第百四章 小さな綻び
第百四章 小さな綻び
大きな企みが。
大きな証拠から崩れるとは限らない。
むしろ。
長く隠されてきたものほど。
最後に残るのは。
誰も気に留めないような。
小さな綻びだった。
府内から船が出た。
積荷は銀。
火薬。
そして一通の書状。
行き先は石山。
表向きは。
何の変哲もない商船だった。
船主もいる。
荷主もいる。
帳面もある。
積荷の量も。
異常ではない。
港役人へ渡された書付にも。
おかしなところはなかった。
だから。
普通なら。
誰も気にしない。
だが。
その船を。
一人の男が見ていた。
名を。
鵜飼源八郎。
甲賀。
今は。
高槻宗一郎の「目」の一人として動いている。
源八郎は。
船を見ていたわけではない。
荷を見ていたわけでもない。
男を見ていたわけでもない。
見ていたのは。
縄だった。
「……妙だな」
源八郎が呟いた。
隣にいた若い男が聞く。
「何がです」
「あれだ」
「荷ですか」
「違う」
「船?」
「縄だ」
若い男が。
困った顔をする。
「縄?」
「見ろ」
火薬樽を固定している縄。
その結び目。
「普通では?」
「普通だ」
「では」
「だから妙なんだ」
若い男は。
ますます分からない。
源八郎は笑わなかった。
「覚えておけ」
「はい」
「忍びが探すのは」
「怪しいものだけじゃない」
「……」
「怪しくないように作られたものだ」
源八郎は。
もう一度。
縄を見る。
結び目そのものは。
船乗りなら使う。
珍しくない結び方だった。
だが。
最後。
余った縄を。
二度。
内側へ巻き込んでいる。
それも。
すべての荷で。
同じだった。
「癖だ」
源八郎が言った。
「癖?」
「ああ」
「誰のです」
「それを調べる」
若い男は。
そこで初めて。
顔を引き締めた。
◆
高槻の忍び網には。
一つの決まりがあった。
分からないものを。
勝手に答えへ変えない。
源八郎は。
府内から報告を送った。
――事実。
府内より石山方面へ向かう商船一艘。
銀・火薬その他を積載。
帳面・書付に目立った不審なし。
複数の積荷に同一の縄結び。
末端を二度内側へ巻き込む。
――推測。
同一人物、もしくは同じ荷役集団が梱包した可能性あり。
――判断。
現時点で十二使徒との関連は不明。
――誰。
鵜飼源八郎確認。
それだけだった。
普通なら。
捨てられるような報告。
だが。
高槻では。
捨てなかった。
報告を受けた者が。
過去の記録と照らした。
一日。
二日。
何もない。
三日目。
一人の記録係が。
手を止めた。
「……これ」
古い紙。
数か月前。
紀伊。
別の忍びから送られた報告。
正体不明の船へ。
夜中に荷が運び込まれた。
その時。
縄について。
僅かな記述があった。
――荷の縛り方、紀伊の船方と異なる。
それだけ。
さらに探す。
志摩。
例の旗のない船。
押収した荷の記録。
そこにも。
あった。
縄。
末端を。
二度。
内側へ。
「同じだ」
記録係の声が震えた。
そして。
もう一つ。
平戸。
弥三郎が逃亡に使おうとしていた荷。
押収品の記録。
同じ。
府内。
紀伊。
志摩。
平戸。
遠く離れた四つの場所。
そこで。
同じ癖。
偶然か。
まだ分からない。
だが。
偶然ではない可能性が。
初めて。
形になった。
報告は。
すぐに宗一郎へ届いた。
宗一郎は。
紙を読んで。
最初。
何も言わなかった。
半兵衛が隣から覗く。
「縄ですか」
「縄だね」
「随分と小さな話ですな」
「うん」
宗一郎は。
四枚の記録を並べた。
府内。
紀伊。
志摩。
平戸。
「でも」
「同じ人間が結んだ?」
「それは分からない」
「同じ集団?」
「それも分からない」
「では」
「分かってるのは」
宗一郎が指を置く。
