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魔の森の管理者と迷い込んだ少女 〜過去を捨てた男と、失った少女の再誕の旅〜  作者: 未白ひつじ
第二章 開花の旅

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第三十六話 波間の小さな足跡

 あれから数日。


 アーシュ達はいくつかの小島を渡り歩いていた。ボートを漕いで沖の島へ。島の砂浜を歩いて、向こう岸の桟橋へ。またボートを漕いで、次の島へ。そして六、七日に一度、薄い膜を抜けるような感覚があった。


 ジャングルでも経験した、あの階層をまたぐ感覚だ。


 海の景色そのものはほとんど変わらない。けれど、マナの濃さは確かに少しずつ深まっていた。


 ボートに乗る前に、毎回ヒマリは目を閉じて耳の奥にマナを集めていた。覚えたての身体強化を忘れずにきちんと使っている。


 そのおかげで、船酔いの色はもう、ヒマリの顔には浮かばなかった。


 ヴィラは相変わらず深いところが苦手そうだったが、それでも毎日きちんと漕いでくれていた。


 はじめのうちは、何度かアーシュと交代することもあった。しかし、何度試しても、いくら漕ぎ方を指導しても必ずぐるぐると回ってしまう。


 最後には、ヴィラが特別大きなため息をつき、いつかきっちりと練習するぞと約束させていた。


 そして、その日以降アーシュに交代することはなくなっていた。



 ある日、島に上陸して間もない頃、ヒマリが砂浜のくぼみを覗き込んでいた。


 潮が引いた跡に残された小さな水たまり。岩のあいだに、ぽつんと丸い水面が光っている。


「わ、小さなお池みたい。ねえ、アーシュ。ここ、のぞいて平気かな?」


 ヒマリが振り返って聞いた。


「潮溜まりだな。危険はないから大丈夫だ」

「やった」


 ヒマリがしゃがんで水面を覗き込んだ。


「あ……お魚だ」


 潮溜まりの中に、指先ほどの小さな魚達がちょろちょろと泳いでいた。それから、赤いエビに緑の海藻。岩肌に貼りついた桃色の平たい貝たち。


「小さな海みたいできれい……わ、カニさんもいる!」


 ヒマリはしばらくの間、夢中になって覗き込んでいた。


 遠くで寄せる波の音がわずかに大きくなった。アーシュが目を細めた瞬間、ヒマリがぴょこんと一歩、後ろに下がった。


 大きな波が岩の手前まで届いて、白い泡を立ててまた引いていった。


「ふう……」


 ヒマリがまた潮溜まりに近づいた。


 アーシュはその様子を見ていた。


 以前のヒマリなら、興味深いものを見つけると夢中になりすぎるところがあった。あの井戸の事件の時も、池の縁にしゃがんでしばらく水面を見続けていた。今は楽しみながらも、ちゃんと周りを見れているし、波の音にもちゃんと耳を澄ましているのがわかる。


(……だいぶ旅慣れてきたな)


 アーシュは流れる雲に目を移し、静かにそう思った。



 その日の夕方、小島の砂浜で野営をした。


 ヒマリが結界玉を置いて家を出す。砂浜に佇むいつもの森の家を背に、焚き火を囲んだ。


 ヴィラがふと、思いついたように言った。


「なあ、ヒマリ。お前、身体強化、耳しかやってねえだろ」

「うん。アーシュが、ほかはまだ、はやいって言ってたし」

「ああ、そうだな。けどよ、そろそろちょっとずつ覚えてもいいころじゃねえか?」


 ヴィラがヒマリの隣で自分の足をぽんと叩いた。


「まずは足だけだ。砂浜ってさ、結構歩きにくいだろ? つま先から足首までくらいかな? そこに少しマナを集めると、砂に取られにくくなるんだよ」

「え、ほんと?」

「ああ、ほんとだよ。なあ、アーシュ、こんくらいなら試させても良いよな」


 アーシュは少しだけ考え、小さく頷いた。


「いいだろう。ただし、最低限の出力からだ」


「わーってるって。そういうことだからよ、あんま強くやんじゃねーぞ。下手すっと足をひねっちまうからな」

「うん、わかった!」


 ヒマリは、目を閉じて足元に意識を向けた。


 日々の訓練でだいぶ上達したマナの制御。胸の奥から腹に下ろし、そこからゆっくりと足へ向けて流していく。


「ん……これで、いい……?」

「お、ちゃんとできてんな。試しに少し歩いてみろ」


 ヒマリが立ち上がって砂浜を一歩踏みしめた。


「あ……ふわっとする」

「だろ? 砂にぐにゃっと取られねえ感じがすっだろ」

「うん、うん!」


 ヴィラがにっと笑った。


「けどよ、まだ調子に乗って走ったりすんじゃねーぞ? 最初は歩くだけで十分だ」

「うんわかった!」

「……ヴィラは覚えてすぐに走り出し、壁にめり込んだらしいからな」

「アーシュてめえ、余計なことを言うんじゃねえよ!」

「あはは……気をつける、ね」


 顔を赤くして怒るヴィラをかわしながら、アーシュはヒマリの様子を見ていた。

 

