第百二章 伴天連の焦燥
第百二章 伴天連の焦燥
「玉座そのものを、空けよ」
その一文が。
すべてを変えた。
冬姫を殺そうとした。
それだけでも、すでに越えてはならない線を越えていた。
だが。
帝まで殺すことを想定していたとなれば。
これは、もはや一人の少女を狙った暗殺事件ではない。
織田家への敵対ですらない。
朝廷そのもの。
この国の形そのものへ手を伸ばしている。
宗一郎は、机の上に置かれた書状を見つめていた。
信長。
半兵衛。
光秀。
そして秀吉と官兵衛。
誰も口を開かない。
最初に沈黙を破ったのは、信長だった。
「伴天連か」
宗一郎はすぐには頷かなかった。
「……まだ、そう決めるのは早いです」
「南蛮文字で書かれておる」
「はい」
「南蛮寺と繋がる者が動いておる」
「はい」
「南蛮との交易で得た銀が使われておる」
「それも事実です」
「ならば何故、違うと言う」
「違うとは言ってません」
宗一郎は顔を上げた。
「全部を一緒にするなと言ってるんです」
光秀が宗一郎を見る。
「伴天連の中にも、違いがあると?」
「あるはずです」
宗一郎は言った。
「純粋に教えを広めたい者」
「商いをしたい者」
「この国を知りたい者」
「そして」
一拍。
「宗教を足掛かりに、この国の中へ入り込もうとする者」
官兵衛の目が細くなる。
「宗教を使って、国を取る」
「そういう考えを持つ人間がいる可能性があります」
宗一郎は慎重だった。
未来を知っているからこそ。
雑に決めつけたくない。
歴史は。
そんなに単純ではない。
宣教師が来た。
だから侵略者。
外国人が来た。
だから敵。
そんな話ではない。
だが。
宗教。
交易。
武器。
政治。
それらが結びつけば。
国の中へ深く入り込む力になる。
それもまた。
宗一郎が未来の歴史から知っていることだった。
「問題は」
半兵衛が言った。
「この一派が何を望んでいるか、でございますな」
「うん」
宗一郎は地図を見る。
「そこを弥三郎から聞き出す」
◆
弥三郎は。
京へ移されてからも、口を閉ざしていた。
だが。
黙秘ではない。
質問には答える。
ただし。
肝心なところだけ。
「知らぬ」
「分からぬ」
「聞いていない」
それを繰り返す。
光秀は三日間。
同じ質問を。
順番を変え。
言葉を変え。
何度も聞いた。
そして。
三日目。
「お前」
光秀が言った。
「嘘が下手だな」
弥三郎が笑う。
「今さら何を」
「知らぬことについて尋ねた時と、知っていて隠している時で、答えるまでの間が違う」
弥三郎の笑みが消えた。
光秀は。
拷問しなかった。
怒鳴らなかった。
ただ。
記録した。
何を聞いた。
何と答えた。
どれだけ間を置いた。
目をどこへ向けた。
同じ問いを翌日聞いた時。
答えがどう変わった。
すべて。
「高槻殿のやり方は、面倒だと思っていたが」
光秀が記録を置く。
「悪くない」
「……何の話だ」
「事実と推測を分ける話だ」
弥三郎の前へ。
一枚の紙を置く。
「これは事実」
志摩で押収した帳面。
もう一枚。
「これも事実」
弥三郎が持っていた南蛮文字の書状。
もう一枚。
「これも」
南蛮船から引き渡された男の証言。
そして。
「これは推測だ」
光秀が弥三郎を見る。
「お前の上に、伴天連と繋がる者がいる」
弥三郎は答えない。
「だが」
「伴天連そのものが命じたのか」
「伴天連と結びついた日本人が命じたのか」
「南蛮商人が命じたのか」
「それとも」
光秀の目が鋭くなる。
「海の向こうから命令が来ているのか」
弥三郎の指が。
ほんの僅か。
動いた。
光秀は見逃さなかった。
「そこか」
「……何がだ」
「海の向こう」
弥三郎が黙る。
光秀は。
笑わなかった。
「ようやく一つ進んだ」
◆
その夜。
宗一郎と半兵衛は、弥三郎の記録を読んだ。
「海の向こう」
宗一郎が呟く。
「ですが」
半兵衛が言う。
「命令そのものが海の向こうから来たとは限りませぬ」
「うん」
「弥三郎が、海の向こうとの繋がりを隠したいだけかもしれない」
「その通り」
宗一郎は紙へ書いた。
事実。
弥三郎は南蛮交易に深く関与。
南蛮文字の命令書を所持。
南蛮寺と繋がる日本人協力者あり。
海の向こうという問いに反応。
推測。
国外から指示を受けている可能性。
宗一郎は筆を止めた。
「でも」
「はい」
