第百五章 鷺を追う
第百五章 鷺を追う
捕らえない。
それは。
時として。
捕らえるより難しい。
目の前に敵がいる。
手を伸ばせば届く。
それでも。
手を出さない。
その先を見るために。
鵜飼源八郎は。
府内の町で。
ただ待った。
鷺の根付を持つ男が、次に姿を現したのは三日後だった。
昼。
人の多い刻だった。
隠れる様子はない。
むしろ堂々と歩いている。
右足を僅かに引く。
左手の薬指がない。
腰には。
鷺。
間違いない。
源八郎は追わなかった。
魚を買う。
振り返らない。
男が通り過ぎる。
しばらくして。
別の男が動いた。
高槻の「目」。
源八郎とは互いに知らぬ顔をしている。
その男が。
鷺を追う。
さらに先。
別の者へ。
人を替える。
また替える。
一人で追わない。
顔を覚えさせない。
高槻の忍び網が。
静かに。
男を包んでいく。
鷺の男は。
港へ向かわなかった。
南蛮寺にも行かない。
商家にも入らない。
向かったのは。
一軒の茶屋だった。
町外れ。
旅人。
船乗り。
荷運び。
誰でも入る。
男は。
そこで。
茶を飲んだ。
ただ。
それだけ。
一刻。
誰とも話さない。
誰とも目を合わせない。
そして。
出ていった。
見張っていた若い忍びが。
首を傾げた。
「何をしていた」
源八郎は答えない。
男を追わず。
茶屋を見る。
客が出る。
入る。
また出る。
しばらくして。
一人。
笠を深く被った僧が出てきた。
源八郎の目が。
僅かに細くなる。
「そっちだ」
「鷺は?」
「捨てろ」
「しかし」
「何もせず茶屋へ入って、一刻座って出た」
若い忍びが理解する。
「受け渡し?」
「かもしれん」
まだ。
決めない。
だが。
追う価値はある。
「僧を見ろ」
若い忍びが消える。
源八郎は。
茶屋へ入った。
「茶を」
「あいよ」
普通の茶屋。
女将。
娘。
客。
何もおかしくない。
源八郎は。
鷺の男が座っていた場所へ。
偶然を装って座った。
卓。
椅子。
壁。
何もない。
茶が来る。
飲む。
ふと。
卓の脚を見る。
傷。
古い。
その横。
新しい傷。
細い。
二本。
横。
その下。
小さな円。
源八郎の目が。
止まった。
例の印。
だが。
紙でも。
銀でも。
箱でもない。
卓の裏。
爪先ほどの。
小さな傷。
「……なるほど」
源八郎は。
茶を飲み干した。
消さない。
触らない。
そのまま。
店を出た。
夕方。
若い忍びが戻った。
「僧は港へ」
「船は」
「乗っておりませぬ」
「では」
「船宿へ入りました」
「誰と会った」
「三人」
「どんな」
「一人は堺の商人」
源八郎の目が。
僅かに動く。
「一人は船頭」
「最後は」
若い忍びが。
少し迷った。
「武士です」
「どこの」
「分かりませぬ」
「紋は」
「ありません」
「刀は」
「二本」
「歩き方」
「武士です」
「言葉は」
「聞けませぬでした」
源八郎は。
少し考えた。
「見る」
「捕らえますか」
「まだだ」
また。
同じ答えだった。
◆
一方。
石山へ向かっていた船も。
見られていた。
府内を出た。
銀。
火薬。
書状。
十二使徒の印。
すべて。
本願寺を陥れるための荷。
だが。
その船が紀伊水道へ入る前に。
異変が起きた。
「船が来ます!」
船頭が沖を見る。
一艘。
旗。
本願寺。
護衛船だった。
「合図を!」
商人が叫ぶ。
こちらも。
事前に決められた合図を出す。
本願寺側から返る。
接近。
船が並ぶ。
「荷改めだ」
本願寺の男が言った。
商人が笑う。
「聞いておりませぬが」
「今日からだ」
「急でございますな」
「嫌なら帰れ」
商人の笑みが。
僅かに固まる。
「まさか」
「何だ」
「本願寺様ともあろうものが、味方の荷を疑われるとは」
「疑っている」
男は。
平然と答えた。
「味方だから見る」
「……」
「敵の荷なら最初から入れぬ」
商人は。
何も言えなかった。
荷が。
一つずつ。
改められる。
銀。
問題なし。
火薬。
問題なし。
布。
油。
米。
そして。
小箱。
「開けろ」
「これは」
「開けろ」
商人が。
止まる。
その一瞬。
本願寺の男の目が変わった。
「押さえろ」
「待て!」
二人が。
商人の腕を取る。
