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第九章 本圀寺

第九章 本圀寺


翌年。


京に、再び戦の気配が走った。


戦国の京では、平穏という言葉そのものが、ひどく頼りない。


昨日まで商人が行き交っていた道を、今日は武者が駆ける。


寺の鐘が鳴り、町人が戸を閉め、女たちが子を抱いて物陰へ身を隠す。


そして夜になれば、誰かが誰かを襲う。


それが、この時代の京だった。


その夜。


本圀寺の周辺に、異様なざわめきが広がった。


「敵襲!」


叫び声が闇を裂いた。


続いて、


「三好だ!」


「門を守れ!」


怒号が重なった。


足利義昭の御所を、三好三人衆が襲撃したのである。


戦は、瞬く間に始まった。


松明が揺れ、弓が放たれ、鉄砲の音が夜空を震わせる。


宗一郎は眠りから叩き起こされると、鎧を身につける暇も惜しんで駆け出した。


「宗一郎様!」


後ろから半兵衛が追いつく。


「状況は?」


「三好三人衆の軍勢が本圀寺へ押し寄せています。義昭様を狙っているものと思われます」


「信長様は?」


「知らせは既に飛んでおります」


宗一郎は唇を結んだ。


この時代の京は、まだ織田家の完全な支配下にはない。


だが、足利義昭を擁して上洛した信長にとって、ここで義昭を失うことは許されない。


幕府を立て直す。


京を押さえる。


そして、その先へ進む。


そのための最初の足場だった。


「急ぐぞ」


二人は本圀寺へ向かった。


だが、門前に着いた時には、すでに戦闘が激しくなっていた。


敵兵が押し寄せる。


それを守兵が必死に押し返す。


矢が飛び交い、刀がぶつかり合う。


その中で――


宗一郎の目が、一人の男に止まった。


「……あれが明智か」


半兵衛が宗一郎の視線を追った。


「はい」


一人の武士がいた。


明智光秀。


派手な動きをしているわけではない。


むしろ静かだった。


弓を手にし、敵兵の動きを見極め、一矢ずつ放っている。


一射。


敵が倒れる。


次の矢を取る。


周囲を確認する。


また放つ。


無駄がない。


だが宗一郎が目を奪われたのは、弓の腕だけではなかった。


光秀は敵だけを見ていなかった。


味方の位置。


門の状態。


敵の進路。


負傷者の位置。


退路。


そして、守るべき場所。


それら全てを同時に見ている。


「……」


宗一郎は黙って光秀を見つめた。


光秀は一歩下がった。


味方が押されている。


だが、慌てない。


敵がさらに前へ出る。


そこで矢を放つ。


敵が怯む。


その瞬間、別の兵が横から斬り込む。


まるで最初から、その動きを読んでいたかのようだった。


「強いですな」


半兵衛が呟いた。


「武だけではない」


宗一郎は答えた。


「周囲を見ている」


「はい」


「戦場全体を見ている」


宗一郎は光秀から目を離さなかった。


「敵がどこにいるかだけではない。味方がどこにいて、どこが崩れれば危険なのか。どこを守れば全体が持ちこたえるのか……」


半兵衛が小さく息を吐いた。


「なるほど」


「それだけではない」


「まだ?」


「あの男は、戦の後まで見ている」


宗一郎は静かに言った。


「今ここで敵を倒すことより、戦が終わった後に京をどうするか。それまで考えている目だ」


半兵衛は光秀を見た。


「……それが分かりますか」


「何となくだ」


宗一郎は苦笑した。


「俺にも説明はできん」


だが、胸の奥に引っかかるものがあった。


――やはり危険だ。


宗一郎はそう思った。


明智光秀。


後の歴史を知る宗一郎にとって、その名はあまりにも重い。


本能寺。


織田信長。


そして――


光秀。


未来を知る宗一郎にとって、この男を見過ごすことはできなかった。


しかし。


同時に、別の思いも湧いた。


「……だが」


「はい?」


「信長様が、この男を欲しがる理由も分かる」


半兵衛が宗一郎を見る。


「欲しがる、と?」


「信長様は、ただ強い武士を集めているわけではない」


宗一郎は戦場を見渡した。


柴田勝家のような猛将。


丹羽長秀のような堅実な武将。


滝川一益のような機略に長けた男。


そして自分のように、これまでの常識にないものを持ち込む者。


信長は、人を使う。


その者が何を持っているのかを見抜き、それぞれを適所に置く。


「光秀は、戦だけの男ではない」


宗一郎は呟いた。


「京を知り、古い権威を知り、そして人の心の動きを読む」


その言葉には、わずかな警戒が混じっていた。


光秀は、古きものを軽んじる男ではない。


むしろ逆だ。


朝廷。


帝。


古くから続く秩序。


その重みを理解している。


それは信長とは異なる価値観だった。


だからこそ――


宗一郎には怖かった。


信長が新しい世を作ろうとする男ならば。


光秀は、古い世の意味を知る男だった。


「半兵衛」


「はい」


「覚えておけ」


「何を?」


宗一郎は一度だけ光秀を見た。


「明智光秀という男を」


その夜。


本圀寺は、辛うじて守られた。


だが宗一郎は知っていた。


これは始まりに過ぎない。


京という巨大な舞台で、織田家と幕府、朝廷、そして古くからの権威が交わり始めた。


そしてその中心に――


一人の男が立っていた。


明智光秀。


まだ、織田家臣ではない。


しかし。


歴史の歯車は、確かに動き始めていた。


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