第百十二章 尾張の鼠
第百十二章 尾張の鼠
尾張。
津島。
古くから、人と物と銭が集まる町だった。
川。
街道。
商人。
寺社。
そして伊勢湾へ続く水運。
織田家にとっても、ただの町ではない。
信長が若かった頃から、その富は織田を支えてきた。
だからこそ。
丹羽長秀は、十二枚の木札の中に「尾張」の二文字があったと聞いた時、真っ先に津島を疑った。
だが。
「捕らえるな」
長秀が命じた。
「誰を、でございますか」
部下が尋ねる。
「だから捕らえるなと言っておる」
長秀は帳面を閉じた。
「まだ誰も分かっておらぬ」
高槻宗一郎の影響なのか。
最近の織田家では、この言葉が増えた。
分からない。
以前なら、弱さにも聞こえた。
今は違う。
分からないから調べる。
分からないまま斬らない。
それだけのことだった。
「まず宗玄を探せ」
「宗玄本人は海の向こうでは」
「人ではない」
長秀は言った。
「帳面の中だ」
四年前。
六年前。
宗玄が織田領へ入った時。
どこに泊まった。
誰から品を買った。
誰へ売った。
誰が荷を運んだ。
誰が船を出した。
誰が保証した。
宗玄を探すのではない。
宗玄が残した跡を探す。
津島。
清洲。
熱田。
那古野。
伊勢湾沿いの浦。
古い帳面が集められた。
ただし。
家臣を尋問するような真似はしない。
商人にも、十二使徒を追っているとは知らせない。
古い交易記録の整理。
そういう名目にした。
二日。
三日。
何も出ない。
四日目。
津島の古い問屋帳に。
名前があった。
宗玄。
六年前。
薬種。
香辛料。
少量の硝石。
その荷を預かった問屋。
――伊勢屋庄兵衛。
四年前。
再び宗玄。
今度は紙。
油。
鉄。
薬種。
そして。
伊勢屋庄兵衛。
長秀は指を止めた。
「今も店はあるか」
「ございます」
「庄兵衛は」
「三年前に亡くなっております」
「跡取り」
「倅の庄三郎」
「見るぞ」
それだけだった。
伊勢屋は、普通の問屋だった。
少なくとも。
表から見れば。
米。
油。
紙。
縄。
薬種。
川船の手配。
荷の預かり。
珍しくもない。
宗玄だけを相手にしていたわけでもない。
何十人。
何百人。
商人が出入りしている。
「これだけじゃ何もないな」
長秀は報告を聞きながら呟いた。
庄三郎も普通だった。
朝、店へ出る。
帳面を見る。
荷を確かめる。
昼に飯を食う。
夕方には蔵を閉める。
女遊びもほとんどない。
賭場にも行かない。
怪しい寺へ通うこともない。
「真面目な商人ですね」
「真面目だから疑う、などと言い始めたら終わりだ」
長秀はそう言った。
だが。
五日目。
一つだけ。
妙なことが見つかった。
伊勢屋の蔵には。
使っていない区画がある。
「空なのか」
「表向きは」
「表向き?」
「毎月一度だけ」
「夜に荷が入ります」
長秀の目が変わった。
「出るのは」
「翌朝」
「何を」
「分かりませぬ」
「見る」
「捕らえず?」
「見る」
そして。
次の月を待つ必要はなかった。
三日後。
夜。
荷が来た。
小さな荷車。
二台。
積んでいるのは。
木箱。
四つ。
運び込んだのは、伊勢屋の奉公人ではない。
二人の男。
そのうち一人。
右手に。
墨の跡があった。
商人の手ではない。
字を書く者の手。
箱は。
夜明け前に再び出た。
長秀の者が追う。
熱田へ。
そこから。
川船。
さらに南へ。
「船を追いますか」
「追う」
「捕らえますか」
「まだだ」
船は。
小さな浦へ入った。
そこで。
別の船へ荷を移した。
その時。
箱の一つが開いた。
中身が見えた。
紙。
大量の紙。
それだけなら。
何もおかしくない。
だが。
紙の上に。
木版が置かれていた。
「文字?」
