。


 それぞれ別の場所で。


 同じ名を。


 調べ始めた。


 宗玄。


 そして。


 まだ誰も。


 知らなかった。


 三河には。


 宗玄の名ではなく。


 別の名が。


 残されていた。

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