第三十五話 揺れる小舟と芽吹く力
翌朝、三人は朝食を済ませて、岬の付け根の船着き場まで歩いていった。
白い砂と青い海を背に、木で組まれた質素な桟橋がぽつんと突き出ている。その端に、小さなボートが一隻ぷかりと浮かんでいた。
「思ったよりちっこいな……」
ヴィラがボートを見下ろして眉を寄せた。
三人がぎりぎり乗れるくらいの大きさだった。
素朴な作りだがオールが二本ついた、しっかりとしたボートだ。
「ヒマリ、まずお前から乗れ。落ちないように、ゆっくりとな」
「うん」
ヒマリが、おそるおそる桟橋からボートに足を乗せた。ボートがゆらりと揺れて、ヒマリが小さく「わ」と声を上げた。
「真ん中に座っとけよ。動くと結構揺れるからな」
「うん、わかった」
ヴィラが続き、最後にアーシュが乗り込んだ。重みが加わってボートはわずかに沈み、それから安定した。
「よし、アーシュ! 頼んだぞ!」
「……文句は言うなよ」
アーシュが、オールを手に取った。
力強く漕ぐと、ぐんとボートが岸を離れた。
しかし――
ボートがぐるりと右に回った。
「……む」
アーシュがもう一度漕いだ。今度は左にぐるりと回った。
「えっと……アーシュ?」
ヒマリが首を傾げた。
アーシュは無言でもう一度漕いだ。ボートはまたぐるりと回った。それを繰り返し、ボートは同じ場所でぐるぐると円を描いている。
「ぷっ……ふ、ふふ……」
ヒマリが口を押さえた。
「ぐる、ぐるしてる、よ……っ」
「ちょ、ちょっと待てよアーシュ。まったく前に進まねえじゃねえか!」
ヴィラが肩を震わせて笑い始めた。
「いやー、お前でも出来ねえことあんだな! あはははは!」
アーシュは額にわずかに皺を寄せた。
「……前世で漕いだ時、前に進むのに難儀した、と言っただろう」
「まさか回るとは思わねえだろ!」
ヴィラが腹を抱えて笑っていた。
ヒマリも笑いを堪えきれずに、ボートの縁を掴んで震えている。
しばらくの間、回るボートの上に笑い声が響いていた……が、ぱたりとヴィラの笑いが止まった。
「……いや、笑ってる場合じゃねえぞ。これじゃいつまで経っても進まねえじゃねえか! アーシュ、俺に貸せ!」
アーシュと変わろうとしたヴィラが立ち上がると、ボートがぐらりと大きく揺れた。
「うわっ、わ、悪い悪い」
「ヴィラ、ゆっくりとこっちにこい……」
「ああ、わりい……っと、よし、今度はアーシュが……」
ヴィラが、おっかなびっくりアーシュと位置を入れ替えて、オールを手に取った。
「俺もあんまり上手くねえからな! よいしょっと!」
最初の一漕ぎでボートがふらりと動き始めた。だが、アーシュの時と比べ、だいぶまともに進んでいた。
「お、進んだ進んだ」
「ヴィラさん、上手だね」
「ふん、まあな。俺だって、漕いだことがねえわけじゃねえからよ」
ヴィラは、得意げに胸を張った。けれど、その顔がわずかに引きつっていた。
海が苦手だと、深いところが苦手だと言っていた。
アーシュに漕がせている間は、その様子がおかしくてその事を忘れられていた。
だが、こうやって冷静になった今、海の怖さをじわりじわりと感じ始めていた。
それでも、前に進むためだとヴィラは気合を入れ直す。
ぶるぶると顔を横に振り、力強く漕ぎ出されたボートは、沖合の方へと向けてゆっくりと進んでいった。
*
しばらくすると、アーシュが小さく指示を出した。
「もう少し左に向けて漕いでくれ」
アーシュが遠くの方に、マナの揺らぎを感じとった。
この階層に来てからずっと探っていたが、ようやく次の階層への手がかりを掴む事ができた。
ダンジョンの傾向から言って、ここで終わりとは思えない。この先に待つのは、恐らく二十二階層へと抜ける、膜のように立体的に広がる転移装置だ。
それが海上にあるのか、島にあるのかはわからないが、今はそこに向かって進むしかない。
こうして、海上の旅は進んでいった。
時折、アーシュが海中に手を入れ、何かの魔法を放っていた。
何をしているのかと尋ねるヒマリに『魔物がこちらを狙っていた』と、短く答えていた。
船に辿り着く前に、海面へ姿を現す前に、何かが討伐されていた。
なので、ヒマリからすれば、この船旅は平和そのものだった。
そのため、しばらくの間は、はしゃいで海を覗き込んだり、遠くを飛ぶ海鳥に手を振ったりと楽しそうにしていた。
けれど、二時間ほど経つと、口数がだいぶ減っていた。
「……アーシュ」
「何だ」
「なんか、なんだか……気持ち、わるい、かも」
ヒマリの顔色が青ざめていた。
額にうっすらと汗が浮いて、唇が少しふるえている。揺れるボートの上で座席の縁をぎゅっと握りしめていた。