「いえ」
見張りの男は。
息を潜めた。
「印です」
小さな。
二本の横線。
その下に。
丸。
十二使徒。
ようやく。
尾張の木札が。
意味を持った。
◆
「伊勢屋を捕らえますか」
報告を受けた長秀は。
すぐには答えなかった。
「庄三郎が箱の中身を知っているところを見たか」
「いいえ」
「自分で運んだか」
「いいえ」
「印を押したか」
「いいえ」
「なら捕らえぬ」
「ですが蔵を」
「貸した」
「はい」
「それだけだ」
長秀は立ち上がった。
「箱を運んだ二人を追え」
「その先を見る」
ここで伊勢屋を捕らえれば。
先が切れる。
宗一郎なら。
そう言うだろう。
長秀は少し笑った。
「面倒なやり方を覚えさせおって」
だが。
嫌いではなかった。
二人の男は。
三日後。
別々に動いた。
一人は。
伊勢。
もう一人は。
美濃。
長秀は迷わなかった。
「美濃を追え」
「伊勢は?」
「別の者をつける」
「人が足りませぬ」
「増やすな」
部下が驚く。
「では」
「遠くからでよい」
「見失えば?」
「それまでだ」
無理に追えば。
気づかれる。
気づかれれば。
網全体が消える。
高槻の忍びが使うやり方。
見る者。
伝える者。
確かめる者。
判断する者。
長秀は。
織田家の中でも。
それを取り入れ始めていた。
美濃へ向かった男は。
岐阜城へは行かなかった。
城下にも入らない。
街道を外れ。
紙漉きの村へ。
そこで。
一人の老人と会った。
老人は。
紙職人だった。
話は短い。
銭が渡る。
男が去る。
老人は。
その日の夜。
小さな包みを。
床下へ隠した。
見張りは。
翌朝まで待った。
老人が仕事場へ出た後。
家へ入らない。
床下も開けない。
ただ。
誰が次に来るかを見る。
昼。
誰も来ない。
夕方。
誰も。
夜。
一人。
若い男が来た。
老人から。
包みを受け取る。
また。
次。
網。
長秀は。
そこで初めて理解した。
十二使徒は。
大きな拠点だけで動いているのではない。
一人が。
全部を知らないようにしている。
紙を作る者。
印を運ぶ者。
文を書く者。
荷を預ける者。
船へ載せる者。
命令を伝える者。
分けている。
「高槻と似ているな」
長秀が呟いた。
部下が顔を上げる。
「何がでございます」
「仕組みだ」
だから。
厄介だった。
◆
岐阜。
報告を聞いた信長は。
怒鳴らなかった。
伊勢屋を斬れとも。
紙職人を捕らえろとも言わなかった。
ただ。
「どこまで入られておる」
それだけ聞いた。
長秀が答える。
「まだ分かりませぬ」
「宗玄が出入りした頃からか」
「可能性はございます」
「何年だ」
「少なくとも六年」
信長の目が細くなる。
六年前。
その頃。
信長は。
南蛮渡来の品を歓迎していた。
薬。
鉄砲。
硝石。
珍しい品。
新しい知識。
商人が持ってくる物を。
使えるなら使った。
出自だけで拒まなかった。
宗玄も。
その流れで。
織田領へ入った。
「儂が」
信長が言った。
「入れたか」
長秀は答えない。
「殿」
「よい」
信長は。
自分で続けた。
「儂が門を開いた」
「そこから」
「鼠も入った」
宗一郎が口を開いた。
「でも」
「門を閉じる必要はありません」
信長が見る。
「何故だ」
「鼠が入ったからって」
「商人も技術も薬も」
「全部止めたら」
「俺たちの方が弱くなります」
「ならどうする」
「門番を作る」
信長の口元が。
僅かに動く。
「誰を入れるか」
「誰を出すか」
「何を運んだか」
「誰と会ったか」
「全部?」
「全部は無理です」
「なら」
「大きい物から」
宗一郎は指を折った。
「大量の銀」
「大量の硝石」
「武器」
「大人数」
「船」
「土地」
「大きな寄進」