「もし本当に国外からなら」
半兵衛を見る。
「話が変わる」
「戦になりますか」
「分からない」
宗一郎は即答した。
「むしろ戦にしちゃ駄目だと思う」
「何故です」
「相手が国なのかすら分からないから」
国王の命令。
商人の独断。
宣教師の一派。
現地で暴走した者。
それぞれ。
意味が全く違う。
「相手を間違えたら」
宗一郎は言った。
「向こうの思う壺だ」
半兵衛が微笑む。
「敵を間違えるな」
「うん」
ずっと同じだった。
◆
数日後。
意外な者が。
情報を持ってきた。
伴天連だった。
京に滞在していた宣教師。
名を。
ロレンソと言った。
日本の言葉を話す。
彼は。
自ら光秀へ面会を求めた。
「私どもの者が、冬姫様を害そうとしたと疑われていると聞きました」
光秀は正面から答えた。
「疑っている」
ロレンソの顔が強張る。
「ただし」
光秀は続けた。
「そなたたち全員を、ではない」
ロレンソが僅かに目を見開く。
「何故でございます」
「高槻殿がうるさいのでな」
「……高槻様が?」
「事実と推測を混ぜるなと」
ロレンソは黙った。
「そこで聞く」
光秀が一枚の紙を出す。
例の印。
二本の横棒。
下に小さな円。
「知っているか」
ロレンソの顔が。
変わった。
光秀は。
その瞬間を見た。
「知っているな」
「……はい」
「誰の印だ」
ロレンソは。
すぐに答えなかった。
「答えられぬか」
「違います」
ロレンソが首を振る。
「答えるのが、恐ろしいのです」
「何故」
長い沈黙。
そして。
「私どもの中に」
ロレンソは言った。
「日本への教えの広め方について、異なる考えを持つ者がおります」
「異なる?」
「はい」
「申せ」
「私は」
ロレンソが胸に手を置く。
「信じる者が、自ら教えを受け入れるべきだと思っております」
光秀は黙って聞く。
「ですが」
「力ある者をまず改宗させ」
「その領地の民を従わせ」
「港を得て」
「交易を得て」
「やがて」
言葉が止まる。
「続けよ」
「この国そのものを」
「教えの下へ置くべきだと考える者もおります」
光秀の目が。
細くなる。
「それは」
「布教か」
ロレンソは。
答えられなかった。
光秀が代わりに言う。
「侵略ではないのか」
ロレンソは。
目を伏せた。
◆
宗一郎は。
ロレンソの証言を聞いた時。
すぐには喜ばなかった。
むしろ。
顔をしかめた。
「出来すぎてる」
信長が聞く。
「何がだ」
「向こうから証言者が来ることです」
「罠か」
「可能性はあります」
ロレンソ本人も同席していた。
その言葉を聞いても。
怒らなかった。
「疑われるのは当然でございます」
宗一郎が見る。
「では、なぜ来たんです」
「恐ろしいからです」
「何が」
「この国が」
宗一郎の眉が上がる。
「日本が?」
「違います」
ロレンソが首を振る。
「私どもが、です」
沈黙。
「教えを伝えるために来た者が」
「いつの間にか」
「国を動かすことを考え始める」
「それが」
「恐ろしいのです」
信長が尋ねる。
「何故、今になって焦った」
ロレンソは。
少し迷った。
「この国が」
「変わったからです」
「どう変わった」
「以前は」
ロレンソが言う。
「大名が争っておりました」
「隣国と戦い」
「寺が戦い」
「国人が争い」
「将軍と大名が争う」
「誰か一人へ近づけば」
「その敵へも近づけた」
宗一郎の表情が変わる。
「分裂している方が入りやすかった」
「……はい」
ロレンソは認めた。
「ですが」
今。
信長がいる。
将軍はいなくなった。
帝が動いている。
信長と帝が対立するどころか。
結びつこうとしている。
その間には。
高槻宗一郎がいる。
さらに。
技術。
教育。
医療。
火器。
制度。
情報。
この国は。
史実とは違う方向へ。
急速に変わり始めている。
「我らの中の一部は」
ロレンソが続けた。
「時間がなくなっていると考えました」
「時間?」
「この国が一つになれば」
「外から入り込む余地がなくなる」
宗一郎の目が細くなる。
「だから」
信長が言った。
「儂と主上を割ろうとした」
「おそらく」
「冬を殺して」
「はい」
「儂に朝廷を疑わせ」
「主上には儂を疑わせる」
「……はい」
「それでも駄目なら」
信長が。
例の書状を持ち上げた。
「主上を殺す」
ロレンソは。
何も言えなかった。