 マナの制御は、はじめからかなりの精度だった。


 施設で指導されたからだと、ヒマリは言っていた。けれど、それだけではない。魔法を覚えたいと毎日訓練し、充填の魔導具にも毎晩自分でマナを注ぎ続けてきた。


 その積み重ねが、今の身体強化につながっている。


 三半規管の強化を直ぐに身につけ、足の強化もなんなくやってみせた。

 

 興味を持ったことに対する学習速度は、目を見張るものがある。


(しかし、まだ夢中になりすぎる節があるな……)


 アーシュは立ち上がってヒマリに声をかけた。


「ヒマリ、今日はそこまでにしておけ。慣れないまま長く使うと怪我をする」

「うん、わかった」


 ヒマリは素直にマナの流れを止めた。


 ヴィラが肩をすくめた。


「もうちょっとくらいやらしても、いいんじゃね?」

「そう言って、頭から土山に突っ込んだのは誰だったか」

「だーから、俺のことは言うんじゃねえよ! あ、ヒマリちげーからな!」


 ヴィラが慌てて両手を振り、何かを誤魔化す。


 ヒマリは二人のやり取りを見て、くすくすと笑っていた。



 夜になると、波の音だけが結界玉の光の外で続いていた。


 砂浜にぽつんと立つ森の家。月明かりが屋根にかかり、結界の内側だけ、淡く光っている。家のすぐ前で、焚き火がぱちりと小さく爆ぜた。


 ヒマリが家の中で貝殻や小さな実を収納から取り出して、テーブルに並べていた。


 白い貝、ピンクの貝、薄い水色の貝。それから、潮溜まりで拾った緑の小石。それと、海岸で採取した小さな赤い実だ。


「アーシュ、見て」

「ああ」

「これはクレに。これはフィロルさんに。それで、これはルミアさんに」


 ヒマリが一つずつ誰に渡すかを決めていく。


 アーシュはその手元を見ていた。


 ヒマリの収納の中には、もうたくさんのお土産が入っているはずだった。砂漠の香辛料、ジャングルのフルーツ、ペルロの蜜。そして、この階層で加わったのが、海の貝殻と小さな実。


 旅の景色が、一つ一つお土産という形でヒマリの中に積もっていく。


 その時間をアーシュは静かに眺めていた。



 また、数日が経った。


 ある日の朝、ボートに乗り込んだ時にアーシュは海の色が少し変わっていることに気づいた。


 これまでの海は空と同じ明るい青だった。けれど、今日の海はもっと深く、紺色に近い色をしている。マナの濃さもこれまでとは桁が違った。


「ヴィラ」

「ああ、感じてる……つうかよ、だいぶ慣れたと思ったが、また怖くなってきたぜ」

「ヒマリも、わかるか?」

「うん……なんだか、海の奥のほうから、ぐっと、引かれる感じがする」

「ちょ、お前そういうこと言うの……やめろよな!」


 ヒマリが、ボートの縁に手をついて、海面を覗き込んだ。


 波の動きがわずかに変だった。一定のリズムで寄せて返すはずの波が、時々、奇妙な揺らぎを見せている。


「明日は、揺らぎを通ることになるだろう」

「もしかして、海がおわっちゃうのかな」

「どうだろうな……揺らぎが少し妙なのが気にかかる」

「みょう?」

「ああ。ヒマリが言うように、海中から引き寄せられるような……これまでとは違う揺らぎを感じる」


 アーシュは海面をしばらく見つめていた。


  *


 その日はいつもより少し早く近くの小島に上陸した。


 ヴィラが伸びをしながら空を見上げた。


「明日……なんかありそうだな」

「そうだな」

「嫌な予感しかしねえ……」


 ヴィラが、ぼやいた。


 ヒマリは二人の少し後ろで海を見つめていた。


 遠くの海面が、夕暮れの光のなかで、いつもとは違う揺れ方をしていた。


 波ではない。

 風でもない。


 海そのものが、何かを待つように、ゆっくりと身じろぎしていた。


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