第百六章 海の向こうの敵
第百六章 海の向こうの敵
宗玄。
その名を聞いた瞬間。
織田信長は、眉を寄せた。
「知っている」
宗一郎は思わず身を乗り出した。
「本人を?」
「いや。名だけだ」
岐阜。
夜半にもかかわらず、信長の前には丹羽長秀が集めた古い商取引の記録が広げられていた。
六年前。
薬種。
香料。
硝石。
四年前。
再び薬種。
鉄砲に関係する品。
南蛮渡来の品々。
その仲介人の中に、宗玄という名が二度あった。
「玄宗という名もあります」
宗一郎が府内からの報告を置く。
「紀伊ではそう名乗っていたようです」
「偽名か」
「おそらく」
「黒幕なのか」
「分かりません」
信長は即座に言った。
「なら捕らえるな」
宗一郎が信長を見る。
「珍しいですね」
「何がだ」
「てっきり、首を持ってこいと」
「貴様は儂を何だと思っておる」
「信長様」
「なら正しい」
「どっちですか」
信長は笑わなかった。
「そやつ一人を殺して終わるなら殺す。終わらぬなら、その先を見ろ」
宗一郎も表情を改めた。
「源八郎も同じ判断です」
「なら任せろ」
そして信長は、宗玄の名が記された古い帳面を叩いた。
「ただし一つ、覚えておけ」
「はい」
「織田へ薬を売ったことも、硝石を売ったことも罪ではない」
「分かっています」
「南蛮人と商いをしたこともだ」
「はい」
「証を取れ」
宗一郎は頷いた。
疑わしい。
だから斬る。
そんな天下を終わらせようとしているのだ。
敵を追う時こそ。
その線を越えてはいけない。
◆
事態は、その翌日から一気に動いた。
最初の報せは石山からだった。
本願寺が荷改めした船から、銀、火薬、そして十二使徒の印が押された書状が発見された。
府内で源八郎が聞いた通りだった。
何者かが本願寺へ証拠を運び込み、
――本願寺と十二使徒は繋がっている。
そう織田に思わせようとしていた。
だが。
顕如が先に気づいた。
使者が密かに明智光秀を訪ねた。
「本願寺のものではない」
使者はそう言った。
「信じよ、と?」
光秀が問う。
「いいえ」
使者は首を振った。
「調べていただきたい」
光秀の目が変わった。
「商人は?」
「生きております」
「誰から荷を受けた」
「善右衛門という男」
そこで。
線が繋がった。
府内の倉を管理していた善右衛門。
宗玄と黒衣の南蛮人。
石山へ向かった偽装荷。
すべて。
同じ場所から出ている。
光秀は書状の写しを置いた。
「顕如殿へ伝えよ」
「はい」
「この件と、織田と本願寺の戦は別だ」
使者が驚いた。
「戦は戦」
「この企みは、この企み」
「混ぜぬ」
使者は深く頭を下げた。
「顕如様も」
「同じことを申されました」
光秀は。
少しだけ。
苦い顔をした。
「気が合いたくはない相手だな」
奇妙なことが起きていた。
織田と本願寺は。
まだ敵である。
戦も終わっていない。
だが。
双方を争わせようとする第三者が現れたことで、
互いに、
敵の嘘まで背負わせない。
という一点だけは一致した。
それは同盟ではない。
和睦でもない。
ただ。
敵であっても。
事実は事実として扱う。
新しい時代の。
小さな一歩だった。
その直後。
もっと大きな報告が届いた。
本願寺の第一船団。
輸送船四十二艘。
護衛六艘。
大阪湾へ到達。
織田は止められなかった。
四十二艘のうち三十九艘が石山側へ入り、二艘が故障、一艘が浅瀬で損傷した。
護衛船は六艘とも健在。
兵糧。
塩。
油。
火薬。
その他の物資が。
石山へ入った。
「負けだ」
報告を聞いた信長が言った。
誰も口を開かなかった。
滝川一益が頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「何故謝る」
「止められませなんだ」
「止められる船があったのか」
「……ございませぬ」
「ならば兵の失敗ではない」
信長は地図を睨んだ。
「儂の失敗だ」
宗一郎が信長を見る。
「陸ばかり見ておった」
信長は自分で認めた。
「海を持たぬ者が」
「天下を語っておった」
誰も反論できない。
そこで。
九鬼嘉隆が言った。
「今頃気づいたか」
部屋の空気が凍った。
一益が嘉隆を見る。
丹羽も。
光秀も。
信長だけが笑った。
「面白い」
「事実だ」
嘉隆は引かない。
「四十二艘を止めたいなら、四十二艘を沈める船を揃える必要はない」
「では?」