「同じ結び方が」
「俺たちが追ってる場所に」
「何度も出てくる」
半兵衛が。
静かに頷いた。
「十分でございますな」
「追うにはね」
証拠ではない。
犯人を斬る理由にもならない。
だが。
探す理由にはなる。
「源八郎に伝えて」
「何と」
「船じゃない」
「荷主でもない」
「縄を結んだ人間を探してくれって」
半兵衛が。
少し笑った。
「随分と難しい命令を」
「だから源八郎に頼むんだよ」
◆
府内。
源八郎は。
命令を受けた。
「縄を結んだ者を探せ、か」
若い忍びが。
呆れた顔をする。
「船を追った方が早いのでは?」
「船も追ってる」
「では」
「俺たちはこっちだ」
源八郎は。
港を歩いた。
縄を作る者。
荷を運ぶ者。
倉を貸す者。
船へ積む者。
樽を作る者。
荷札を書く者。
源八郎は。
尋問などしない。
酒を飲む。
飯を食う。
荷運びを手伝う。
銭を少し使う。
愚痴を聞く。
そうして。
何日も。
港へ溶け込んだ。
四日目。
魚を焼いていた老人が。
何気なく言った。
「あの縛り方なら、南の倉の連中じゃろ」
源八郎の箸が。
止まりそうになる。
止めない。
「南?」
「ああ」
「南蛮人の荷を扱う?」
「違う違う」
老人が笑う。
「南蛮人の荷も扱うが、奴らは誰の荷でも運ぶ」
「腕がいい?」
「妙に丁寧なんじゃ」
「へえ」
「荷崩れを嫌う」
老人は。
自分の手で縄を結ぶ真似をする。
「最後をこうしてな」
二度。
内側へ巻く。
源八郎は。
酒を一口飲んだ。
「面倒な結び方だ」
「昔の頭がうるさかったらしい」
「昔の頭?」
「死んだよ」
「いつ」
「さあな」
老人は考える。
「五年か」
「六年か」
「そのくらい前だったか」
「今は誰が」
「頭?」
「ああ」
老人は。
何気なく。
名前を言った。
「善右衛門だ」
源八郎は。
その名を。
頭の中だけで。
繰り返した。
善右衛門。
「日本人?」
「当たり前だ」
「南蛮人じゃないのか」
「ははは」
老人が笑った。
「顔を見りゃ分かる」
源八郎も笑う。
「そりゃそうだ」
「ただ」
老人が魚を裏返す。
「変な奴ではある」
「どう変なんだ」
「よく消える」
「消える?」
「ひと月おらんこともある」
「どこへ」
「知らん」
老人が肩をすくめる。
「堺だの」
「平戸だの」
「紀伊だの」
「商いだろ」
源八郎の。
笑みが。
消えそうになった。
だが。
消さない。
「儲かってるんだな」
「さあ」
老人は。
最後に。
もっと小さなことを言った。
「そういや」
「何だ」
「字を書けん」
「善右衛門が?」
「ああ」
「商いをしてるのに?」
「本人はほとんど書かん」
「じゃあ帳面は」
「いつも同じ坊主みたいな男が書いとる」
源八郎の目が。
僅かに。
細くなる。
「坊主?」
「頭を剃っとるわけじゃないぞ」
「じゃあ何で坊主なんだ」
「着物がな」
老人が言った。
「黒いんじゃ」
源八郎は。
何も言わなかった。
黒い衣。
それだけでは。
何の証にもならない。
僧かもしれない。
商人かもしれない。
南蛮寺に関係する者かもしれない。
全く関係ないかもしれない。
だから。
決めつけない。
「その男」
源八郎は。
魚を食べながら尋ねた。
「日本人か」
「いや」
老人が。
あっさり答えた。
「南蛮人じゃ」
源八郎の手が。
止まった。
その夜。
南の倉を見張った。
何も起きない。
二日目。
何もない。
三日目。
荷が入った。
普通の米。
四日目。
絹。
五日目。
油。
「外れですかね」
若い忍びが言う。
「分からん」
「でも」
「普通すぎます」
「だから見る」
六日目。
雨。
夜。
一人の男が来た。
善右衛門。
源八郎は。
初めて顔を見た。
四十前後。
どこにでもいる。
商人にも。
