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『天下布武、その先へ』―転生者と織田信長が拓いた、誰も知らない日本史―  作者: みなみ


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第百十三章 父の遺言

第百十三章 父の遺言


 伊勢屋庄三郎は、知らなかったわけではない。


 蔵が使われていることを。


 夜に人が来ることも。


 荷が入り。


 夜明け前に出ていくことも。


 知っていた。


 では。


 十二使徒の一味なのか。


 違った。


 少なくとも。


 庄三郎自身は、そう思っていた。


 津島。


 伊勢屋。


 夜。


 庄三郎は帳面を閉じた。


「旦那様」


 古参の番頭が声をかける。


「今夜でございます」


「ああ」


 それだけだった。


 番頭は少し迷った。


「本当に」


「よろしいので?」


 庄三郎が顔を上げる。


「何がだ」


「蔵でございます」


 店の裏。


 普段使っていない区画。


 父の代から貸している。


「またその話か」


「旦那様も」


「お疑いなのでしょう」


 庄三郎は答えなかった。


 疑っている。


 ずっと前から。


「親父の遺言だ」


「ですが」


「分かっている」


 庄三郎は立ち上がった。


 奥へ行く。


 仏壇。


 その横。


 小さな箱がある。


 開ける。


 中に。


 小さな十字架。


 庄三郎は。


 それを手に取らなかった。


 父。


 伊勢屋庄兵衛。


 商人としては。


 優れた男だった。


 人を見る目があり。


 損を嫌い。


 約束を守った。


 そして。


 晩年。


 キリシタンになった。


 洗礼名まで持っていた。


 庄三郎は。


 それが理解できなかった。


 父が何を信じようと。


 最初は気にもしなかった。


 阿弥陀でも。


 観音でも。


 八幡でも。


 異国の神でも。


 商売に関係なければ。


 好きにすればよい。


 そう思っていた。


 だが。


 次第に。


 父は変わった。


 悪くなった。


 というわけではない。


 むしろ。


 穏やかになった。


 使用人を以前より大切にした。


 貧しい者へ施すようにもなった。


 病人へ薬を渡した。


 だからこそ。


 庄三郎には。


 分からなかった。


 異国の神を信じたからなのか。


 父が元々そういう人間だったのか。


 そして。


 死ぬ前。


 庄兵衛は。


 息子を枕元へ呼んだ。


「庄三郎」


「はい」


「裏の蔵を」


「これからも貸してやれ」


「誰に」


「神のために働く者たちだ」


「伴天連ですか」


「伴天連だけではない」


「では誰です」


 父は。


 少し笑った。


「海の向こうと」


「この国を繋ぐ者たちだ」


 庄三郎は。


 その言葉が。


 ずっと嫌いだった。


 曖昧すぎる。


「何を置くのです」


「必要なものだ」


「何を運ぶのです」


「知らなくてよい」


「親父」


「知らぬ方が」


「お前を守る」


 そして。


 父は言った。


「約束した」


「誰と」


「友とな」


 それが。


 宗玄だったのか。


 別の誰かなのか。


 庄三郎は知らない。


 父は。


 そのまま死んだ。


 だから。


 庄三郎は。


 三年間。


 蔵を貸し続けた。


 月に一度。


 時には二月に一度。


 銭は払われる。


 荷は夜に来る。


 翌朝には消える。


 店の者には触らせない。


 中身も見せない。


 それが。


 父の約束だった。


 だが。


「神のため、か」


 庄三郎は。


 小さな十字架を見た。


「神様ってのは」


「夜中にしか荷を運べねえのかよ」


 番頭は答えなかった。


 庄三郎は。


 箱を閉じた。


     ◆


 丹羽長秀のところへ。


 新しい報告が届いたのは。


 翌朝だった。


「庄三郎が」


「蔵へ入りました」


「荷のある時に?」


「いいえ」


「荷が出た後です」


「何をした」


「分かりませぬ」


 長秀が眉を寄せる。


「どれほどいた」


「半刻ほど」


「一人か」


「番頭と」


 長秀は考える。


「次は」


「庄三郎を見ろ」


「荷ではなく?」


「両方だ」


「人が足りませぬ」


「なら荷を捨てろ」


 部下が驚いた。


「よろしいので?」


「先はもう一つ見つけた」


 美濃。


 紙職人。


