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『天下布武、その先へ』―転生者と織田信長が拓いた、誰も知らない日本史―  作者: みなみ


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第百九章 権を定める

第百九章 権を定める


 京。


 御所。


 信長が帝の前へ出たのは、第二船団との戦いから七日後だった。


 供にいるのは明智光秀。


 高槻宗一郎。


 竹中半兵衛。


 そして鷹司家の当主。


 丹羽長秀も九鬼嘉隆もいない。


 今日の話は、戦ではなかった。


 いや。


 宗一郎には、戦より難しい話に思えた。


「まず」


 帝が言った。


「名は決めぬ」


 信長が眉を上げた。


「まだ決めぬのですか」


「決めぬ」


「何故」


「名を先に決めれば、人は名に引きずられる」


 帝の前には数枚の紙が置かれていた。


「征夷大将軍」


「管領」


「執権」


「関白」


「太政大臣」


「どれも既に意味を持っている」


 信長は黙って聞いている。


「古い名を使えば、古い形を求める者が出る。新しい名を作れば、今度はその名そのものが権威になる」


 帝は紙を一枚取った。


「ゆえに先に決める」


「何を」


「何をさせるか」


「何をさせぬか」


 信長の口元が少し上がった。


「面白い」


 宗一郎は心の中でため息をついた。


 まただ。


 この二人は、難しい話になるほど楽しそうになる。


「宗一郎」


 突然呼ばれた。


「はい」


「そなたなら、何から決める」


「俺ですか?」


「他に誰がおる」


 いるだろう。


 そう思ったが言わなかった。


 宗一郎は少し考えた。


「一番危ないところからです」


「危ないところ?」


「次の人間です」


 空気が変わった。


 信長が宗一郎を見る。


 帝も黙る。


「信長様が初代になるとして」


「まだ受けるとは言っておらぬぞ」


「じゃあ仮に」


「続けろ」


「信長様ならいいんです」


 宗一郎は言った。


「よくない時もありますけど」


「殺すぞ」


「そういうところです」


 光秀が咳払いした。


 半兵衛は下を向いている。


 笑っている。


「でも」


 宗一郎は続けた。


「信長様が強いから、この仕組みが動くんじゃ意味がない」


 信長の表情から笑みが消えた。


「次の人が信長様ほど強くなかったら?」


「家臣が言うことを聞かなかったら?」


「逆に、信長様より野心の強い人間がその役についたら?」


「朝廷を押さえようとしたら?」


「兵を私物化したら?」


「自分の子へ勝手に継がせたら?」


 宗一郎は一度言葉を切った。


「その時に止められない仕組みなら」


「作らない方がいい」


 誰も、すぐには答えなかった。


 最初に口を開いたのは光秀だった。


「私も同じ懸念を持っております」


 信長が見る。


「ほう」


「殿を疑っているわけではございません」


「疑え」


 光秀が僅かに目を見開く。


「儂だけ善人として仕組みを作るな」


 信長は言った。


「儂が悪人になった時にも止められるものを作れ」


 宗一郎は信長を見る。


 簡単に言える言葉ではない。


 だが信長は続けた。


「ただし」


「儂を止めるために、何もできぬ役にするな」


「それでは役を作る意味がない」


「はい」


 宗一郎も頷いた。


 ここが難しい。


 強すぎれば危険。


 弱すぎれば無意味。


 戦国の武士たちを束ねる権限を持ちながら、その者自身が天下の所有者にならない仕組み。


 現代の制度を、そのまま持ち込めるはずもない。


 時代が違う。


 権威も違う。


 人々が受け入れられる考え方も違う。


 宗一郎は紙を引き寄せた。


「じゃあ」


「仕事から分けます」


 筆を取る。


「一つ」


「大名同士の大規模な争いを止める」


「止めなければ?」


 信長が聞く。


「朝廷の名で兵を集める」


「誰が率いる」


「この役の人」


「よい」


「二つ」


「外国から攻められた時の軍勢をまとめる」


 帝の目が僅かに動いた。


 十二使徒。


 南蛮船。


 宗玄。


 今までなら、外国との問題は遠い話だった。


 もう違う。


「三つ」


「京と禁裏の安全」


 光秀が口を挟む。


「それは分けるべきでしょう」


「どうして?」


