第三十六話 波間の小さな足跡
あれから数日。
アーシュ達はいくつかの小島を渡り歩いていた。ボートを漕いで沖の島へ。島の砂浜を歩いて、向こう岸の桟橋へ。またボートを漕いで、次の島へ。そして六、七日に一度、薄い膜を抜けるような感覚があった。
ジャングルでも経験した、あの階層をまたぐ感覚だ。
海の景色そのものはほとんど変わらない。けれど、マナの濃さは確かに少しずつ深まっていた。
ボートに乗る前に、毎回ヒマリは目を閉じて耳の奥にマナを集めていた。覚えたての身体強化を忘れずにきちんと使っている。
そのおかげで、船酔いの色はもう、ヒマリの顔には浮かばなかった。
ヴィラは相変わらず深いところが苦手そうだったが、それでも毎日きちんと漕いでくれていた。
はじめのうちは、何度かアーシュと交代することもあった。しかし、何度試しても、いくら漕ぎ方を指導しても必ずぐるぐると回ってしまう。
最後には、ヴィラが特別大きなため息をつき、いつかきっちりと練習するぞと約束させていた。
そして、その日以降アーシュに交代することはなくなっていた。
*
ある日、島に上陸して間もない頃、ヒマリが砂浜のくぼみを覗き込んでいた。
潮が引いた跡に残された小さな水たまり。岩のあいだに、ぽつんと丸い水面が光っている。
「わ、小さなお池みたい。ねえ、アーシュ。ここ、のぞいて平気かな?」
ヒマリが振り返って聞いた。
「潮溜まりだな。危険はないから大丈夫だ」
「やった」
ヒマリがしゃがんで水面を覗き込んだ。
「あ……お魚だ」
潮溜まりの中に、指先ほどの小さな魚達がちょろちょろと泳いでいた。それから、赤いエビに緑の海藻。岩肌に貼りついた桃色の平たい貝たち。
「小さな海みたいできれい……わ、カニさんもいる!」
ヒマリはしばらくの間、夢中になって覗き込んでいた。
遠くで寄せる波の音がわずかに大きくなった。アーシュが目を細めた瞬間、ヒマリがぴょこんと一歩、後ろに下がった。
大きな波が岩の手前まで届いて、白い泡を立ててまた引いていった。
「ふう……」
ヒマリがまた潮溜まりに近づいた。
アーシュはその様子を見ていた。
以前のヒマリなら、興味深いものを見つけると夢中になりすぎるところがあった。あの井戸の事件の時も、池の縁にしゃがんでしばらく水面を見続けていた。今は楽しみながらも、ちゃんと周りを見れているし、波の音にもちゃんと耳を澄ましているのがわかる。
(……だいぶ旅慣れてきたな)
アーシュは流れる雲に目を移し、静かにそう思った。
*
その日の夕方、小島の砂浜で野営をした。
ヒマリが結界玉を置いて家を出す。砂浜に佇むいつもの森の家を背に、焚き火を囲んだ。
ヴィラがふと、思いついたように言った。
「なあ、ヒマリ。お前、身体強化、耳しかやってねえだろ」
「うん。アーシュが、ほかはまだ、はやいって言ってたし」
「ああ、そうだな。けどよ、そろそろちょっとずつ覚えてもいいころじゃねえか?」
ヴィラがヒマリの隣で自分の足をぽんと叩いた。
「まずは足だけだ。砂浜ってさ、結構歩きにくいだろ? つま先から足首までくらいかな? そこに少しマナを集めると、砂に取られにくくなるんだよ」
「え、ほんと?」
「ああ、ほんとだよ。なあ、アーシュ、こんくらいなら試させても良いよな」
アーシュは少しだけ考え、小さく頷いた。
「いいだろう。ただし、最低限の出力からだ」
「わーってるって。そういうことだからよ、あんま強くやんじゃねーぞ。下手すっと足をひねっちまうからな」
「うん、わかった!」
ヒマリは、目を閉じて足元に意識を向けた。
日々の訓練でだいぶ上達したマナの制御。胸の奥から腹に下ろし、そこからゆっくりと足へ向けて流していく。
「ん……これで、いい……?」
「お、ちゃんとできてんな。試しに少し歩いてみろ」
ヒマリが立ち上がって砂浜を一歩踏みしめた。
「あ……ふわっとする」
「だろ? 砂にぐにゃっと取られねえ感じがすっだろ」
「うん、うん!」
ヴィラがにっと笑った。