 若い運び手。


 網は続いている。


「今は」


 長秀が言った。


「伊勢屋が」


「何者なのかを見る」


 その日の午後。


 庄三郎は。


 店を出た。


 寺へ。


 違った。


 神社へ。


 それも違う。


 向かったのは。


 熱田の薬種商だった。


 普通に薬を買う。


 次。


 紙問屋。


 値を交渉する。


 次。


 船主。


 川船の修理について話す。


 夕刻。


 酒屋。


 そこで。


 一人の男と会った。


 南蛮人ではない。


 日本人。


 年は六十近い。


 古い商人。


 長秀の者は。


 距離を取った。


 会話は聞こえない。


 だが。


 庄三郎は。


 途中から。


 明らかに怒っていた。


 机を叩く。


 老人が宥める。


 庄三郎が立つ。


 また座る。


 最後。


 老人が何かを渡した。


 紙。


 庄三郎は受け取る。


 店を出る。


「老人を追え」


「庄三郎は?」


「別の者が追う」


 老人は。


 そのまま。


 宿へ戻った。


 翌朝。


 津島を出る。


 行き先。


 堺。


 長秀へ報告が届く。


「堺か」


 長秀は。


 すぐ宗一郎へ文を出した。


 だが。


 庄三郎の方が。


 先に動いた。


 翌日。


 津島から。


 一通の書状が。


 岐阜へ届いた。


 宛名。


 丹羽長秀。


「伊勢屋から?」


 長秀が。


 封を切る。


 短い文だった。


 ――御家中に申し上げたき儀あり。


 ――父の代より貸し置きし蔵について。


 長秀の表情が変わった。


「気づかれたか」


 部下が尋ねる。


「分からぬ」


 だが。


 逃げるつもりなら。


 こんな文は出さない。


「会う」


「捕らえますか」


「まだ言うか」


「念のため」


「話を聞く」


 長秀は立ち上がった。


「宗一郎にも知らせろ」


     ◆


 庄三郎は。


 岐阜へ連れてこられなかった。


 自分で来た。


 供は。


 番頭一人。


 刀もない。


 長秀の前へ座り。


 深く頭を下げる。


「伊勢屋庄三郎にございます」


「蔵の話とは」


 長秀は。


 遠回りしなかった。


 庄三郎も。


 覚悟していたらしい。


「父の遺言にございます」


「父?」


「先代庄兵衛」


「宗玄を知っていたな」


 庄三郎の顔が。


 僅かに動いた。


「存じております」


「そなたもか」


「幼い頃から」


「どんな男だ」


「分かりませぬ」


 長秀の目が鋭くなる。


「知っているのではないのか」


「顔と名を知ることと」


「人を知ることは」


「違うと思っております」


 長秀は。


 少しだけ。


 庄三郎を見る目を変えた。


「続けろ」


「宗玄殿は」


「父の客でした」


「薬」


「南蛮の品」


「硝石」


「紙」


「様々な物を扱っておりました」


「父は」


「宗玄を信じていたか」


「はい」


「そなたは」


「信じておりませぬ」


 即答だった。


「何故」


「分からぬからです」


 長秀は黙る。


「何を考えているのか」


「何を信じているのか」


「誰のために動いているのか」


「何一つ」


「私には分かりませぬ」


「なら何故」


 長秀の声が。


 少し低くなる。


「蔵を貸した」


 庄三郎は。


 目を伏せた。


「父の遺言です」


「それだけか」


「それだけにございます」


「中身を見なかった?」


「見ておりませぬ」


「三年間?」


「はい」


「怪しいと思わなかったか」


「思いました」


 長秀の目が止まる。


「いつから」


「最初から」


「……最初から?」


「はい」


 長秀は。


 思わず息を吐いた。


「では何故」


「父を」


 庄三郎が言う。


「裏切りたくなかった」


 その答えは。


 長秀が予想していたものではなかった。


「父は」


「切支丹でした」


 部屋が静かになる。


 長秀の側にいた記録役の筆が。


 一瞬。


 止まりかける。


「書け」


 長秀が言う。


「事実だ」


 筆が再び動く。


「そなたもか」


「違います」


「洗礼は」


「受けておりませぬ」


「何故」


 庄三郎は。


 少し考えた。


「信じられぬからです」


「南蛮の神を?」


「南蛮の神だけではございませぬ」


 庄三郎は。


 苦笑した。


「父は」


「一つの神こそ真であると申しました」


「寺の仏も」


「社の神も」