信長は。
静かに笑った。
「随分と」
「舐められたものだな」
◆
だが。
ここで。
官兵衛が口を開いた。
「一つ、よろしいでしょうか」
信長が見る。
「申せ」
官兵衛はロレンソを見る。
「あなた方の一派が日本を支配したいとして」
「何故、冬姫様なのでしょう」
「信長様を殺す方が早い」
部屋が静まる。
秀吉が官兵衛を見る。
「おい」
「必要な問いにございます」
官兵衛は続ける。
「高槻殿でもよい」
「帝でもよい」
「何故、最初に冬姫様なのです」
宗一郎も。
ロレンソを見る。
確かに。
おかしい。
ロレンソは。
答えなかった。
「知らない?」
宗一郎が聞く。
「……分かりません」
その答え。
宗一郎は。
少し考えた。
そして。
「たぶん」
「目的が暗殺じゃなかったからだ」
全員が宗一郎を見る。
「どういうことだ」
信長が聞く。
「冬姫様を殺すこと自体が目的なら」
宗一郎は言った。
「もっと方法があった」
「でも」
「鷹司家に人を潜り込ませ」
「毒を使った」
「そして」
「成功した後に」
「誰が疑われるかまで考えていた」
半兵衛が理解する。
「信長様と主上を割ることこそ、本当の目的」
「そう」
宗一郎は頷く。
「だから信長様を殺しちゃ駄目だった」
「帝も最初は殺しちゃ駄目だった」
「二人には」
「生きたまま」
「争ってもらう必要があった」
信長の目から。
完全に笑みが消えた。
「儂を」
「踊らせるつもりだったのか」
「そういうことになります」
信長は。
怒鳴らなかった。
ただ。
「なるほど」
と言った。
その声を聞いて。
秀吉が。
そっと視線を逸らした。
信長が。
本当に怒った時の声だった。
◆
禁裏。
帝は。
ロレンソの証言を読んだ。
そして。
宗一郎とは。
少し違うところで。
手を止めた。
「この国が一つになれば」
「入り込む余地がなくなる」
老人が控えている。
「陛下」
「皮肉だな」
「何がでございましょう」
帝は。
遠い未来を思った。
自分が知っている日本。
信長が死ぬ。
秀吉。
家康。
幕府。
そして。
鎖国。
だが。
この世界では。
そこへ進んでいない。
「閉じれば」
帝が呟く。
「守れると思う者も出るだろう」
「……」
「だが」
帝は首を振った。
「それでは駄目だ」
老人が顔を上げる。
「南蛮人を追い出されますか」
「否」
即答だった。
「追い出さぬ」
「しかし」
「商人も」
「宣教師も」
「学者も」
「船乗りも」
「この国へ来ればよい」
「ただし」
帝の目が。
鋭くなる。
「法に従わせる」
「御意」
「信じることも自由」
「教えを説くことも」
「それだけならば」
「朕は禁じぬ」
そして。
「だが」
「宗教を使い」
「人を従わせ」
「領地を奪い」
「国の政へ手を入れ」
「帝を殺そうとするなら」
帝の声が。
冷たくなる。
「それは信仰ではない」
「侵略だ」
老人が深く頭を下げる。
「仰せの通りに」
「伴天連を一括りにするな」
「御意」
「関わった者だけを出せ」
「拒んだ場合は」
帝は。
少しも迷わなかった。
「この国から出す」
「抵抗した場合は」
「捕らえよ」
「武器を取った場合は」
帝は。
老人を見る。
「それを朕に聞く必要があるか」
「……ございません」
「ただし」
帝は続けた。
「南蛮寺を焼くな」
「無関係な信徒へ手を出すな」
「異国人だからという理由で捕らえるな」
「今回の件に関わった者だけだ」
「御意」
帝は。
書状を置いた。
「そして」
「ロレンソを守れ」
老人が僅かに驚いた。
「守るのでございますか」
「ああ」
「彼は自ら来た」
「ならば」
「次に狙われるのは」
「裏切った者だ」
老人の目が変わった。
「すぐに」
「行け」
老人が消えた。
帝は。
一人。
呟いた。
「宗教で国を取る、か」
そして。
「ならば」
「この国には」
「宗教では奪えぬ仕組みを作る」
◆
その夜。
京の南蛮寺。
ロレンソは。
祈っていた。
自分が正しかったのか。
分からない。
仲間を売った。
そう言われれば。
否定できない。
だが。
少女を毒で殺す。
帝を殺す。
それが。
神のためだとは。
どうしても思えなかった。
祈りを終え。
立ち上がる。
その時。
「ロレンソ殿」
後ろから。
声。
振り返る。
日本人。
知っている顔。
「あなたは……」
男が笑う。