「武家の長が禁裏の兵まで握れば、主上を守る者と囲む者が同じになります」


 宗一郎の筆が止まった。


「……確かに」


 帝が光秀を見る。


「では」


「禁裏の内は朝廷」


「京の外と街道は武家」


「境は?」


 光秀が考える。


「後で詰めねばなりませぬ」


「よい」


 宗一郎は紙に書いた。


 分ける。


 すべてを一人へ渡さない。


「四つ」


「街道と関所」


 半兵衛が初めて口を開いた。


「関所は難しゅうございます」


「何で?」


「誰でも勝手に関所を置けなくなれば困る者が大量に出ます」


「寺社」


「国人」


「大名」


「商人から銭を取っている者」


 宗一郎は顔をしかめた。


「絶対揉めるな」


「揉めます」


「でもやる」


「やるのですか」


「道を止められたら兵も米も動かない」


 信長が言った。


「関所は減らせ」


 即答だった。


「全部ですか」


「全部とは言わぬ」


「要るものと、銭を取るだけのものを分けろ」


 宗一郎は思わず信長を見る。


「何だ」


「いや」


「俺が言おうと思ってたことを先に言われたので」


「遅い」


「悔しい」


 帝が小さく笑った。


 だが。


 次の問いで空気が変わった。


「税は」


 鷹司家の当主だった。


「この役へ」


「国から税を集める権を与えるのでございますか」


 宗一郎が筆を止める。


 信長も黙った。


 これは危ない。


 兵。


 街道。


 治安。


 外交。


 そこへ独自の税収まで与える。


 それは。


 ほとんど国家そのものだ。


「与えぬ」


 帝が言った。


 信長が帝を見る。


「では兵を動かす銭は」


「必要な時に定める」


「遅い」


「だから決めるのだ」


 二人の視線がぶつかった。


 宗一郎は口を挟まない。


「戦が始まってから」


 信長が言う。


「誰が幾ら出すか相談しておれば間に合わぬ」


「ならば平時から蓄える」


「誰が」


「一人ではない」


 帝は宗一郎を見る。


「そなたが高槻でしているようにな」


 宗一郎は理解した。


「倉?」


「うむ」


「米」


「銭」


「火薬」


「鉄」


「全部一ヶ所に置かない」


「誰か一人の私物にもさせない」


 半兵衛が続ける。


「帳面を複数残す必要がございますな」


「何故だ」


 信長が聞く。


「一冊なら燃えます」


「二冊なら」


「二人で嘘をつける」


「では三冊か」


「最低でも」


 宗一郎が苦笑した。


「また帳面が増える」


「殿が始めたことでしょう」


「そうなんだけど」


 帝はそのやり取りを聞きながら、静かに頷いた。


 武力。


 銭。


 記録。


 権威。


 一つに集めない。


 だが。


 ばらばらにもさせない。


 その間を作る。


 それこそが。


 将軍なき天下で必要になるものだった。


     ◆


 話は昼を越えた。


 食事を挟み。


 再び始まった。


 そして。


 最も厄介な問題へ入る。


「誰が罷めさせる」


 帝が問うた。


 宗一郎は答えなかった。


 信長も。


 光秀も。


 半兵衛も。


 すぐには答えない。


 初代が信長なら。


 誰が信長を罷免できるのか。


 帝だけか。


 ならば。


 帝と信長が対立した時。


 国が二つに割れる。


「主上だけでは」


 光秀が慎重に言った。


「危ういかと」


 鷹司家の当主が顔を強張らせた。


 帝は怒らない。


「続けよ」


「武家の力を持つ者を」


「朝廷だけの判断で罷免すれば」


「従わぬ者が出ます」


「では武家が決めるか」


「それでは朝廷から独立いたします」


 沈黙。


 宗一郎は頭を抱えた。


「難しい……」


 信長が笑う。


「だから面白い」


「信長様は黙っててください」


「何故だ」


「楽しんでるから」


「悪いか」


「こっちは胃が痛いんです」


 半兵衛が言った。


「ならば」


「一人で罷めさせない仕組みにしてはいかがでしょう」


 全員が見る。


「主上」


「公家」


「武家」


「それぞれから」


「異なる立場の者が」


「同じ結論へ至った時」


「罷免できる」


 宗一郎が目を細める。


「でも」


「武家側が本人の家臣だったら?」


「意味がない」


「では」


 半兵衛が答える。