「違うと」


「ですが私は」


「それが分かりませぬ」


 長秀は。


 黙って聞く。


「海の向こうから来た人間が」


「この国へ来て」


「お前たちが昔から拝んできたものは違う」


「こちらが真だと言う」


「私は」


「それを簡単には信じられませぬ」


「嫌っているのか」


「いいえ」


 庄三郎は首を振った。


「父は」


「切支丹になってから」


「優しくなりました」


「病人へ薬を与え」


「奉公人を以前より大事にし」


「貧しい者へ飯を食わせた」


「それを」


「悪いとは思いませぬ」


「では」


「何が気に入らぬ」


「人でございます」


「人?」


「神ではなく」


 庄三郎は。


 長秀を見る。


「神の名を使う人間です」


 長秀は。


 何も言わなかった。


「父は」


「神を信じた」


「私は」


「父を信じた」


「だから」


「遺言を守りました」


「ですが」


 庄三郎の拳が。


 膝の上で握られる。


「最近」


「分からなくなりました」


「何が」


「父が」


「本当に」


「あの者たちが何をしているか」


「知っていたのか」


 長秀の目が。


 僅かに動いた。


「何故そう思った」


「荷が変わったからです」


「いつ」


「半年ほど前から」


 長秀が身を乗り出す。


「どう変わった」


「重さです」


「中を見ていないのではなかったか」


「見なくても」


 庄三郎は言った。


「商人です」


「米か」


「紙か」


「鉄か」


「油か」


「持てば」


「おおよそ分かります」


 長秀は。


 宗一郎がこの場にいれば。


 喜んだだろうと思った。


 現場の人間は。


 帳面にないことを知っている。


「以前は」


 庄三郎が続ける。


「薬種」


「紙」


「小さな箱」


「そういう物が多かった」


「最近は」


「銀」


 長秀の顔から。


 僅かな笑みが消えた。


「何故分かる」


「音」


「重さ」


「それと」


「一度」


「箱が壊れました」


「見たのか」


「銀を」


「はい」


「他には」


 庄三郎は。


 少し迷った。


「火薬らしき物も」


「何故黙っていた」


 初めて。


 長秀の声に。


 怒気が混じった。


 庄三郎は。


 頭を下げた。


「申し開きできませぬ」


「父の遺言か」


「それもございます」


「それだけではないな」


 庄三郎は。


 しばらく黙った。


「怖かった」


 小さな声だった。


「宗玄が?」


「何が繋がっているのか」


「分からなかった」


「父が」


「どこまで関わっていたのかも」


「分からなかった」


「もし」


「私が蔵を閉じれば」


「父の名が」


「何かに出るのではないかと」


 長秀は。


 怒鳴らなかった。


 ただ。


「遅い」


 そう言った。


「はい」


「だが」


「今来た」


「はい」


「なら」


 長秀は。


 庄三郎を見る。


「ここからだ」


     ◆


 その日の夕刻。


 宗一郎が岐阜へ入った。


 庄三郎の話を聞き終えると。


 最初に聞いたのは。


「先代は」


「十二使徒だったんですか」


 庄三郎は。


 首を振った。


「存じませぬ」


「十二使徒という名を」


「聞いたことは?」


「今日」


「初めて」


 宗一郎は長秀を見る。


「木版の印は」


「庄三郎は見ておらぬ」


「なら」


 宗一郎は言った。


「キリシタンだったことと」


「十二使徒を」


「繋げない方がいい」


 長秀が頷く。


 庄三郎は。


 宗一郎を見る。


「私の父を」


「疑わぬのですか」


「疑います」


 庄三郎の表情が固まる。


「でも」


 宗一郎は続けた。


「キリシタンだったから疑うんじゃない」


「宗玄と付き合いがあった」


「蔵を貸した」


「何を運んでいたのか」


「どこまで知っていたのか」


「そこは調べます」


「信仰は?」


「別です」


 庄三郎が。


 黙った。


「父上が」


「本当に善意で貸していた可能性もある」


「十二使徒の活動を知っていた可能性もある」


「途中までしか知らなかった可能性もある」


「宗玄に騙されていた可能性もある」


 宗一郎は。


 庄三郎を見る。


「今は」


「分かりません」


 庄三郎が。


 僅かに。


 息を吐いた。


「分からぬと」


「言われるのですな」


「分からないから」


「調べます」


「そうですか」


「それと」


 宗一郎は。