荷役にも見える。
男は倉へ入る。
しばらくして。
もう一人。
黒い衣。
南蛮人。
入る。
「来た」
若い忍びが囁く。
「見るだけだ」
「捕らえませんか」
「何の罪で」
「……」
「まだ何もしてない」
源八郎は。
待った。
一刻。
南蛮人が出る。
善右衛門は出ない。
南蛮人の手には。
何もない。
「追います」
「お前が行け」
「源八郎様は」
「残る」
若い忍びが。
闇へ消える。
源八郎は。
倉を見る。
やがて。
善右衛門が出た。
手に。
小さな箱。
源八郎は。
眉を寄せた。
入る時には。
持っていなかった。
箱を抱え。
歩き始める。
源八郎も。
離れて追った。
善右衛門は。
港へ行かなかった。
町の外へ。
山側へ。
進む。
途中。
一度。
二度。
後ろを見る。
慣れている。
源八郎は距離を取った。
やがて。
小さな寺。
善右衛門は。
そこへ入った。
源八郎は。
外で待つ。
半刻。
善右衛門が出てくる。
箱は。
ない。
源八郎は。
寺を見た。
すぐには入らない。
翌朝。
旅人を装い。
寺へ。
小さな寺だった。
僧も。
普通。
何もない。
だが。
境内の隅。
薪。
源八郎の目が。
止まった。
縄。
薪を束ねているだけの縄。
末端が。
二度。
内側へ巻かれている。
「……」
源八郎は。
しゃがんだ。
偶然。
まだ。
偶然かもしれない。
だが。
もう一つ。
気づく。
土。
荷車の跡。
寺の裏へ続いている。
雨の後。
新しい。
寺にしては。
深すぎる轍。
重い物を。
何度も運んでいる。
源八郎は。
寺を出た。
その日の夜。
裏山へ回った。
道を辿る。
森。
細い道。
そして。
岩場。
そこで。
消える。
「道がない」
若い忍びが言う。
源八郎は。
地面を見る。
「ある」
「どこに」
「足跡」
岩。
苔。
僅かな泥。
人が。
何度も通っている。
岩壁。
その前。
草。
不自然に。
倒れている。
源八郎が。
手を伸ばす。
「触るな」
若い忍びが止まる。
「罠かもしれん」
二人は。
周囲を見る。
時間をかける。
やがて。
岩の脇。
人一人が通れる。
狭い隙間。
その奥。
人工的に。
削られていた。
源八郎は。
息を吐いた。
「見つけた」
だが。
入らない。
「戻るぞ」
若い忍びが驚く。
「中を見ないのですか」
「見たい」
「なら」
「だから入らん」
「……?」
源八郎は。
小さく笑った。
「見たいと思った時が」
「一番危ない」
高槻で。
何度も。
教えられたことだった。
◆
翌日から。
見る者を増やした。
寺。
倉。
山道。
港。
それぞれ別の人間が見る。
互いに。
必要以上のことは知らない。
三日。
四日。
そして。
五日目。
山の隠し道から。
荷が出た。
箱。
三つ。
荷車へ積まれる。
善右衛門。
そして。
黒衣の南蛮人。
さらに。
もう一人。
初めて見る男。
日本人。
年齢は五十前後。
武士ではない。
商人にも見えない。
だが。
善右衛門が。
頭を下げた。
深く。
黒衣の南蛮人も。
その男へ。
頭を下げた。
源八郎の目が。
鋭くなる。
上下が。
逆だった。
これまで。
南蛮人が指示していると思っていた。
違う。
少なくとも。
この場では。
日本人の男が。
上。
男は。
何かを言った。
聞こえない。
だが。
箱の一つを開けた。
中。
銀。
もう一つ。
火薬。
最後。
紙。
大量の書状。
男が一枚を取る。
黒衣の南蛮人へ渡す。
そして。
宗一郎たちが追っている。
あの印。
二本の横棒。
下に円。
押した。
若い忍びが。
息を呑む。
源八郎は。
その肩を。
静かに押さえた。
動くな。
まだだ。
男が。
印を懐へ戻す。
そして。
口にした。
「石山へ届けば」
風。
聞こえた。
「織田は」
続き。
「本願寺を疑う」
