第三十八話 海底の空
ヴィラがおそるおそるボートの縁から片足を下ろした。
砂を踏みしめる感触があった。何のおかしなところもない。
「……うん、ふつうの砂だな」
ヒマリも続いてボートから降りた。
「砂浜にいるみたい、だね」
最後にアーシュが下り、足元を何度か踏みしめる。
「水分を、含んでいる様子はない……な」
白い砂の上に三人が立っている。ここは海底と言うべきなのだろうか。ぐるりと辺りを見渡しても、それ以外に呼びようがなかった。
アーシュは自分の手のひらを軽く握って開いた。指先がわずかに湿っているような気がした。けれど、濡れているわけではない。空気そのものが海水の感触を真似ているような奇妙な手触りだった。
声を出してみる。喉から漏れた音はいつもの通りまっすぐに耳に届いた。水の中なら音は鈍るはずだった。
(水中ではないな。だが、周りの環境が水中として振る舞う場所、か)
顔を上げ、水面方向を見たアーシュは思わず息を飲んだ。
頭上を色とりどりの魚達が群れをなして泳いでいた。
黄色い小魚の群れ、銀色の細長い魚、それから、ひらひらと薄い羽のような鰭を広げた、見たことのない種類の魚。それらが頭上をゆったりと流れるように泳いでいた。
空はあった。けれど、その空は淡く青く、どこか水の底のような色をしていた。日の光に似た光が上から差し込んでいる。
足元には白い砂。
その先に、サンゴが群生している。鮮やかな赤、淡いピンク、黄色、紫。色とりどりのサンゴが、人の背丈ほどの森を作っていた。
風はない。それなのに、海藻がゆらゆらと揺れている。誰かが見えない潮の流れを足元に流しているようだった。
「……きれい」
ヒマリがぽつりと言った。
「けど、お空なのか、海なのかわかんないね……」
「ああ」
「うみのそこ、なのに、あるけるの、不思議……」
ヒマリはぐるりと辺りを見回していた。目が星のように輝いている。
その隣でヴィラがぐっと腕を組んだ。
「きれいだけどよ……俺は落ち着かねえ」
「どうして?」
「だってよ、頭の上に魚がいんだぞ? 水ん中じゃねえなら、なんで魚が泳いでんだよ!」
「……ダンジョンだから、だろう」
「うっせえぞ、アーシュ! んなこたわかってんだよ!」
ヴィラが頭を抱え、ヒマリがクスクスと笑った。
アーシュはわずかに口の端を緩めた。
「あ、そうだアーシュ」
「どうした」
「これ、ボート。どうしよう?」
ヒマリが後ろを振り返って、白い砂の上に置かれたボートを見ていた。
「お前はどうしたい」
しばらく考えるような顔をしていた。それから、ぽつりと言った。
「もっていきたい、かな……ううん、もっていきたい。もしかしたら、また、つかうかもしれないし」
「ほう」
「海のところに、もどることがあるかもしれないし。あと、なんかのときに、あったら便利かも」
ヒマリが自分なりの理由を口にした。
「そうだな、もっていこう」
「うん、しまっておくね」
ヒマリがボートに両手をかざした。ぽん、と、ボートが空気に溶けるように消えた。
アーシュは、その様子を見ていた。
以前のヒマリなら、気になることがあっても促されるまで黙っていた。
それが、今は自分から口を開き、意見を周りに伝えられるようになっていた。
ふと、横を見ると、ヴィラが満足げに頷いていた。
*
海底を歩きはじめて一時間ほどが経ったところで、ヒマリがふと立ち止まり、目を細めた。
サンゴの森のすぐ近くに、半透明で、青白く光るものがふわふわと漂っていた。
アーシュがすっぽりと収まるくらい大きな傘から、長い触手のようなものがいくつも垂れ下がっている。
傘や触手から放たれた青白い光が辺りを照らし、そこに小魚の群れが集って幻想的な景観を作り出していた。
「わあ……きれい。ねえ、アーシュ。あれクラゲだよね?」
「だろうな。だが、ただのクラゲでは、なさそうだ」
「うん、前に見たのより、だいぶ大きいもん」
「ああ」
「……近くで見ても、だいじょうぶかな?」
ヒマリが慎重な顔で聞いてきた。
アーシュは即座に首を振った。
「やめておけ」
「あぶない?」
「ああ。マナの気配がよくない。あれは魔物だ」
ヒマリは口を尖らせかけて、けれどすぐに頷いた。
「わかった」
その瞬間――
クラゲの触手が、ふわりと伸びた。
空気をするりと撫でるような動き。
触手の先から、青白い細い光がぴりりと走った。
アーシュが素早くヒマリの手を引き、後ろに下がった。
青白い光が砂の上に突き刺さり、ぱちりと音を立てて弾けた。
それは、アーシュに手を引かれるまでヒマリが立っていた場所だった。
「ひっ」
ヒマリが驚いて半歩下がった。
「近づかなくて大正解だったな!」
ヴィラが剣の柄に手をやった。
アーシュはすでに指先に風の刃を作っていた。
ひゅん、と空気を切る音がして、クラゲがふわりと二つに分かれた。
周囲を照らしていた青白い光が消え、小魚たちが周囲に散った。
体液のようなものがわずかに空中に漂っていたが、それもふっと空気に溶けて消えていった。
「この階層は、見た目に騙されると危険だ」
「うん……そうだね」
ヒマリがぎゅっとアーシュの裾を握った。
ヴィラが肩をすくめた。
「綺麗だからって油断できねえ場所ってことだな」
「ああ」
「だから言ったろ、海の底はこえーとこだって」
ヴィラが口をへの字に曲げて言った。
*
クラゲを討伐した場所から少し歩いたところでヴィラの腹が唸り声を上げた。アーシュは呆れ顔を浮かべたが、どうやらそろそろ昼が近そうだった。
「周囲に妙な気配もない。ここで少し休んでいこう」
「やったぜ!」
アーシュが作り置きしていたサンドイッチをヒマリが取り出し、配っていく。
「水中でパンを出したら、びちゃびちゃになりそうなもんだが……平気なんだな」
「水の中みたいなのに、水の中じゃないって、変だよね」
「ああ、変だ。だから俺は、いまいち気に入らねえ」
しかめっつらをしたヴィラがサンドイッチをがぶりとかじり、うめえと騒いでいる。
その様子を横目に、アーシュは辺りにマナを薄く広げていった。
次の階層への揺らぎはまだまだ先のようだった。サンゴの森のもっと向こう、まだ視認できないほど遠くからその気配が感じられた。
アーシュは、サンゴの森の奥を、見据えた。
海底のようで、海底ではない。
空のようで、空ではない。
「そろそろ、いくか」
「うん!」
「おうよ」
休憩を終えた三人は、魚が泳ぐ空の下を歩き出した。