 少しだけ声を柔らかくした。


「あなたについても」


「まだ全部は信じてません」


 庄三郎が。


 苦笑した。


「正直な方だ」


「よく言われます」


 長秀が横から言う。


「余計なことまで言うともな」


「長秀様まで」


 庄三郎が。


 初めて。


 小さく笑った。


 宗一郎は。


 そこで本題へ入った。


「蔵を」


「今まで通り貸してもらえますか」


 庄三郎の笑みが消えた。


「囮に使うと?」


「嫌なら」


「断ってください」


「断れば?」


「別の方法を探します」


「店を潰されることは」


「ありません」


 庄三郎は。


 長秀を見る。


 長秀が頷く。


「殿にも」


「そのつもりはない」


「……信長様が?」


「意外か」


「少々」


 宗一郎が笑いそうになる。


「俺も同じこと言って怒られました」


「高槻」


「はい」


「今それを言うな」


「すみません」


 庄三郎は。


 少し考えた。


 長い。


 沈黙。


 やがて。


「一つ」


「条件がございます」


 長秀の目が細くなる。


「言え」


「父が」


「どこまで知っていたのか」


「分かったら」


 庄三郎は。


 膝の上の拳を解いた。


「私に」


「教えていただきたい」


 宗一郎は。


 即答した。


「約束します」


「罪を犯していたとしても?」


「それも含めて」


「父が騙されていたとしても?」


「それも」


 庄三郎は。


 目を閉じた。


 そして。


 頭を下げた。


「なら」


「蔵を」


「お使いください」


「違います」


 宗一郎が言った。


 庄三郎が顔を上げる。


「俺たちが使うんじゃない」


「今まで通り」


「向こうに使わせる」


 庄三郎の目が。


 少しだけ。


 変わった。


「何をすれば」


「何もしないでください」


「何も?」


「今まで通り」


「知らないふりをする」


「荷を開けない」


「問い詰めない」


「余計なことを聞かない」


「ただ」


 宗一郎は。


 紙を一枚置いた。


「覚えてほしい」


「何を」


「箱の数」


「大きさ」


「重そうか軽そうか」


「来た人数」


「声」


「言葉」


「服」


「足音」


「匂い」


「何時に来て」


「何時に出たか」


 庄三郎が。


 紙を見る。


「それだけで」


「役に立つのですか」


「すごく」


 宗一郎は言った。


「中身を盗み見るより」


「役に立つことがあります」


 庄三郎は。


 商人だった。


 だから。


 その意味を。


 すぐに理解した。


「帳面にします」


「いや」


 宗一郎が止める。


「残さない方がいい」


「見つかれば終わる」


「では」


「覚える」


「全部?」


「無理なら」


「一つだけ」


「何を」


 宗一郎は。


 少し考えた。


「いつもと違うこと」


 庄三郎の目が。


 僅かに見開かれる。


「普段と違う人」


「普段と違う箱」


「普段と違う時間」


「普段と違う匂い」


「何でもいい」


「異常だけ」


「覚えてください」


 庄三郎は。


 ゆっくり頷いた。


「それなら」


「できます」


     ◆


 三日後。


 蔵へ。


 次の荷が来た。


 庄三郎は。


 見なかった。


 正確には。


 見ていないふりをした。


 荷車。


 一台。


 男。


 三人。


 いつもは二人。


 一人多い。


 箱。


 二つ。


 いつもより少ない。


 だが。


 重い。


 車輪が。


 深く沈んでいる。


 銀か。


 鉄か。


 違う。


 庄三郎は。


 鼻を僅かに動かした。


 匂い。


 油。


 それから。


 何か。


 鼻につく。


 火薬とは違う。


 一人の男が。


 蔵の前で言った。


「次は」


「月が変わる前だ」


 もう一人が。


 すぐ止めた。


「余計なことを言うな」


 庄三郎は。


 帳面を見たまま。


 顔を上げない。


 荷が入る。


 戸が閉じる。


 男たちは。


 店の裏で待った。


 夜半。


 別の男が来た。


 庄三郎の指が。


 帳面の上で止まる。


 初めて見る男。


 僧ではない。


 商人でもない。


 武士。


 そう思った。


 歩き方。


 腰。


 刀を差していなくても。


 分かる。


 そして。


 その男は。


 蔵へ入る前。


 庄三郎の店を見た。


 ほんの一瞬。