宗一郎が聞く。
「海を知らん奴はすぐ船の数を数える」
嘉隆は大阪湾を指した。
「潮を見ろ」
「風を見ろ」
「港を見ろ」
「水深を見ろ」
「船が通れる場所は無限ではない」
宗一郎が。
地図へ近づいた。
「海にも」
「道がある?」
「ある」
嘉隆が答える。
「見えんだけだ」
宗一郎は。
その言葉を。
しばらく考えた。
そして。
「教えてください」
「何を」
「全部」
「……は?」
「潮」
「風」
「船」
「港」
「海図」
「航海」
「船大工」
「全部」
嘉隆が嫌そうな顔をする。
「志摩の海を、織田へ差し出した覚えはないぞ」
「頼んでません」
宗一郎は答えた。
「教えてほしいんです」
「俺たちは海を知らない」
「知らないまま船だけ作ったら」
「人が死ぬ」
嘉隆の表情が変わった。
少し前まで。
宗一郎は大砲を載せた船を作ろうとしていた。
だが。
今は違う。
自分が知らないことを。
認めている。
「……いいだろう」
嘉隆が言った。
「ただし」
「はい」
「大筒は最後だ」
「え」
「最後だ」
「でも」
「船が浮いてから言え」
「はい……」
信長が笑った。
「宗一郎」
「何です」
「負けておるではないか」
「海では信長様も負けてますからね」
笑いが消えた。
「宗一郎」
「はい」
「後で残れ」
「何で俺だけ!」
◆
だが。
海の話は。
冗談では終わらなかった。
三日後。
高槻近くの水辺で。
最初の試験が行われた。
新造船ではない。
既存の船を改造し、小型の大筒を一門だけ載せた。
宗一郎。
嘉隆。
船大工。
技術所の者。
与吉。
全員が見ている。
「撃て!」
轟音。
船が。
大きく傾いた。
「うわっ!」
「掴まれ!」
大筒の台がずれる。
甲板の板が割れる。
水夫が転ぶ。
船腹が軋んだ。
宗一郎の顔が青くなる。
「止めろ!」
二発目は撃たせなかった。
岸へ戻る。
嘉隆が。
宗一郎を見る。
「どうだ」
「……すみませんでした」
「何が」
「大砲を載せれば軍船になると思ってました」
「ならん」
「はい」
「船には船の理屈がある」
「はい」
与吉が。
割れた板を見る。
「宗一郎様」
「何」
「失敗ですね」
「失敗だね」
「記録します」
「全部」
「はい」
宗一郎は。
壊れた船を見る。
不思議と。
落ち込んではいなかった。
「次は」
嘉隆が聞く。
「船幅を広げます」
「それだけか」
「大筒の位置を下げる」
「それだけか」
「反動を船全体へ逃がす台を考える」
「それだけか」
「……教えてください」
嘉隆が笑った。
「最初からそう言え」
戦国の海を変える船は。
最初から完成しなかった。
最初の一発で。
甲板を壊した。
だが。
だからこそ。
高槻は。
失敗を記録した。
次に同じ失敗をしないために。
その日の夕刻。
源八郎から。
急報が届いた。
宗玄が。
日本を離れようとしている。
府内を出た船は北へ向かった後、西へ転じた。
日本側の主要港へ寄らず。
水だけを補給。
保存食を大量に積み。
外洋へ出る準備をしている。
九鬼嘉隆は。
報告を一度読んだだけで言った。
「日本を出る」
「追えますか」
「今の船では無理だ」
宗一郎は。
壊れた試験船を見る。
追いたい。
だが。
追えない。
それが。
現実だった。
「どこへ行くと思います」
「分からん」
「平戸?」
「違う可能性が高い」
「明?」
「あり得る」
「マカオ?」
嘉隆が。
宗一郎を見る。
「知っているのか」
「名前くらいは」
宗一郎は。
地図の外を見る。
日本の地図には。
そこから先が。
ほとんど描かれていない。
「追えないなら」
宗一郎が言った。
「先回りする」
「どうやって」
「商人」
「宣教師」
「船乗り」
宗一郎の目が。
変わる。
「俺たちが船で追えなくても」
「向こうへ行く船はある」
嘉隆が理解する。
「南蛮船か」
「はい」
宗一郎は。
すぐにロレンソへ使いを出した。
以前。
信頼できる宣教師を紹介すると。
話していた。
それを使う。
さらに。
堺。
平戸。
府内。
南蛮交易をする日本人商人へ。
同じ問いを送る。
宗玄。
善右衛門。
鷺。
十二使徒。
ただし。
全部は教えない。
断片だけ。
そして。
数日後。
意外なところから。
返事が来た。
平戸の商人だった。
「宗玄を知っている?」
「はい」
使者が。
紙を差し出す。
「十年ほど前より」
「南蛮交易に関わっていた男」