源八郎の目が。
細くなる。
やはり。
罠。
「その後は」
善右衛門が尋ねる。
男が答えた。
「京を割る」
「どのように」
「公家は」
「一枚岩ではない」
源八郎は。
呼吸すら。
小さくした。
「婚姻を」
「まだ諦めぬのですか」
男は。
善右衛門を見る。
「婚姻そのものは」
「もう止められぬ」
「では」
「結ばせればよい」
善右衛門が。
意味を理解できず。
顔を上げる。
男は。
笑った。
「結ばれた後に」
「それが国を乱すものだと」
「思わせればよい」
源八郎の背中に。
冷たいものが走った。
冬姫を殺す。
失敗。
帝と信長を割る。
失敗。
なら。
婚姻後。
織田が朝廷を支配している。
そう思わせる。
公家。
寺社。
大名。
民。
不満を持つ者。
恐れる者。
その全てへ。
火をつける。
敵は。
諦めていない。
方法を。
変えただけ。
そして。
もっと重要なこと。
この男は。
命令を知っている。
弥三郎より。
上。
源八郎は。
顔を覚えた。
声。
背丈。
歩き方。
右足を。
僅かに引きずる。
左手。
薬指がない。
そして。
腰。
小さな根付。
鳥。
鷹ではない。
鷺。
源八郎は。
すべてを。
頭へ刻んだ。
その夜。
高槻へ向け。
最優先の報せが走った。
事実。
府内郊外の寺裏に隠し倉と思われる場所。
善右衛門および南蛮人一名が出入り。
十二使徒と同一の印を確認。
石山へ荷を送り、本願寺へ疑いを向ける意図を会話から確認。
冬姫様と帝の婚姻成立後も、朝廷と織田の離間を継続する意図あり。
新たな日本人一名。
善右衛門・南蛮人双方が下位の礼。
特徴。
五十前後。
右足を僅かに引く。
左手薬指なし。
鷺の根付。
名。
不明。
そして。
最後。
源八郎は。
書いた。
――判断。
黒幕本人かは不明。
ただし。
これまで確認した者の中で。
最も上位にいる可能性あり。
捕縛せず。
追跡を続ける。
宗一郎が。
その報告を読んだのは。
数日後だった。
最後まで読み。
もう一度。
最初へ戻る。
「鷺……」
半兵衛が聞く。
「何か」
「いや」
宗一郎は。
紙を見る。
右足。
左手薬指。
鷺の根付。
名前はない。
だが。
人間には。
名前以外にも。
必ず。
足跡がある。
「源八郎は」
「まだ府内に」
「帰すな」
「御意」
「でも」
宗一郎は。
少し考え。
訂正した。
「違う」
「帰すな、じゃない」
「こちらから人を増やすな」
半兵衛が宗一郎を見る。
「何故です」
「今まで見つからなかった相手だ」
「急に人が増えたら」
「向こうも気づく」
「では」
「源八郎に任せる」
宗一郎は。
報告書を置いた。
「捕まえない」
「まだ」
「名前を調べる?」
「それもだけど」
宗一郎は。
地図を見る。
「この男が」
「誰に会いに行くかを見る」
半兵衛の目が。
細くなる。
「さらに上がいると?」
「分からない」
宗一郎は答えた。
「でも」
「ここで捕まえたら」
「この男で終わる」
「泳がせれば」
指が。
府内から。
海へ向かう。
「もっと上へ」
「繋がるかもしれない」
そして。
宗一郎は。
小さく笑った。
「縄一本から」
「随分遠くまで来たな」
半兵衛も。
僅かに笑う。
「源八郎に褒美を出さねばなりませぬな」
「まだ早いよ」
「何故」
「本人なら」
「たぶん言う」
宗一郎は。
源八郎の報告書を叩いた。
「まだ何も分かってないって」
その通りだった。
黒幕は。
まだ見えない。
名前もない。
顔すら。
ようやく一つ。
だが。
足跡は。
見つけた。
それは。
銀でも。
書状でも。
毒でもなかった。
誰も気に留めない。
一本の縄。
その。
小さな結び目だった。
大きな陰謀は。
その日初めて。
高槻の忍びに。
尻尾を掴まれた。