「任命された者とは別家の者を入れる」


「敵対したら?」


「だから一人では決めさせない」


 光秀も考え始めた。


「理由も必要です」


「理由?」


「負けたから、では危うい」


 光秀は言った。


「一度戦に敗れただけで罷免されるなら」


「誰も大胆な判断をできませぬ」


「では何なら」


「朝廷への反逆」


「命令なき私戦」


「外国勢力との勝手な盟約」


「禁裏への武力行使」


「国の兵や蔵を私物化すること」


 宗一郎が筆を走らせる。


「あと」


「勝手に子へ継がせる」


 信長が宗一郎を見る。


「そこに拘るな」


「一番危ないからです」


「信忠が継いではならぬと?」


「違います」


 宗一郎は即答した。


「信忠様が選ばれるのはいい」


「信長様の子だから自動的に選ばれるのが駄目なんです」


 信長の目が細くなった。


「何故」


「二代目が優秀でも」


「三代目は?」


「四代目は?」


「十代目は?」


 宗一郎は信長から目を逸らさなかった。


「血は」


「能力を保証しません」


 鷹司家の当主が僅かに表情を変える。


 それは。


 この時代では。


 かなり危うい言葉だった。


 帝も。


 宗一郎を見る。


 宗一郎は気づいた。


「あ」


 遅かった。


 天皇の前で。


 血が能力を保証しないと言った。


「……いや」


「主上のことではなく」


 信長が吹き出した。


 半兵衛が顔を伏せる。


 光秀まで口元を押さえた。


「笑わないでください!」


 帝も。


 笑っていた。


「分かっておる」


「本当に?」


「そなたは」


「時折」


「恐ろしいことを平然と言うな」


「すみません」


「だが」


 帝の表情が戻る。


「武家の役については」


「その通りであろう」


 血ではなく。


 役目。


 能力。


 そして。


 必要なら替える。


 この時代には。


 まだ馴染みの薄い考え方だった。


 だが。


 足利幕府が。


 将軍家という血を軸にして。


 最後には崩れたばかりでもある。


「世襲とはせぬ」


 帝が言った。


 宗一郎が筆を止める。


「ただし」


「子が継ぐことを禁じもしない」


「その都度」


「選ぶ」


 信長が尋ねる。


「誰が」


「それを」


 帝は答えなかった。


「次に決める」


 宗一郎は。


 思わず天井を見た。


 終わらない。


 本当に。


 終わらない。


     ◆


 同じ頃。


 安芸。


 毛利輝元の前に。


 本願寺からの書状が置かれていた。


 問いは短い。


 ――海を、誰のものと考えるか。


 小早川隆景は二度読んだ。


 吉川元春は一度だけ読んだ。


「面倒な問いをしてきたな」


 元春が言う。


「顕如らしい」


 隆景が答えた。


 輝元が二人を見る。


「どう返す」


「海は毛利のものだ、と」


 元春が即答する。


 隆景は首を振った。


「それでは織田へ宣戦したも同じです」


「では織田のものと言うか」


「それも違います」


「なら何だ」


 隆景は。


 地図を広げた。


 瀬戸内。


 島。


 港。


 海峡。


 潮。


 その一つ一つに。


 毛利だけではない人間がいる。


 村上。


 商人。


 寺社。


 漁民。


 国人。


 船頭。


「海は」


 隆景が言った。


「誰のものでもない」


 元春が眉を寄せる。


「綺麗事だ」


「最後まで聞いてください」


 隆景は続けた。


「だからこそ」


「通る者に」


「力が要る」


 輝元が目を細める。


「織田が大阪湾を押さえ始めた」


「はい」


「九鬼まで使っております」


「だが」


「まだ瀬戸内ではない」


「はい」


 隆景は頷いた。


「ここを越えれば」


「話が変わります」


 毛利は。


 織田と今すぐ戦うつもりはない。


 だが。


 織田が海へ出て。


 大阪湾を越え。


 淡路。


 播磨。


 瀬戸内へ。


 さらに西へ。


 それは。


 毛利にとって。


 見過ごせる話ではない。


「本願寺を助けますか」


 輝元が尋ねる。


 隆景は。


 すぐには答えなかった。


「助ける、ではありませぬ」


「では?」


「使います」


 元春が笑った。


「そう来たか」


「本願寺が織田と争っている間」


「織田の海の力を測れます」