「それは知ってる」
「続きがございます」
宗一郎が読む。
そこには。
宗玄が。
何度か日本を離れているとあった。
「どこへ」
紙をめくる。
澳門。
マカオ。
そして。
もう一つ。
「……印度?」
宗一郎の指が止まった。
「印度の西岸」
「南蛮人の大きな拠点」
宗一郎は。
その名前を知っていた。
「ゴア」
部屋が。
静かになる。
官兵衛が尋ねた。
「ご存じで?」
「……名前だけ」
宗一郎は。
答えた。
ポルトガル領インド。
アジア交易。
宣教師。
イエズス会。
日本より。
遥かに大きな世界。
だが。
まだ。
これだけではない。
使者が。
もう一枚を差し出した。
「宗玄は」
「ゴアで」
「南蛮の高位の者と会っていたとの噂がございます」
「名前は」
「分かりませぬ」
「宣教師?」
「それも」
「分からない?」
「はい」
宗一郎は。
紙を置いた。
「それでいい」
官兵衛が。
僅かに笑う。
「以前なら」
「もっと知りたそうな顔をされていたでしょうな」
「今も知りたいよ」
「では」
「知りたいからって」
宗一郎は言った。
「分からないところを」
「勝手に埋めたら駄目なんだ」
十二使徒。
宗玄。
マカオ。
ゴア。
線は。
確かに伸びている。
だが。
その先が。
ローマなのか。
イエズス会なのか。
商人なのか。
ポルトガルの誰かなのか。
それとも。
日本と海外を跨いだ。
独自の集団なのか。
まだ。
分からない。
「でも」
宗一郎は。
世界を描いた粗い地図を広げた。
「一つだけ」
「はっきりした」
半兵衛が見る。
「何がです」
「天下を統一したら」
「終わりじゃない」
日本。
その外。
明。
マカオ。
南方。
インド。
さらに。
遠い西。
「信長様が」
「日本を一つにしたとしても」
「世界は」
「その何十倍も広い」
半兵衛が。
宗一郎を見る。
「怖いですか」
「怖いよ」
宗一郎は。
あっさり答えた。
「だから」
「見ないふりはしない」
その時。
戸が開いた。
信長だった。
「ならば」
「見に行けばよい」
宗一郎が固まる。
「……どこへ?」
「海の向こうへだ」
「簡単に言わないでください!」
「貴様が先ほど嘉隆に言ったことだろう」
「聞いてたんですか!」
「聞いておった」
信長は。
世界図を見る。
日本。
小さい。
あまりにも。
小さい。
「宗一郎」
「はい」
「儂は」
「天下が欲しい」
いつもの信長なら。
そこで終わる。
だが。
今夜は違った。
「だが」
「天下とは」
「どこまでだ」
宗一郎は。
答えられなかった。
信長も。
答えを求めなかった。
ただ。
地図の。
日本の外を見る。
「面白いな」
信長が。
笑った。
宗一郎は。
嫌な予感がした。
「信長様」
「何だ」
「海外征服とか考えてませんよね」
「まだ考えておらん」
「まだ!?」
半兵衛が。
額を押さえた。
だが。
その夜。
織田の天下は。
初めて。
日本の海岸線で。
思考を止めなかった。
一方。
遥か西へ向かう船。
宗玄は。
最後の書状を燃やしていた。
黒衣の男が尋ねる。
「日本を捨てるのですか」
「違う」
「では」
「やり方を変える」
宗玄は。
燃える紙を見る。
「暗殺は失敗した」
「本願寺への偽装も失敗した」
「日本人を」
「甘く見すぎた」
「次は?」
宗玄は。
海の先を見た。
「澳門へ行く」
「そこから」
「ゴアへ?」
宗玄は。
答えなかった。
ただ。
一言。
「報告する」
「誰に」
沈黙。
波の音。
やがて。
宗玄は。
小さく答えた。
「我らを」
「日本へ送り込んだ者に」
黒衣の男は。
それ以上。
聞かなかった。
同じ頃。
高槻では。
壊れた船の横で。
与吉たちが。
夜遅くまで。
寸法を測っていた。
船幅。
重心。
砲の位置。
甲板の強度。
反動。
誰も。
世界を変えようなどとは。
思っていない。
ただ。
次は。
壊さない。
そのために。
測る。
書く。
直す。
宗玄は。
海の向こうへ。
逃げた。
追う船は。
まだない。
ならば。
造る。
ただし。
急がない。
失敗を。
一つずつ。
潰しながら。
日本の歴史が。
史実から外れていく一方で。
海の向こうには。
宗一郎さえ知らない人間たちがいる。
そして。
宗一郎たちは。
ようやく気づき始めていた。
天下の先には。
世界がある。
その世界の方もまた。
日本を。
見始めていた。