「余計なことを話されましたな」
ロレンソの顔が強張る。
「誰から」
「何のことでしょう」
「私が話したことを」
「誰から聞いた」
男の笑みが。
消える。
「それを知る必要はない」
懐。
手が入る。
短刀。
抜かれる。
だが。
次の瞬間。
男の腕が。
止まった。
「な――」
後ろ。
いつの間にか。
一人。
老人。
ロレンソは知らない。
帝の影。
「陛下の読み通りか」
老人が呟く。
男の顔が変わる。
「何者だ!」
「それを」
老人は答えない。
「こちらが聞く」
腕を捻る。
短刀が落ちる。
さらに。
二人。
入口を塞ぐ。
逃げられない。
「離せ!」
「誰の命だ」
「知らぬ!」
「そうか」
老人は。
男の懐を探った。
一枚。
紙。
そして。
小さな印。
二本の横棒。
下に円。
同じ印。
ロレンソが。
息を呑んだ。
「それは……」
老人が見る。
「知っているか」
「はい」
「誰のものだ」
ロレンソは。
震えた。
「申せ」
「……それは」
そして。
ついに。
口にした。
「日本管区の者が使う印ではありません」
老人の目が細くなる。
「では」
「誰だ」
「正式な印でもありません」
「一部の者が」
「互いを確かめるために」
「使っております」
「名は」
ロレンソは。
目を閉じた。
そして。
「我らは」
「彼らを」
言った。
「十二使徒」
「そう呼んでおります」
老人は。
黙った。
「十二人か」
「分かりません」
「では何故十二使徒だ」
「自ら」
「そう名乗っているのです」
「目的は」
ロレンソは。
捕らえられた男を見る。
そして。
答えた。
「日の本を」
「東方における」
「神の国とすること」
「そのためなら」
「大名を動かし」
「港を押さえ」
「商いを握り」
「必要なら」
声が。
震える。
「国の主すら」
「替える」
老人の顔から。
表情が消えた。
「国の主」
「帝もか」
ロレンソは。
答えなかった。
それが。
答えだった。
◆
翌朝。
禁裏。
報告を受けた帝は。
長く。
黙っていた。
「十二使徒」
「はい」
「実在は」
「ロレンソの証言のみではございますが、捕らえた者が同じ印を所持しております」
「弥三郎との繋がりは」
「これより照合いたします」
「よい」
帝は。
即断しなかった。
「まだ敵と決めるな」
老人が驚く。
「しかし」
「名が出ただけだ」
「証を取れ」
「御意」
「十二使徒とやらが本当にあるのか」
「誰が属しているのか」
「誰が冬を殺せと命じたのか」
「誰が朕を殺せと命じたのか」
「一つずつ」
「確かめよ」
「御意」
帝は。
そして。
もう一つ命じた。
「宗一郎を呼べ」
「高槻様を?」
「ああ」
「それと」
一瞬。
帝が考える。
「信長もだ」
老人が顔を上げる。
「御二方を同時に」
「ああ」
帝の目が。
鋭くなる。
「これはもう」
「冬だけの話ではない」
「織田だけでも」
「朝廷だけでもない」
そして。
「この国へ」
「外から」
「どこまで手を入れさせるのか」
「決める時が来た」
老人が頭を下げる。
「御意」
帝は。
庭を見る。
追い出すだけなら。
簡単だった。
港を閉じる。
宣教師を追放する。
南蛮船を拒む。
それで。
一時は守れる。
だが。
帝は。
その先の歴史を知っている。
閉ざされた国が。
いつか。
さらに強大になった外の世界と向き合わなければならないことを。
だから。
閉じない。
逃げない。
しかし。
好きにもさせない。
受け入れる。
学ぶ。
商う。
そして。
守る。
そのためには。
海がいる。
法がいる。
情報がいる。
国を一つに動かす仕組みがいる。
奇しくも。
敵が。
帝が次に作らなければならないものを。
教えていた。
武士を束ねる仕組み。
海を守る仕組み。
外国と交わる仕組み。
そして。
宗教と政治の境を定める仕組み。
帝は。
静かに呟いた。
「信長」
「宗一郎」
「どうやら」
「次に作るものが」
「決まったようだな」
冬姫を狙った一本の毒針。
それは。
帝と信長を割るどころか。
逆に。
二人を。
さらに強く結びつけた。
そして今。
高槻宗一郎まで含めた三人が。
初めて。
海の向こうを見ようとしていた。
十二使徒。
その名が。
日本の歴史に姿を現した。
だが。
彼らが想定していた日本と。
今ここにある日本は。
もう。
同じ国ではなかった。