「九鬼がどれほどか」


「高槻の大筒が船で使えるのか」


「大阪湾から西へ出る力があるのか」


 輝元は。


 書状を見る。


「返事は?」


 隆景は筆を取った。


 短く。


 書いた。


 ――海は、海を知る者のもの。


 そして。


 もう一行。


 ――毛利は、海を忘れておらぬ。


 それだけだった。


 兵を出すとは書かない。


 船を出すとも。


 援助するとも。


 だが。


 断ってもいない。


 顕如なら。


 意味を理解する。


「それと」


 隆景が言った。


「大阪湾へ人を」


「間者を?」


「商人でよい」


「船頭でも」


「漁師でも」


「見るだけです」


 輝元が。


 ゆっくり頷いた。


「織田を見る」


「はい」


「本願寺も」


「はい」


「九鬼も」


「高槻も」


 元春が笑う。


「皆」


「人の腹を探っておるな」


 隆景は。


 静かに答えた。


「戦になる前ほど」


「皆よく見ます」


「戦になれば?」


「見る余裕がなくなる」


 その言葉に。


 誰も笑わなかった。


     ◆


 御所での話し合いは。


 日が傾いても。


 終わらなかった。


 決まったことは。


 思ったより少ない。


 だが。


 宗一郎には。


 それでよいと思えた。


 今日決まったのは。


 新しい武家の役は。


 天下を所有する者ではない。


 朝廷を支配する者でもない。


 大名の土地を。


 すべて直接治める者でもない。


 役目は。


 大きな私戦の抑止。


 外敵への軍事統率。


 京周辺の治安。


 主要街道の維持。


 戦時の兵站調整。


 必要な場合の諸大名への動員。


 ただし。


 禁裏の内を直接支配しない。


 独自に全国から恒常的な税を取らない。


 役職を私物化しない。


 世襲を当然とはしない。


 そして。


 記録を残す。


「最後の一つは」


 信長が言った。


「宗一郎の趣味ではないか」


「大事なんです」


「何故」


「後で」


「そんなこと言ってない」


「って言う人が出るからです」


 信長が宗一郎を見る。


「儂のことか」


「言いそうです」


「言わぬ」


「今、記録しました」


「貴様」


 帝が。


 また笑った。


 だが。


 その後。


 帝は一枚の紙を取った。


「信長」


「は」


「まだ」


「そなたをこの役へ任じぬ」


 宗一郎が帝を見る。


 信長は。


 驚かなかった。


「何故でございます」


「まだ」


「足りぬ」


「何が」


「そなたが」


「受ける条件だ」


 信長の目が変わった。


「朕らが」


「そなたへ何をさせるかだけではない」


「そなたが」


「何なら受けるのか」


「それを聞いておらぬ」


 信長は。


 しばらく黙った。


 そして。


「では」


「申し上げましょう」


 宗一郎は。


 嫌な予感がした。


 信長が。


 こういう顔をした時は。


 大抵。


 面倒なことを言う。


「儂は」


 信長が言った。


「飾りなら」


「要らぬ」


「はい」


「兵をまとめろと言いながら」


「大名が従わぬ時に」


「何もできぬなら」


「受けぬ」


 帝は頷く。


「続けよ」


「戦を止めろと言いながら」


「止めるための兵を動かせぬなら」


「受けぬ」


「うむ」


「道を守れと言いながら」


「勝手に関所を置く者を退けられぬなら」


「受けぬ」


「うむ」


「外国が攻めてきた時」


「朝廷の返事を待たねば」


「一兵も動かせぬなら」


「受けぬ」


 宗一郎が。


 口を開く。


「そこは」


「難しいですね」


「何故だ」


「緊急時は必要です」


「でも」


「緊急だと言えば何でもできるようになったら」


「終わります」


 信長が笑った。


「ならば」


「期限をつけろ」


 宗一郎が止まる。


「期限?」


「急なら儂が動く」


「後で報告する」


「それを朝廷が認めぬなら」


「兵を退く」


 宗一郎は。


 思わず半兵衛を見る。


 半兵衛も。


 僅かに目を見開いていた。


「それ」


 宗一郎が言う。


「かなり大事ですよ」


「そうか」


「そうですよ」


 緊急時。


 先に動く。


 後で承認を受ける。


 認められなければ。


 継続できない。