「船酔いだな」
「ふな、よい?」
「船の揺れに、感覚が、ついていけてないんだ」
「ふたりは、なんで平気なの……?」
ヒマリが青い顔で聞いてきた。
「慣れたら、だいじょぶ、なのかな……」
アーシュは少し考えた。
「ヴィラ」
「ああ?」
「俺たちにあって、ヒマリにないものは何だ」
ヴィラがオールを止めずに首を傾げた。
「はあ? ダンジョンの謎掛けみてえなこというんじゃねえよ」
「真面目に考えてくれ」
「いや、まあ……うーん、体力? いや、マナ量か?」
「それは、ヒマリの方が多いだろう」
「……そうだった」
「もっと、こう、生まれつき備わっているものだ」
ヴィラが考え込んだ。それからぽつりと言った。
「筋肉?」
「……」
「いや、違うか……」
アーシュは軽く息を吐いたが、なんとその答えがヒントになって正解にたどり着いた。
「ああ、思い出した。恐らく三半規管が、俺達より弱いのが原因だろう」
「は? さんはん、なに?」
ヴィラがぽかんと口を開けた。
ヒマリも青い顔のまま首を傾げた。
「さんはんきかん、って、なに?」
「耳の奥にある、体の傾きを感じる器官だ。これが弱いと、揺れに耳と体の感覚がついていけずに気持ち悪くなるんだ」
「みみのおく……」
ヒマリが自分の耳にそっと手を当てた。
「子どもは、まだ揺れに慣れていないことが多い。だから大人より船酔いしやすい」
「ほー……お前、よくそんなこと知ってんな」
「前世の知識だ」
「いやー、ほんと便利だな、お前。アーシュも賢者なんじゃねえのか?」
ヴィラが、感心したように頷いた。
「違う。これくらい、だいたいの大人は知っていた」
「……日本人ってみんな賢者なんじゃねえの?」
アーシュはヒマリを見て少し考えた。
三半規管が弱いのなら、補えばいい。
体の揺れを感じ取れないなら、感じ取りやすくしてやればいい。
「ヒマリ」
「うん……」
「もしかすると、身体強化で、どうにかなるかもしれん」
「しんたいきょうか……?」
ヒマリが頭を軽く傾けた。
「マナを、全身に、巡らせるんだ」
「あ、それね、いつもの、くんれんで、やってるやつだよね?」
「ああ、それでいい」
ヒマリが青い顔のまま目を閉じた。
ゆっくりと息を整える。
手のひらからふっと、マナが体の中に流れ込んでいった。
日々の訓練で慣れた動きだった。マナを全身に巡らせるだけなら、ヒマリにとってはもう、難しい作業ではない。
「そのまま、耳の奥の感覚を支えるように、マナを集めてみろ」
「耳のおく……うん」
ヒマリは頷いてまた目を閉じた。
しばらくすると、ヒマリの震えは徐々に収まり、顔色も少しずつ戻ってきた。
「……あ」
ヒマリが目を開けた。
「らくになった。すごいふつうだよ……!」
「ああ、効いたようだな」
アーシュが頷いた。
「同じ事を手足にすれば力が増すが、慣れなければ怪我をするから、今はするな」
「ほんとに?」
「ああ。覚えれば、長距離も歩けるし、重い物も運べる。だが、今すぐはしなくていい」
「わかった。耳だけにしておくね」
ヴィラが横でぽかんと口を開けていた。
「……お前、待てよ」
「ん?」
「身体強化って、便利だが、覚えるのが大変な技術なんだぞ? 兵士だって、冒険者だって、商人の一部だって、何ヶ月もかけて、ちょっとずつ覚えるもんなんだ」
「うん」
「俺なんて、これを覚えるのに半年かかったのによ……」
ヴィラが涙目でヒマリを見ていた。
「言われてすぐできるとか、やっぱヒマリはヒマリだわ」
「なにそれ」
ヒマリが目をぱちぱちとさせた。
ヴィラがふっと笑った。
ヒマリは、まだ意味がよく分からないらしく、首を傾げていた。けれど、もう、その顔に不調の色はなかった。
*
ヴィラが再びオールを動かし始めた頃、ヒマリは前方を指さした。
「アーシュ、ヴィラさん、あれみて!」
遠くの方に小さな影が見えた。海の中に、ぽつんと盛り上がった緑のついた島影。
「お、島か」
マナの揺らぎはその島よりも、もう少し先から感じられた。だが、ボートの速度と、日の傾きを考えると、今日のうちにその先まではたどり着けそうになかった。
「ヴィラ、少し早いが、今日はあの島で野営をしよう」
「ああ、賛成だ。海の上で野営なんて絶対にやだからな」
「うん、お船で寝るのは、ちょっと、こわいかも」
ヴィラがオールに力を入れて、ボートを島の方へと向けた。
ふらつきながら、けれど確かに進んでいく。
ヒマリは、近づいてくる小島を見つめていた。
潮風が頬を撫でていく。
ヒマリの中で、また一つ新しい魔法が芽吹いた一日が、ゆっくりと暮れようとしていた。




