第三十九話 サンゴの森の奥へ
海底に降りてから、数日が経った。
目に見えるのは、木ではなくサンゴの森だ。
それは、奥に進むほど背丈が増していき、今では普通の森のように、アーシュの背丈すら超える大きなサンゴが生い茂っている。
鳥の代わりに魚が宙を舞い、シカやイノシシの代わりに大きなカニやエビが飛び出してくる。
当然、魔物も現れるのだが、それは出てきた側からアーシュとヴィラによって倒されていた。
その間、ヒマリは何もしていないわけではなかった。
手のひらの中に、圧縮した風属性のマナを握り込み、隙があれば魔物に飛ばしていた。
これは、森の階層でアーシュから教えられ、それからずっと練習を続けていた魔法で、ヒマリは「風のボール」と名付けていた。
一応は、自衛のために教えた「風のボール」だったが、思った以上にヒマリに馴染み、小型の魔物であれば、ヒマリが倒してしまうこともあった。
何度か小型の魔物を倒した後、
『はは、ヒマリも頼れるようになってきたな!』
と、ヴィラに褒められ、照れくさそうに笑っていた。
夜になると、サンゴの森のあいだに結界玉を置いて家を出した。
色とりどりのサンゴに囲まれて、月光色の結界の中にぽつんと立つ森の家は、何度見ても奇妙な景色だとアーシュは思っていた。
しかし、ヒマリとヴィラからすれば、そうでもなかったらしい。
「やっぱり、おうちは、どこにでも、おさまるね」
「サンゴと、丸太の家ってよ、意外と相性いいかもな」
「……そうか」
ヒマリは、もうすっかり奇妙な海底の景色に順応していた。空を舞う魚に手を振ったり、海中に咲く花や、木の実のようなものを嬉しそうに採取したりと、これまでと変わらずにダンジョンを満喫している。
そうして、楽しみながらダンジョンを進む、ある日の昼前のことだった。
歩いていたヒマリが、ふと、立ち止まった。
「アーシュ」
「どうした」
「なにか……風みたいのが流れてる感じする」
ヒマリが手のひらを自分の周りでゆっくりと動かした。それは何かを探るような仕草だった。
「ああ、マナの流れを感じたのか」
アーシュはわずかに目を細めた。
風と水を扱う訓練を続けたことで、見えない流れを拾う感覚が育っているのだろう。エアコン魔法も空気の流れを意識する魔法だ。それを毎日使っていれば、自然と周囲のマナの流れにも敏感になる。
「いい傾向だ。その感覚は忘れるな」
「うん!」
ヒマリが嬉しそうに、また目を閉じた。
「アーシュ、こっちの方向に、なにかがある気がするよ」
「揺らぎの方向と、合っている。お前の感覚は確かなようだ」
ヴィラが後ろから感心したような声を上げた。
「お前、もう、俺より探索うまくなったんじゃね?」
「えへへ……そうかなあ?」
そして――
別の日、ヒマリがまた、足を止めた。
今度はサンゴの森の足元。色とりどりのサンゴのあいだに、ぽつんと、白くて綺麗な巻き貝が落ちていた。
ヒマリほどの大きさがあるその巻貝は、表面に淡い虹色の光沢があり、宝石のように美しかった。
「わあ、きれい……」
ヒマリは近づきかけたが、何かに気づいた顔をして足を止めた。
「アーシュ、これもダメなやつ?」
「……む」
アーシュは目を細めて貝をじっと見つめた。
貝の表面がわずかに上下していた。
(強い水属性のマナを感じる……魔物か)
「あれは恐らく魔物だ。近づかないほうがいい」
「やっぱり……なんかね、嫌な感じが少しするんだ」
「試してみるか」
アーシュは足元の小石を一つ拾って、貝の方に軽く投げた。
小石が貝の手前に転がったその瞬間――
巻貝なのにぱっくりと縦に開き、左右に殻が分かれた。
その内側にぎっしりと並んでいるのは白い牙。
貝の中身が、ぐにゅりと伸び、アーシュが投げた小石を絡め取って戻っていった。
何事もなかったかのように巻貝は殻を閉じ、内側から籠もった鈍い音が聞こえてきた。
「ひゃ……」