 完璧ではない。


 悪用もできる。


 だが。


 少なくとも。


 無制限ではない。


「記録します」


「勝手にせい」


「もうしました」


「早いな」


 そして。


 信長は。


 最後の条件を出した。


「もう一つ」


「何だ」


 帝が聞く。


「この役を」


「儂の家臣にはするな」


 宗一郎が。


 信長を見る。


「どういう意味です?」


「織田家の役にするなということだ」


 信長は。


 ゆっくり言った。


「儂が受けるなら」


「織田信長として受ける」


「だが」


「この役そのものを」


「織田家のものにはするな」


 宗一郎は。


 何も言えなかった。


 信長は。


 ちゃんと分かっている。


 自分の後を。


 考えている。


「信忠に」


 信長が続ける。


「継がせたければ」


「信忠が」


「選ばれればよい」


「選ばれぬなら」


「それまでだ」


 宗一郎は。


 信長の横顔を見る。


 この男は。


 家を残したいのか。


 国を残したいのか。


 たぶん。


 両方だ。


 だが。


 どちらか一つを選べと言われた時。


 今の信長なら。


 どちらを取る。


 宗一郎には。


 まだ分からなかった。


 帝が。


 静かに言った。


「よい」


「では」


「次へ進めよう」


 信長が。


 笑った。


「ようやく」


「名を決めますか」


「まだだ」


「まだか」


「まだである」


 宗一郎が。


 思わず笑った。


 信長が睨む。


「何がおかしい」


「いや」


「信長様が焦らされるの珍しいなって」


「宗一郎」


「はい」


「後で覚えておれ」


「記録しておきます」


 今度は。


 光秀まで。


 笑った。


 だが。


 その笑いは。


 長く続かなかった。


 廊下の向こうから。


 足音。


 急ぎながらも。


 御所ゆえに。


 走ることを許されない。


 そんな。


 抑えた足音だった。


 近習が。


 部屋の外で膝をつく。


「恐れながら」


「何だ」


「西国より」


「急ぎの報せにございます」


 光秀が受け取る。


 読む。


 その顔から。


 笑みが消えた。


「どうした」


 信長が尋ねる。


 光秀は。


 書状を置いた。


「毛利が」


「動きました」


 宗一郎の背筋が伸びる。


「兵?」


「違います」


「船?」


「それも」


「まだ」


 光秀は。


 紙の一文を読む。


「毛利領に近い港で」


「石山へ向かう船に対し」


「水と食料を売ることを」


「止めぬと」


 嘉隆の言葉が。


 宗一郎の頭に蘇った。


 船は。


 海だけでは生きられない。


 水。


 食料。


 薪。


 縄。


 帆。


 港。


 毛利は。


 兵を出していない。


 織田へ。


 宣戦もしていない。


 ただ。


 本願寺の船が。


 海を使えるようにした。


「上手いな……」


 宗一郎が呟いた。


 信長の目が。


 細くなる。


「小早川か」


「おそらく」


 光秀が答える。


 帝は。


 地図を見る。


「信長」


「は」


「先ほど」


「外国から攻められた時の話をしたな」


「いたしました」


「だが」


 帝の指が。


 瀬戸内へ動く。


「先に考えるべきは」


「国内の海かもしれぬ」


 信長は。


 少し笑った。


「ようやく」


「面白くなってきた」


 宗一郎は。


 笑えなかった。


 本願寺。


 毛利。


 九鬼。


 堺。


 紀伊。


 淡路。


 瀬戸内。


 さらに。


 海の向こうには。


 宗玄がいる。


 十二使徒がいる。


 どこまで繋がっているのか。


 まだ分からない。


 だから。


 混ぜてはいけない。


 本願寺は本願寺。


 毛利は毛利。


 十二使徒は十二使徒。


 事実を分ける。


 敵を間違えない。


 だが。


 別々の敵が。


 別々の理由で。


 同じ海へ集まり始めることはある。


 宗一郎は。


 地図を見た。


 陸の天下は。


 少しずつ。


 形を持ち始めている。


 だが。


 海には。


 まだ。


 誰の線も引かれていなかった。

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