第三十七話 渦に呑まれて
一夜明けて。ダンジョンの空は、今日も青々と綺麗に晴れ渡っていた。
ダンジョンの外にいると錯覚するほどに、本物としか思えない空が頭上に広がっている。
ただし、どの階層も天候だけは晴天に固定されていて、雨が降ったり、嵐が来たりと、荒れることはまったくなかった。
けれど、どうやら海はそうではないようだ。
小島の浜辺から見える海面は、昨日よりも一段深い紺色に変わっていて、寄せては返す波のリズムが、どこか不安定に揺れていた。
「うへぇ、なんだか海全体が呼吸してるみてえだな」
ヴィラが顔色を悪くしてぼやいた。
ヒマリは桟橋に立ったまま海をじっと見ていた。それから、深呼吸を一つして目を閉じて、耳の奥にマナを集め始めた。
いつもの船に乗る前の準備。けれど、今日のその仕草にはいつもより少し時間がかかっていた。
「アーシュ」
「何だ」
「今日、揺らぎに、はいるんだよね」
「ああ、準備は出来ているか」
「うん……大丈夫」
ヒマリが目を開けて、こくりと頷いた。
その横顔が、わずかに緊張していた。
*
三人がボートに乗り込むと、ヴィラがオールを取って漕ぎ始めた。
ボートが水面を滑りはじめてすぐに、ヴィラが「お?」と声を漏らした。
「なんだこれ。ボートが……言うこと聞かねえぞ」
「む……流されてるのか?」
「ああ、それだそれ! 方向はあってんだけどよ、俺が漕がなくても進みやがる」
アーシュは海面を見た。
ヴィラは既に漕ぐのをやめている。それなのに、ボートは前に前にと勝手に進み、時折妙な動きでその向きを変えている。
「……どうやら揺らぎへ向けて、ゆっくり引かれているようだ」
「お? じゃあ別に怖がるこたねえのか。楽ができてたすかるねえ!」
「いや、このままだと速度が上がりすぎる。逆方向に軽く漕いでくれ」
「ちっ、しょうがねえな」
ヴィラが、ぎこちなくオールを動かした。
ヒマリはボートの真ん中で、座席の縁に手を置いて海を見ていた。
しばらく進んだ頃、ヒマリがぽつりと言った。
「あれ……なにか見えるよ?」
遠くの海面に、何か模様のようなものが見えた。
最初は、ただの光の反射かと思った。けれど、目を凝らすと、そこにゆっくりとした円が浮かんでいた。海面に淡い光を放つ白い線が描かれている。それがゆっくりと回っていた。
「ヴィラ、見えるか」
「……ああ、見える。あれ、何だ」
「マナの発光現象だ。おそらく揺らぎの中心に繋がっているのだろうな……」
「つうかよ、あれ、なんで回ってんだ?」
「記憶に何か、引っかかっているが……思い出せん……」
「嫌な予感がする……早く思い出してくれ!」
ボートが、その円の方へと、引かれていく。
徐々に速度が上がっていく。
もう、オールで逆らえる引力ではなくなっていた。
近づくにつれて円は大きくなった。
最初はただの線にしか見えなかったが、近づいてみると、中心に向かって、海面が徐々にへこんでいっているのが分かった。
すり鉢の縁にボートが乗っているような感じで、その中心は深く沈み込んでいた。
「な、なあこれやばくねえか?」
「ああ……思い出した。渦潮だ。近づきすぎると、海中に飲み込まれるぞ」
「言ってる場合かよ! なあ、アーシュ! これ、引き返せねえのか!」
「無理だ。これはただの自然現象ではないからな」
「なんでそんな落ち着いてんだ!」
「……どうやら、これがこの階層の転移装置のようだからな」
ヴィラが顔をひきつらせた。
「ま、まじかよ……! 海の中に、転移装置を作るやつがあるか!」
「あるから、こうなっている……」
アーシュがヒマリの方を見た。
ヒマリは座席に座ったまま目を見開いていた。
「アーシュ、これ……っ」
「ヒマリ、俺から離れるな」
「う、うん……っ」
ヒマリがアーシュの外套を、ぎゅっと両手で掴んだ。指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
ボートがすり鉢の斜面に乗った。傾きが急に増した。
「ヴィラ!」
「分かってる! ヒマリ! 俺達の間に入れ!」
「う、うん!」
ヴィラがオールから手を離してヒマリの反対側に身を寄せ、アーシュと二人でヒマリを挟み込んだ。
ボートがぐるりと回り始めた。
円の縁を滑り落ちていく。一周、二周と、回るたびにボートがすり鉢の底へと近づいていく。
ヒマリが息を止めていた。
「ヒマリ、大丈夫だ。俺を信じて、目をつぶってじっとしていろ」
「……っ、うん!」
ヒマリがぎゅっと目を閉じた。
ボートがすり鉢の底に達した。
その瞬間――
海が消えた。
音が消えた。
風が消えた。
ボートを揺らしていた波の感触も消えていた。
代わりに体がゆっくりと落ちていくのが分かった。
水の中に呑まれたはずだった。けれど、水の中に入った感覚がまったくしなかった。
ただ、暗い場所を、ボートごとゆっくりと落ちていた。
(今……膜を、抜けた)
アーシュはそれを感じ取った。
ボートがゆっくりと減速していった。
そして、軽い衝撃と共にボートが止まった。
砂の上に着いた感触だった。
しばらく誰も動かなかった。
ヒマリはまだ目を開けていなかった。アーシュとヴィラに挟まれたまま、二人の腕の中で、ぎゅっと、外套を握っていた。
「……ヒマリ」
「……っ」
「もう、止まった。目を開けてみろ」
「……ほんと?」
「ああ」
ヒマリがおそるおそる目を開けた。
それから、自分の手をぎゅっぎゅと、開いたり閉じたりした。そして、辺りを見渡して、驚いたかのように目を丸くした。
「えっ!?」
「どうした」
「ここ、海の中?」
「そのようだ」
ヒマリが、自分の喉に、そっと手を当てた。それから、ゆっくりと息を吸って吐いた。
「……できる、よ。アーシュ、いき、できる」
ヒマリの目に、戸惑いが浮かんでいた。
「だよなあ、俺がおかしくなったんじゃねえよな?」
「海の底ではあるのだろう。だが、呼吸ができるし、こうして話すこともできる」
「意味わかんねえぞ……」
「ダンジョンだから……だろうな」
「それを言われちゃかなわねえな」
ヴィラがカラカラと笑い、興味深そうに辺りを見渡した。
ヒマリも気持ちが落ち着いたのか、ゆっくりとボートの縁から身を起こしてきょろきょろと周囲を見ている。
目に映るのは、ユラユラと揺れる海藻に、色とりどりの珊瑚。
そして、顔を上げたヒマリが「わあ」と、小さく声を上げた。
空を飛ぶ鳥のように、黄色い魚達が頭上をひらひらと泳いでいた。