「政治に繋がる文」
「そこを記録する」
光秀も頷く。
「信仰そのものを調べるのではない」
「はい」
「商いそのものを禁じるのでもない」
「はい」
「力へ変わる部分を見る」
「そうです」
信長は。
しばらく考えた。
「堺」
「平戸」
「府内」
「博多」
「それだけでは足りぬな」
宗一郎が頷く。
「津島」
「熱田」
「紀伊」
「志摩」
「淡路」
「主要な港と」
「大きな商いの場所」
「記録の形を揃えたいです」
「誰が見る」
「地元です」
信長が眉を上げる。
「高槻の者を置かぬのか」
「置きすぎたら」
「高槻がいなくなった時に終わります」
信長は。
宗一郎を見た。
その言葉を。
最近。
宗一郎はよく使う。
自分がいなくなった時。
信長がいなくなった時。
その先。
「よし」
信長は言った。
「長秀」
「は」
「商人を集めろ」
「南蛮商人もか」
「来るなら入れろ」
「宣教師は」
「商いをするなら同じだ」
「信仰は?」
「知らぬ」
信長は即答した。
「神に何を祈ろうが」
「米の値は変わらぬ」
宗一郎が。
少し笑った。
「信長様らしい」
「何だ」
「いや」
「続けろ」
信長が睨む。
宗一郎は咳払いした。
「記録するのは」
「宗派じゃなくて」
「人」
「物」
「銭」
「船」
「土地」
「はい」
光秀が言う。
「それなら」
「寺社にも同じ基準を適用すべきでしょう」
宗一郎が見る。
「本願寺だけじゃなく?」
「延暦寺であろうと」
「法華であろうと」
「南蛮の教えであろうと」
「同じでなければ」
「宗教弾圧と受け取られます」
信長が笑った。
「光秀」
「は」
「お前は」
「本当に面倒なところを見るな」
「殿が見なさすぎるのでございます」
一瞬。
静かになる。
宗一郎は。
信長を見る。
怒るか。
信長は。
笑った。
「言うようになったな」
「殿のおかげにございます」
「儂のせいにするな」
宗一郎は思った。
これでいい。
少なくとも。
今は。
◆
石山本願寺。
第三陣は。
第一陣とも。
第二陣とも違った。
大船団を作らない。
七艘。
五艘。
三艘。
二艘。
それぞれ。
別の日。
別の港。
別の航路。
米。
塩。
油。
火薬。
薬。
顕如は。
一度に多くを運ぶことを諦めた。
代わりに。
止めにくくした。
「織田が港を見るなら」
教如が言う。
「港を増やす」
「そうだ」
「船を見るなら」
「商船に混ぜる」
「そうだ」
「九鬼が海路を見るなら」
「潮の違う日を使う」
顕如は頷いた。
「だが」
「無理はするな」
「何故です」
「船頭が嫌がる」
教如が黙る。
「我らも」
顕如は言った。
「海を使う代価を払っている」
船頭の賃は。
上がった。
米の値も。
上がった。
護衛を頼めば。
さらに銭が要る。
九鬼が動くという噂だけで。
石山行きを嫌がる船主も出た。
織田の狙いは。
効いている。
完全封鎖ではない。
だが。
確実に。
苦しくなっている。
「毛利からは」
教如が尋ねる。
「まだ返事がありませぬ」
「待て」
「援船を頼んでは」
「頼まぬ」
顕如は強く言った。
「一度頼めば」
「次も頼る」
「次も頼れば」
「やがて逆らえなくなる」
顕如は。
信長だけを警戒しているのではない。
毛利も。
味方ではない。
利用できる相手。
それだけ。
「第三陣を出せ」
「はい」
「ただし」
顕如が海図を見る。
「今回は」
「一つ」
「織田に食わせる」
教如が顔を上げた。
「わざと?」
「そうだ」
「何を積みます」
「米」
「本物を?」
「本物でなければ」
「食いつかぬ」
「どれほど」
「五十石」
教如の顔が僅かに動く。
安くはない。
だが。
戦の中では。
払えない代価でもない。
「その船を」
「九鬼に見せる」