「何を!」
「箱を開けろ!」
蓋。
中。
書状。
一通。
男が読む。
顔が。
変わった。
そこには。
織田。
朝廷。
婚姻。
そして。
石山。
さらに。
あの印。
二本の横棒。
下に円。
本願寺の男は。
しばらく黙った。
「こいつを縛れ」
「違う!」
「何が違う」
「私は頼まれただけです!」
「誰に」
「知らぬ!」
「では石山で聞く」
「待ってくれ!」
男は。
叫んだ。
「私は本当に知らない!」
本願寺の男は。
商人を見る。
「なら」
「知っているところまで話せ」
船は。
石山へ向かった。
沈めない。
証拠も。
人も。
全部。
生きたまま。
顕如が。
書状を見たのは。
その翌日だった。
長い沈黙。
教如が。
隣にいる。
「父上」
「……」
「これは」
「我らを嵌めるつもりだった」
顕如が言った。
「やはり」
教如の顔に。
怒りが浮かぶ。
「伴天連め」
「待て」
「しかし!」
「誰が伴天連だと決めた」
教如が止まる。
顕如は。
書状を見る。
「我らは今」
「同じ過ちをしようとした」
「……」
「冬姫の件で」
「織田が我らを疑ったようにな」
教如は。
黙った。
「では」
「どうなされます」
顕如は。
考えた。
織田へ渡す。
それは。
嫌だ。
あまりにも。
嫌だった。
だが。
このまま持っていれば。
いずれ。
本願寺と十二使徒が繋がっている証拠として。
利用されるかもしれない。
「京へ」
「使いを?」
「違う」
顕如は言った。
「明智へ」
教如が。
驚く。
「明智光秀に?」
「あの男なら」
「話を分ける」
顕如は。
光秀が本願寺の噂工作と。
冬姫暗殺を。
別に扱ったことを知っている。
「書状の写しを渡せ」
「本物は」
「こちらで持つ」
「商人は」
「生かせ」
「織田へ渡しますか」
「まだだ」
顕如は。
静かに言った。
「我らが捕らえた」
「我らが聞く」
「ただし」
「拷問で欲しい答えを言わせるな」
教如が。
父を見る。
どこかで。
聞いたような言葉。
だが。
顕如は知らない。
帝も。
宗一郎も。
同じことを言っていることを。
「事実を取れ」
顕如は言った。
「我らは」
「誰かの罪を」
「代わりに被るつもりはない」
◆
府内。
源八郎は。
鷺の男ではなく。
僧を追っていた。
正確には。
僧から繋がった武士を。
武士は。
その日の夜。
船宿を出た。
堺の商人とは別れた。
船頭とも別れた。
一人。
町の北へ。
歩く。
源八郎は。
距離を取った。
途中。
武士が。
立ち止まる。
源八郎も。
止まらない。
そのまま通り過ぎる。
酔った商人のように。
ふらつく。
武士の横を。
通る。
酒の匂い。
わざとつけている。
「うい……」
武士は。
源八郎を一瞥した。
それだけ。
源八郎は。
角を曲がる。
別の者が。
追跡を引き継ぐ。
武士は。
府内の外へ出た。
馬。
乗る。
「速いな」
若い忍びが呟く。
「追うな」
「ですが」
「行き先は分かる」
「どうして」
源八郎が。
道を見る。
「北だ」
「北?」
「街道を見ろ」
馬の蹄。
そして。
荷車。
武士だけではない。
少し前。
荷が。
同じ道を進んでいる。
「別の目に渡す」
高槻の網。
府内だけではない。
街道。
宿。
港。
商人。
寺。
必要なところへ。
必要なだけ。
散っている。
報せが走る。
武士。
五十前後ではない。
三十代。
痩せ形。
無紋。
北上。
翌日。
次の宿。
確認。
さらに北。
その翌日。
また確認。
そして。
三日後。
武士は。
海へ向かった。
「船?」
報告を受けた源八郎が。
地図を見る。
「どこへ」
「門司の方角かと」
「門司……」
豊後から。
北。
海峡。
その先。
中国。
あるいは。
さらに。
西。
「追うな」
源八郎が言った。
「またですか」
「海は俺たちの仕事じゃない」
「では」
「海の奴に渡す」
誰へ。
もう。
候補はある。
九鬼嘉隆。
そして。
滝川一益。
宗一郎が。
少しずつ作り始めている。
陸と海を繋ぐ。
新しい目。
◆
高槻。
「門司?」
宗一郎が聞き返した。
「はい」
報告役が頭を下げる。
「府内で鷺の男と繋がった僧。その僧と接触した武士が北上。門司方面へ向かいました」
宗一郎は。