 目が合った。


「……」


 庄三郎は。


 何も言わなかった。


 男も。


 何も。


 だが。


 その顔を。


 庄三郎は覚えた。


 翌朝。


 荷が出た。


 今度は。


 熱田へ向かわない。


 北。


 清洲方面。


 長秀の者が。


 遠くから追う。


 そして。


 庄三郎は。


 宗一郎に言われた通り。


 一つだけ。


 異常を伝えた。


 ――武士らしき男が来た。


 似顔を。


 絵師に説明する。


 目。


 鼻。


 顎。


 髪。


 年。


 三十半ば。


 右頬。


 薄い傷。


 絵が。


 長秀の前へ届く。


 長秀は。


 知らなかった。


 宗一郎も。


 知らない。


 光秀も。


 知らなかった。


 だが。


 信長が。


 その絵を見た瞬間。


 表情を変えた。


「こいつ」


 宗一郎が信長を見る。


「知ってるんですか」


「ああ」


「誰です」


 信長は。


 しばらく。


 絵を見ていた。


「昔」


「儂の使いをしていた」


 部屋の空気が。


 変わった。


「織田の家臣?」


「違う」


「では」


「商人でもない」


 信長の声が。


 低くなる。


「銭で」


「文を運ばせた男だ」


「いつ頃」


「六年……」


 信長が。


 少し考える。


「いや」


「七年ほど前か」


 宗一郎は。


 息を呑んだ。


 宗玄が。


 織田領へ出入りし始めた時期と。


 重なる。


「名は」


 信長が。


 絵から目を離さず答えた。


「佐吉」


「それだけだ」


「姓は」


「知らぬ」


「どこ出身?」


「知らぬ」


「今まで何を?」


「知らぬ」


 宗一郎が。


 信長を見る。


「信長様」


「何だ」


「昔」


「結構適当に人を使ってました?」


「使える者を使った」


「素性も知らずに?」


「働けばよい」


 宗一郎は。


 額を押さえた。


「門」


「開きっぱなしだったんですね」


「うるさい」


 だが。


 信長は。


 笑わなかった。


 佐吉。


 宗玄。


 伊勢屋庄兵衛。


 七年前。


 六年前。


 古い糸が。


 今。


 尾張で。


 再び結び始めている。


「捕らえる?」


 宗一郎が尋ねた。


「いや」


 信長は即答した。


「追え」


「どこまで」


「こいつが」


「誰に文を渡すかまでだ」


 宗一郎は。


 少し驚いた。


 信長が。


 それに気づく。


「何だ」


「いや」


「本当に変わったなと」


「宗一郎」


「はい」


「近くへ来い」


「嫌です」


 今度は。


 長秀まで笑った。


 だが。


 信長は。


 すぐ真顔に戻った。


「それと」


「伊勢屋は」


「はい」


「守れ」


 宗一郎が。


 信長を見る。


「表立ってではない」


「向こうに気づかせるな」


「もし佐吉が」


「庄三郎を疑ったら?」


 信長の目が。


 冷たくなる。


「その時は」


「佐吉より」


「庄三郎を取る」


 宗一郎は。


 何も言わず。


 頷いた。


 伊勢屋庄三郎は。


 父の信仰を継がなかった。


 だが。


 父との約束だけは。


 三年間。


 守った。


 その約束が。


 正しかったのか。


 間違っていたのか。


 まだ分からない。


 ただ。


 宗一郎は思う。


 信仰と。


 犯罪は。


 同じではない。


 善意と。


 利用されることも。


 同じではない。


 父がキリシタンだった。


 それだけで。


 庄三郎を敵にしていたら。


 この手掛かりは。


 永遠に。


 見つからなかったかもしれない。


     ◆


 その夜。


 佐吉は。


 清洲を通り過ぎた。


 岐阜へも向かわない。


 東へ。


 木曽川を渡る。


 見張りが。


 一人。


 また一人。


 交代する。


 誰も。


 近づかない。


 佐吉は。


 一度。


 後ろを振り返った。


 だが。


 何も見つけられない。


 さらに東。


 街道。


 夕暮れ。


 小さな宿場。


 そこで。


 佐吉は。


 一人の旅商人と。


 すれ違った。


 会話はない。


 立ち止まりもしない。


 ただ。


 肩が。


 一瞬。


 触れた。


 佐吉はそのまま西へ戻る。


 旅商人は。


 東へ。


 見張り役が。


 迷う。


 どちらを追う。


 高槻から伝えられていた言葉を。