「そして?」
顕如の指が。
別の海路へ動く。
「その間に」
「こちらを通す」
十数艘。
小船。
別々に。
大阪湾へ。
教如が。
ゆっくり頷いた。
「織田が」
「我らへ代価を払わせるなら」
顕如が言う。
「我らも」
「織田へ」
「選ぶ代価を払わせる」
海の戦は。
互いに。
賢くなっていた。
◆
その策に。
九鬼嘉隆は。
半分。
引っかかった。
「米五十石!」
見張りから報告が来た。
船は三艘。
護衛。
二艘。
積荷。
確かに米。
石山方向。
宗一郎が海図を見る。
「行きます?」
嘉隆は答えない。
「嘉隆殿?」
「臭い」
「何が」
「分からん」
「分からないのに臭い?」
「だから臭いんだ」
宗一郎には。
意味が分からない。
だが。
嘉隆は。
三艘すべてを止めるために。
船を出さなかった。
「二艘だけ」
「え?」
「二艘出す」
「足りない」
「足りなくていい」
宗一郎が。
ようやく気づく。
「試してる?」
「ああ」
「向こうが」
「こっちを?」
「たぶんな」
九鬼船二艘。
接近。
本願寺側。
護衛が前へ出る。
逃げない。
「やっぱり」
嘉隆が呟いた。
「何です」
「見せに来てる」
普通。
兵糧船なら。
逃げる。
護衛が時間を稼ぎ。
荷を逃がす。
だが。
この船は。
こちらを引きつけようとしている。
「宗一郎」
「はい」
「後ろを見るぞ」
「どこを」
「全部だ」
宗一郎が。
苦笑した。
「それ一番大変なやつです」
「だからやれ」
高槻の網。
九鬼の漁師。
滝川の見張り。
港の商人。
別々に。
確認。
昼過ぎ。
一報。
淡路南。
小船二艘。
夕刻。
紀伊側。
三艘。
翌朝。
さらに。
商船に紛れた四艘。
「来た」
宗一郎が言った。
嘉隆は。
笑わなかった。
「まだだ」
報告が続く。
七艘。
九艘。
確認できただけで。
十一艘。
「全部止めます?」
「無理だ」
「じゃあ」
「選ぶ」
嘉隆の指が。
地図を滑る。
「火薬だ」
「分かるんですか」
「米船より」
「水に沈んでいない」
「でも護衛がついてる」
「だからだ」
宗一郎が。
目を細める。
その船団。
三艘。
荷は。
米ではない。
船の沈み方が浅い。
なのに。
護衛が二艘。
「火薬か」
「鉄砲」
「薬」
「銭」
「何か軽くて」
「価値の高い物」
嘉隆が言う。
「あれを取る」
宗一郎は。
頷いた。
「米五十石は?」
「くれてやれ」
「もったいない」
「全部欲しがるな」
以前。
船造りでも。
同じことを言われた。
全部欲しがれば。
全部できなくなる。
「行きます」
「ああ」
九鬼船。
四艘。
滝川の船。
二艘。
そして。
高槻の試験船。
一艘。
小型砲を積んでいる。
まだ。
実戦用ではない。
嘉隆は。
宗一郎を睨んだ。
「撃つなよ」
「分かってます」
「本当に?」
「試験中です」
「お前は時々」
「結果が欲しくなる」
宗一郎が。
少し黙る。
「……撃ちません」
「よし」
だが。
戦は。
予定通りにはいかなかった。
本願寺側が。
先に。
小型の火器を撃った。
火矢。
九鬼船の帆へ。
「火!」
水夫が動く。
濡れ布。
水桶。
すぐ消す。
次。
鉄砲。
宗一郎の船縁に。
木片が飛ぶ。
一人。
肩を押さえて倒れた。
「負傷!」
「下げろ!」
宗一郎が叫ぶ。
本願寺船。
逃げる。
九鬼船が追う。
だが。
一艘が。
横へ回った。
宗一郎の試験船へ。
「来るぞ!」
鉄砲。
宗一郎が伏せる。
与吉が。
砲の横で叫ぶ。
「高槻様!」
「何!」
「撃てます!」
宗一郎は。
砲を見る。
嘉隆の言葉。
撃つな。
試験中。
だが。
敵船。
近い。
こちらへ向かっている。
このままなら。
乗り移られる。
「距離!」
「近い!」
「砲台!」