ヒマリが半歩下がった。
「おおぉ……ありゃやべえな。よく気づいたな、アーシュ」
「マナの気配が強かったからな」
アーシュは振り返ってヒマリを見た。
「それに、ヒマリも何かを感じていたようだった」
ヒマリは両手の指を合わせ、照れたように答えた。
「なんかね、マナの感じがね、もにょもにょって」
「その感覚は大事にしたほうがいい」
「うん、忘れないよ……絶対に、忘れない」
ヒマリは横目で貝を見つめながら、ぎゅっと拳を握っていた。
*
それから、また数日が経過した。
ヒマリが、今度は頭上を見上げてぴたりと止まった。
「あ……」
アーシュとヴィラもつられて顔を上げた。
「む……」
「うおっ」
遥か上、海で言えば海面に近いあたりを、何かがゆっくりと泳いでいた。
目を凝らしてみると、薄い翼のようなものを広げたエイのような形をしていた。
けれど、ゆっくりと下降を始めたそれがこちらに近づき、その距離が縮まるにつれて、その大きさが分かるようになっていった。
かなり大きかった。森の家を、二軒、三軒並べたくらいの大きさだった。
「おいおいおい、なんだありゃ……でかすぎんだろ」
ヴィラが声を低めた。
エイのようななにかがゆっくりと近づいてきた。
ルートからして、三人の真上を横切ろうとしているようだった。
「動くな。こちらから刺激するな」
アーシュが低く言った。
三人は立ち止まった。
影が三人の真上で、ふっと動きを止めた。
青白い空の中に、薄い羽を広げた巨大な影が止まったまま、こちらを見下ろしていた。
いや、見下ろしているのか定かではなかった。
ただ、こちらを意識している気配だけは、はっきりと感じられた。
海面から差し込んだ光がヒレを透過し、キラキラと白く輝いている。
「……こわい」
ヒマリがぽつりと言った。
「けど、きれいだな……」
影はしばらく頭上で止まっていた。
それから少しして、ゆっくりとまた動き出した。薄い羽がふわりと一度揺れて、そのままサンゴの森の向こう側へと、すうっと滑るように泳ぎ去っていった。
しばらく誰も口を開かなかった。
「あれ、なんだったんだろうな」
「分からん……が、危険性は低そうだった」
「ああ、こっちから手を出さねー限り、なんもしなそうだったな」
ヒマリはまだ頭上を見上げていた。
*
その日の午後、サンゴの森を抜けた。
森の向こう側は、背の低い海藻が茂る草原で、一気に視界が広がって遠くまで見えた。
「アーシュ、向こうになにか見えるよ」
「ああ。行ってみよう」
ゆっくりと三人で向かった先には、大きな建造物が青白く光って立っていた。
石造りの神殿だった。造りそのものはジャングルで見た神殿に似ていた。けれど、こちらの壁には、蔓ではなく薄いサンゴのような模様が這っている。柱の隙間には青白い光が流れ、貝殻を思わせる装飾が入口を縁取っていた。
「あれ……神殿、だね」
「ああ」
「やっと、たどりついた……」
ヒマリの目に強い光が戻っていた。
ヴィラが伸びをした。
「くあぁあ……やっと、ここまで来たな」
「ああ」
「ふう……長かったぜ、海の階層がよお……」
ヴィラがぼやいて、ヒマリがクスクスと笑う。
それを横目にアーシュは神殿を観察していた。
奥から感じられるマナの濃さが、ジャングル神殿の比ではなかった。これまでで最も濃密な気配が、神殿の奥から漂っている。
次の試練がこの奥で待っている。
その先に待つのはゴールなのか、それとも次の階層なのか。
まだ、それはわからないが、少なくとも今すぐ挑むべきではないと思った。
「今日は、ここに家を出してゆっくりと休もう。神殿には明日、踏み込む」
「うん!」
「賛成だ。さすがに今日はもう、謎解きとかやんのしんどいぜ」
ヒマリが結界玉を地面に置いた。
月光色の光がサンゴの森の手前でふわりと広がっていく。
結界の光の中で、青白く輝く神殿が明日の問いを静かに待っていた。