 思い出す。


 ――物が渡ったかを見ろ。


 見た。


 佐吉の袖。


 膨らみが。


 消えている。


「東だ」


 追う相手が。


 変わった。


 旅商人は。


 美濃を抜けた。


 東へ。


 さらに。


 東へ。


 数日後。


 最初の報告が。


 岐阜へ届いた。


 宗一郎は。


 地図を見て。


 黙った。


「どこへ向かってる」


 信長が尋ねる。


「まだ断定できません」


「言え」


 宗一郎の指が。


 街道を辿る。


 美濃。


 木曽。


 信濃。


 その先。


「甲斐へ向かう道です」


 十二枚の木札。


 尾張。


 そして。


 甲斐。


 だが。


 宗一郎は。


 すぐに言った。


「武田とは限りません」


「分かっておる」


 信長の返事は。


 早かった。


「甲斐にいる誰かだ」


「はい」


「勝頼へ知らせますか」


 長秀が尋ねる。


 信長は。


 すぐには答えなかった。


 武田勝頼。


 敵。


 今は。


 まだ。


 明確な和睦を結んだわけでもない。


 父・信玄の死を秘し。


 国を立て直している。


 その甲斐へ。


 十二使徒の線が伸びている。


 信長は。


 宗一郎を見る。


「お前ならどうする」


「……知らせます」


「敵にか」


「十二使徒が」


「武田の味方とは限らない」


「むしろ」


「利用しようとしてる可能性がある」


「なら」


「勝頼自身に探させる?」


「全部は教えません」


 宗一郎は。


 木札を見る。


「甲斐で」


「異国交易に繋がる不審な文や銀が動いている可能性がある」


「その程度」


「向こうが」


「無視したら?」


「それも情報です」


 信長が。


 笑った。


「悪くない」


「送る」


「誰の名で」


「儂だ」


 宗一郎が。


 少し驚く。


「信長様から?」


「こそこそ送れば」


「余計に怪しまれる」


 信長は。


 筆を取った。


「勝頼へ」


 敵から。


 敵へ。


 奇妙な書状が。


 送られることになった。


 内容は。


 短い。


 ――甲斐へ向かう不審な文使いあり。


 ――南蛮交易に関わる者との繋がりを疑う。


 ――武田家との関係を示す証はなし。


 ――ゆえに、そちらで確かめよ。


 最後に。


 信長は。


 一行加えた。


 ――これを謀と疑うなら、疑ったまま調べればよい。


 宗一郎が。


 それを読んで。


 少し笑った。


「信長様らしい」


「何がだ」


「信用しろって言わないところ」


「敵に信用を求めてどうする」


 信長は。


 筆を置いた。


「確かめさせればよい」


 その書状は。


 翌朝。


 甲斐へ向かった。


 そして。


 数日後。


 躑躅ヶ崎。


 武田勝頼は。


 織田信長から届いた書状を。


 三度読んだ。


 山県昌景。


 馬場信春。


 内藤昌豊。


 高坂昌信。


 穴山信君。


 重臣たちが。


 揃っている。


「罠でしょう」


 穴山が言った。


「かもしれん」


 勝頼は答えた。


「では」


「捨てますか」


「何故だ」


 穴山が黙る。


「罠なら」


 勝頼は。


 書状を机へ置いた。


「罠である証を探す」


「真なら」


「誰が甲斐へ入っているかを探す」


「どちらでも」


「調べることは同じだ」


 高坂が。


 僅かに頷いた。


 山県が尋ねる。


「織田へ返書を?」


「まだ要らぬ」


 勝頼は。


 立ち上がる。


「まず」


「甲斐を調べる」


「何を」


「南蛮の銀」


「薬種」


「硝石」


「異国の品」


「それを扱う商人」


 そして。


 勝頼は。


 父が座っていた場所から。


 家臣たちを見る。


「織田に」


「我らの国の中を」


「先に見つけられたままでは」


「気に入らん」


 山県が。


 僅かに笑った。


「御意」


 こうして。


 織田が追っていた十二使徒の糸は。


 初めて。


 武田の目によっても。


 追われ始めた。


 同盟ではない。


 和睦でもない。


 敵であることも。


 変わらない。


 ただ。


 同じ鼠が。


 二つの家の蔵へ入り込もうとしている。


 それだけだった。


 そして。


 その程度の理由で。


 戦国の敵同士が。


 一時だけ。


 同じ方向を見ることは。


 十分にあり得た。

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