「異常なし!」
「縄!」
「異常なし!」
宗一郎が。
一瞬だけ。
迷った。
これは。
結果が欲しいからではない。
「撃て!」
轟音。
小型砲。
実戦で。
初めて。
火を噴いた。
砲弾は。
敵船の船腹を。
貫かなかった。
船縁。
上部。
木板を砕いた。
破片が飛ぶ。
敵兵が伏せる。
舵を取っていた男が。
身を避ける。
その瞬間。
船の進路が。
逸れた。
「今!」
九鬼船が。
横から入る。
鉤縄。
船同士が。
近づく。
敵船は。
逃げようとする。
だが。
遅い。
九鬼の水夫が。
乗り移る。
短い。
激しい戦い。
やがて。
旗が下りた。
「拿捕!」
宗一郎は。
大きく息を吐いた。
与吉が。
小型砲を見る。
「壊れてません」
「まだ触るな」
「はい」
「砲身の熱」
「台」
「縄」
「全部記録」
「はい!」
嘉隆が。
別船から。
こちらへ来た。
宗一郎を見る。
「撃ったな」
「はい」
「何故」
「乗り込まれると思った」
「結果が欲しかったからではない?」
宗一郎は。
嘉隆の目を見る。
「違います」
嘉隆は。
少しだけ黙った。
「なら」
「いい」
それだけだった。
拿捕した船。
積荷を改める。
米ではない。
箱。
油紙。
慎重に開く。
中。
硝石。
別の箱。
火薬。
さらに。
鉄砲の部品。
「当たりですね」
宗一郎が言った。
嘉隆は。
首を振る。
「半分だ」
「また半分?」
「残りは通った」
宗一郎は。
海を見る。
確かに。
本願寺は。
米を石山へ入れた。
何艘か。
別の荷も。
入っただろう。
完全な勝利ではない。
だが。
今回は。
火薬を止めた。
それは。
米とは違う。
「次も」
宗一郎が言う。
「選ぶ」
「ああ」
「全部は取れない」
「ああ」
「でも」
「何を通して」
「何を止めるかは」
「選べるようになる」
嘉隆が。
初めて。
はっきり笑った。
「少し」
「海が見えたな」
宗一郎も。
海を見る。
「まだ」
「水ばっかりですけどね」
「それでいい」
海の向こうには。
宗玄がいる。
だが。
宗一郎は。
もう焦って追おうとは思わなかった。
今。
やるべきことが。
日本にある。
◆
その夜。
岐阜へ戻った信長の前には。
二つの報告が置かれた。
一つ。
本願寺第三陣。
米の一部は突破。
硝石と火薬を積んだ船、一艘拿捕。
小型船砲。
実戦で一射。
船体に重大な損傷なし。
もう一つ。
尾張。
十二使徒の印を作る木版を確認。
伊勢屋の蔵が中継に利用されていた。
ただし。
伊勢屋庄三郎本人が事情を知っていた証拠なし。
信長は。
後者を先に読んだ。
「長秀」
「は」
「伊勢屋は」
「まだ通常通り商いをしております」
「よし」
「捕らえぬのですか」
秀吉が尋ねる。
「何故捕らえる」
「蔵を使われております」
「知らずに貸したなら罪か」
「知っていれば?」
「その証を持ってこい」
秀吉が。
少し驚いた顔をした。
信長は。
宗一郎を見る。
「何だ」
「いや」
「信長様」
「何だ」
「変わりましたね」
部屋が静かになる。
信長の眉が上がった。
「どういう意味だ」
宗一郎は。
少し後悔した。
だが。
もう遅い。
「昔なら」
「とりあえず捕らえてたかなって」
「宗一郎」
「はい」
「そこへ座れ」
「座ってます」
「もっと近くへ来い」
「嫌です」
半兵衛が。
顔を伏せた。
肩が震えている。
光秀も。
僅かに口元を押さえていた。
「殿」
長秀が助け舟を出す。
「高槻殿の言葉はともかく」
「今捕らえれば」
「網が切れます」
「分かっておる」
信長は。
宗一郎を睨んだまま答えた。
「だから待つ」
宗一郎は。
小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「じゃあ言いません」