「けどよ、まだ調子に乗って走ったりすんじゃねーぞ? 最初は歩くだけで十分だ」
「うんわかった!」
「……ヴィラは覚えてすぐに走り出し、壁にめり込んだらしいからな」
「アーシュてめえ、余計なことを言うんじゃねえよ!」
「あはは……気をつける、ね」
顔を赤くして怒るヴィラをかわしながら、アーシュはヒマリの様子を見ていた。
マナの制御は、はじめからかなりの精度だった。
施設で指導されたからだと、ヒマリは言っていた。けれど、それだけではない。魔法を覚えたいと毎日訓練し、充填の魔導具にも毎晩自分でマナを注ぎ続けてきた。
その積み重ねが、今の身体強化につながっている。
三半規管の強化を直ぐに身につけ、足の強化もなんなくやってみせた。
興味を持ったことに対する学習速度は、目を見張るものがある。
(しかし、まだ夢中になりすぎる節があるな……)
アーシュは立ち上がってヒマリに声をかけた。
「ヒマリ、今日はそこまでにしておけ。慣れないまま長く使うと怪我をする」
「うん、わかった」
ヒマリは素直にマナの流れを止めた。
ヴィラが肩をすくめた。
「もうちょっとくらいやらしても、いいんじゃね?」
「そう言って、頭から土山に突っ込んだのは誰だったか」
「だーから、俺のことは言うんじゃねえよ! あ、ヒマリちげーからな!」
ヴィラが慌てて両手を振り、何かを誤魔化す。
ヒマリは二人のやり取りを見て、くすくすと笑っていた。
*
夜になると、波の音だけが結界玉の光の外で続いていた。
砂浜にぽつんと立つ森の家。月明かりが屋根にかかり、結界の内側だけ、淡く光っている。家のすぐ前で、焚き火がぱちりと小さく爆ぜた。
ヒマリが家の中で貝殻や小さな実を収納から取り出して、テーブルに並べていた。
白い貝、ピンクの貝、薄い水色の貝。それから、潮溜まりで拾った緑の小石。それと、海岸で採取した小さな赤い実だ。
「アーシュ、見て」
「ああ」
「これはクレに。これはフィロルさんに。それで、これはルミアさんに」
ヒマリが一つずつ誰に渡すかを決めていく。
アーシュはその手元を見ていた。
ヒマリの収納の中には、もうたくさんのお土産が入っているはずだった。砂漠の香辛料、ジャングルのフルーツ、ペルロの蜜。そして、この階層で加わったのが、海の貝殻と小さな実。
旅の景色が、一つ一つお土産という形でヒマリの中に積もっていく。
その時間をアーシュは静かに眺めていた。
*
また、数日が経った。
ある日の朝、ボートに乗り込んだ時にアーシュは海の色が少し変わっていることに気づいた。
これまでの海は空と同じ明るい青だった。けれど、今日の海はもっと深く、紺色に近い色をしている。マナの濃さもこれまでとは桁が違った。
「ヴィラ」
「ああ、感じてる……つうかよ、だいぶ慣れたと思ったが、また怖くなってきたぜ」
「ヒマリも、わかるか?」
「うん……なんだか、海の奥のほうから、ぐっと、引かれる感じがする」
「ちょ、お前そういうこと言うの……やめろよな!」
ヒマリが、ボートの縁に手をついて、海面を覗き込んだ。
波の動きがわずかに変だった。一定のリズムで寄せて返すはずの波が、時々、奇妙な揺らぎを見せている。
「明日は、揺らぎを通ることになるだろう」
「もしかして、海がおわっちゃうのかな」
「どうだろうな……揺らぎが少し妙なのが気にかかる」
「みょう?」
「ああ。ヒマリが言うように、海中から引き寄せられるような……これまでとは違う揺らぎを感じる」
アーシュは海面をしばらく見つめていた。
*
その日はいつもより少し早く近くの小島に上陸した。
ヴィラが伸びをしながら空を見上げた。
「明日……なんかありそうだな」
「そうだな」
「嫌な予感しかしねえ……」
ヴィラが、ぼやいた。
ヒマリは二人の少し後ろで海を見つめていた。
遠くの海面が、夕暮れの光のなかで、いつもとは違う揺れ方をしていた。
波ではない。
風でもない。
海そのものが、何かを待つように、ゆっくりと身じろぎしていた。