地図を見る。
半兵衛。
官兵衛。
そして。
ちょうど高槻へ戻っていた嘉隆。
「門司からなら」
嘉隆が言う。
「どこへでも行ける」
「どこへでも?」
「瀬戸内へ入る」
「博多へ行く」
「平戸へ戻る」
「風次第じゃ対馬もある」
宗一郎が頭を抱える。
「海って面倒だな」
「だから言っただろ」
「何を」
「お前は海を知らん」
「知ってますよ、それは」
「知らんことを知っただけだ」
「それ大事ですよ」
嘉隆が。
少し笑った。
「まあな」
官兵衛が。
地図を見ながら言った。
「毛利へ向かう可能性は」
部屋が。
静かになる。
瀬戸内。
門司。
中国地方。
毛利。
「ある」
宗一郎が答える。
「でも」
「毛利が関わっている証拠にはならない」
官兵衛が頷く。
「承知しております」
嘉隆が。
宗一郎を見る。
「で」
「俺にどうしろと」
「追ってほしい」
「簡単に言うな」
「難しいですか」
「海は道がない」
嘉隆は地図を指す。
「陸なら街道がある」
「海は」
「風で変わる」
「潮で変わる」
「船で変わる」
「船頭で変わる」
「昼と夜でも変わる」
宗一郎は。
黙って聞く。
「だから」
嘉隆が言った。
「船を追うな」
「え?」
「港を見ろ」
宗一郎が。
顔を上げる。
「船は消える」
「でも」
「船は必ず」
「どこかで水を積む」
「飯を積む」
「帆を直す」
「人を降ろす」
「なるほど」
「海の街道は」
嘉隆が。
港を一つずつ指す。
「港だ」
宗一郎が。
笑った。
「それ」
「使える」
「何に」
「仕組みに」
「またか」
嘉隆が。
嫌そうな顔をする。
「お前」
「何でも仕組みにするな」
「仕組みにしないと、俺が死んだら消えるから」
嘉隆が。
宗一郎を見る。
少し。
表情が変わった。
「……変な奴だな」
「よく言われます」
「褒めてねえ」
「知ってます」
半兵衛が。
横で。
静かに笑っていた。
その時。
外から。
急ぎの声。
「宗一郎様!」
「何」
「京より」
「明智様から使者!」
宗一郎が。
顔を上げる。
「通して」
男が入る。
息を切らしている。
「石山より」
「石山?」
「はい」
「明智様へ」
「密かに」
「書状が届きました」
宗一郎と。
官兵衛が。
同時に。
地図を見る。
「誰から」
「本願寺」
部屋の空気が。
変わった。
「顕如から?」
「正確には」
「本願寺の使者より」
使者は。
包みを出した。
「府内より石山へ向かった船から」
「奇妙な書状が見つかったと」
宗一郎の目が。
鋭くなる。
「印は」
「ございます」
紙が。
開かれる。
二本の横棒。
下に円。
「……繋がった」
半兵衛が。
静かに言った。
府内。
石山。
源八郎が見た会話。
そして。
本願寺自身が捕らえた船。
宗一郎は。
すぐに言った。
「光秀様へ返事」
「何と」
「本願寺へ」
一瞬。
考える。
「礼を」
使者が。
驚く。
「礼でございますか」
「うん」
「敵ですよ?」
「敵だよ」
宗一郎は答えた。
「だから何」
「……」
「敵が正しいことをした時まで」
「敵だからって否定したら」
「こっちが馬鹿になる」
官兵衛が。
宗一郎を見る。
そして。
僅かに笑った。
「それは」
「顕如殿も驚きましょうな」
「驚かせとけばいいよ」
宗一郎は。
再び。
地図を見る。
府内。
石山。
門司。
三本の線。
「でも」
まだ。
足りない。
「鷺の男」
半兵衛が言う。
「はい」
「誰なのでしょう」
「それを調べる」
宗一郎は。
源八郎の報告を取った。
五十前後。
右足。
左手薬指。
鷺。
「名前じゃない」
「何がです」
「探し方」
宗一郎が。
紙を指す。
「名前は変えられる」
「でも」
「指は生えない」
官兵衛の目が。
変わる。
「足も」
半兵衛が続ける。
「歩き方も」
「そう」
宗一郎は言った。
「だから」
「名前で探すのをやめる」
堺。
平戸。
紀伊。
府内。
港。
寺。
商人。
宿。
「左手の薬指がない」
「右足を少し引きずる」
「五十前後」
「海の商いに詳しい」
「南蛮人と話ができる可能性がある」
「鷺の根付を持つ」
「この条件を」
「全部の目に流す」
半兵衛が。
すぐに首を振った。
「全部は危険です」
宗一郎が止まる。
「何故」