「貴様……」
その時。
光秀が。
一通の文を前へ出した。
「殿」
「何だ」
「主上より」
信長の顔が。
今度こそ。
嫌そうになった。
「またか」
「はい」
宗一郎が。
思わず笑う。
「何がおかしい」
「信長様が主上の文を嫌がるの珍しいなって」
「宗一郎」
「はい」
「貴様も読め」
「やっぱり?」
光秀が。
文を開く。
内容は。
短かった。
――新たな武家の役。
――その後継を、誰が選ぶか。
前回から。
残された問い。
だが。
今回は。
帝自身の考えが。
一つ。
添えられていた。
光秀が読む。
「『朕のみが選ぶのでは、武家は従うまい』」
信長は黙る。
「『武家のみが選べば、朝廷から離れる』」
宗一郎も。
黙って聞く。
「『ゆえに』」
光秀が。
一度。
顔を上げた。
「続けろ」
信長が言う。
「『候補は武家より出す』」
「『朝廷は、その者を認めるか否かを決める』」
宗一郎の目が。
僅かに動いた。
「……なるほど」
信長が聞く。
「何がだ」
「主上は」
「選ぶ権利と」
「認める権利を」
「分けようとしてる」
半兵衛も。
考え始める。
「武家が」
「この者を、と出す」
「朝廷が」
「認める」
「では」
光秀が言った。
「武家が誰を出すか」
「そこを決めねばなりませぬ」
また。
一つ進んで。
一つ増えた。
宗一郎が。
頭を抱える。
「終わらない……」
信長が笑った。
「天下だぞ」
「簡単に終わると思うな」
「信長様」
「何だ」
「楽しんでません?」
「少しな」
「やっぱり」
だが。
半兵衛は。
笑わなかった。
「一つ」
「大きな問題がございます」
全員が見る。
「何だ」
信長が問う。
「候補を」
「大名たちが選ぶとして」
半兵衛は。
静かに続けた。
「誰が」
「大名であると決めます」
宗一郎の顔から。
笑みが消えた。
国人。
守護。
守護代。
戦国大名。
寺社勢力。
朝廷から官位を得た者。
力で領地を取った者。
古い家柄。
新しく伸びた者。
境界は。
曖昧だった。
「……そこから?」
宗一郎が呟く。
「そこからでございます」
半兵衛が答えた。
信長は。
しばらく黙った後。
笑った。
「よい」
「全部」
「洗い出せ」
宗一郎が。
嫌そうな顔をする。
「全部?」
「貴様」
「帳面が好きなのだろう」
「こういう帳面は嫌いです」
「知るか」
信長は立ち上がった。
「武家とは何か」
「大名とは何か」
「誰が兵を持ち」
「誰が土地を治め」
「誰が朝廷に従い」
「誰が国の戦を決めるのか」
それを。
決めなければ。
新しい役は作れない。
そして。
宗一郎は。
ふと気づいた。
これは。
役職一つの話ではない。
将軍のいなくなった日本で。
誰が。
どこまで。
何を決めてよいのか。
その境界を。
初めて。
作ろうとしている。
宗一郎は。
ため息をつきながら。
新しい紙を出した。
「半兵衛」
「はい」
「手伝って」
「もちろん」
「光秀殿も」
「承知した」
「官兵衛は?」
秀吉の横にいた官兵衛が。
少し笑った。
「よろしいので?」
宗一郎は。
その顔を見る。
頭が切れる。
切れすぎる。
だから。
怖い。
「意見だけ」
「家臣にはしませんよ」
官兵衛の笑みが。
少し深くなる。
「それで十分にございます」
信長が。
面白そうに。
四人を見た。
「決めろ」
「何をです」
「儂が」
信長は言った。
「何者になるのかを」
宗一郎は。
筆を持ったまま。
信長を見る。
まだ。
名はない。
将軍ではない。
関白でもない。
管領でもない。
そして。
織田家だけの役でもない。
名を付ける前に。
国の形を決める。
その仕事が。
始まろうとしていた。