「敵も聞きます」
宗一郎は。
数息。
考えた。
「……そうだね」
すぐに訂正する。
「三つに分ける」
「三つ?」
「ある者には左手」
「ある者には右足」
「ある者には鷺」
官兵衛が。
理解する。
「情報を分割する」
「うん」
「敵に一つ漏れても」
「何を探しているか分からない」
半兵衛が頷いた。
「それなら」
「やりましょう」
宗一郎は。
命じた。
堺へ。
左手。
紀伊へ。
右足。
平戸へ。
鷺。
別々の問いが。
飛んだ。
そして。
答えは。
意外なほど早く。
返ってきた。
◆
最初は。
堺。
左手の薬指を失った。
五十前後の男。
海の商いに関わる。
一人。
いた。
名は。
「宗玄」
宗一郎が読む。
「本名?」
「不明です」
「何をしている」
「表向きは薬種と香料の仲買」
宗一郎の目が。
僅かに変わる。
薬。
「南蛮人との取引は」
「あります」
「どこで」
「堺」
「平戸」
「府内」
半兵衛が。
宗一郎を見る。
重なる。
「次」
紀伊。
右足を引く。
年齢五十前後。
海商と関わる男。
呼ばれていた名。
「玄宗」
宗一郎が。
紙を止めた。
「宗玄じゃない?」
「紀伊では玄宗と」
「……入れ替えただけか」
官兵衛が。
呟く。
「偽名でしょうな」
「次」
平戸。
鷺の根付。
知る者がいた。
昔。
南蛮交易の仲介をしていた男。
名は。
「宗玄」
宗一郎が。
息を吐いた。
三つ。
別々に探した。
なのに。
一人へ。
集まった。
「見つけた」
半兵衛が言う。
宗一郎は。
すぐには頷かなかった。
「いや」
「名前を見つけた」
そして。
「黒幕かどうかは」
「まだ分からない」
だが。
今度は。
名前がある。
宗玄。
薬種。
香料。
銀。
南蛮交易。
堺。
紀伊。
平戸。
府内。
そして。
十二使徒。
官兵衛が。
最後の報告を取った。
「もう一つあります」
「何」
「宗玄という男」
「十年ほど前から」
「各地の大名家へ」
「出入りしております」
宗一郎の顔が。
変わる。
「どこ」
官兵衛は。
一つずつ。
読んだ。
「大友」
「毛利」
「三好」
「松永」
「そして」
一拍。
「織田」
部屋が。
静まった。
「織田?」
宗一郎が。
聞き返す。
「はい」
「いつ」
「数年前」
「何のために」
「薬種を売るためと」
宗一郎は。
立ち上がった。
「信長様へ」
「今から?」
「今すぐ」
「まだ夜ですが」
「関係ない」
宗一郎の顔から。
笑みが消えていた。
黒幕かどうか。
まだ分からない。
だが。
一つだけ。
はっきりした。
敵は。
海の向こうから。
日本を眺めていただけではない。
すでに。
ずっと前から。
大名たちの懐へ。
商人の顔で。
入り込んでいた。
その頃。
府内。
源八郎は。
鷺の男――宗玄を。
まだ追っていた。
宗玄は。
寺を出た。
港へ。
そして。
一艘の小舟へ乗る。
若い忍びが囁く。
「海へ出ます」
「ああ」
「嘉隆殿へ知らせますか」
「知らせろ」
「宗玄は」
「追う」
「海へ?」
「違う」
源八郎は。
宗玄が乗った小舟を見た。
「船を見ろ」
小舟は。
沖の船へ向かっている。
旗はない。
だが。
船腹。
船尾。
帆。
源八郎は。
目を細めた。
どこかで。
見た。
思い出す。
志摩。
押収された船。
その記録。
「同じ造り……」
若い忍びが。
息を呑む。
源八郎は。
さらに。
その先を見る。
沖。
もう一艘。
大きい。
南蛮船ではない。
和船。
だが。
甲板に。
人が多い。
宗玄の小舟が。
その船へ近づく。
「逃げる気だ」
「どこへ」
「分からん」
源八郎は。
笑わなかった。
「だから」
「今度は」
「海の者に聞く」
府内から。
早舟が出た。
九鬼嘉隆へ。
一通。
高槻へ。
一通。
そして。
宗玄を乗せた船は。
ゆっくり。
府内の沖から。
北へ。
動き始めた。
その先には。
海峡。
瀬戸内。
毛利。
博多。
平戸。
そして。
さらに遠い海。
どこへ向かうのか。
まだ。
誰にも分からない。
だが。
一本の縄から始まった追跡は。
ついに。
名を持つ男へ。
辿り着いた。
宗玄。
黒幕なのか。
それとも。
さらに上へ繋がる。
もう一つの中継点なのか。
答えは。
海の上にあった。




