第三十四話 青い境界
花の中央で淡く青く光る円形の紋様。それを三人で囲んだ。
「次の階層、どんなだろね」
「行ってみればわかる」
「ふふ、そう言うと思った」
ヒマリが面白そうにくすりと笑った。
アーシュが先に紋様の上に踏み出した。視界がふっと歪んだ。
次の瞬間、肌に当たる空気がガラリと変わった。
ジャングルのねっとりとした蒸し暑さが嘘のように消えていた。代わりに肌をさっと撫でていくのは、湿り気を含んだ、けれどさらりとした冷たい風だった。
そして――
「あ……」
続いて転移してきたヒマリが、声を漏らした。
目の前に海が広がっていた。
白い砂浜がゆるやかに弧を描いて続いている。その先に、青がどこまでも広がっていた。
波が寄せては返している。
打ち寄せる波の音が、岩の天井の代わりにある青い空に軽やかに溶けていった。
「うっひゃー! 海だ、海!」
ヴィラが、両手を大きく広げて潮風を吸い込んだ。
「いやー、これまた懐かしいぜ! ドラグニルの東に、こんな景色のとこがあってよお、たまに行ってたんだ」
ヒマリは立ち尽くしていた。
ぽかんと口を開けたまま、ただ、海を見ている。風が前髪を揺らしても気にする様子がない。
「……うみ」
ぽつりと、そう言った。
アーシュはヒマリの隣に並んで横顔を見た。
ヒマリは砂漠を歩いている時に『海みたい』とつぶやいていた。
かつて、両親とともに見たという海を心に浮かべ、目の前の情景と重ねていた。
今、本物……ではないが、それに近しい海を見て、ヒマリはどう思っているのだろう。
アーシュの心の奥が僅かに軋んだ。
「アーシュ」
「……ああ」
「うみ……ほんとの海だよ……」
ヒマリが、ぽつりぽつりと、言った。
「砂のとこも、すごく、きれいだったけど。ほんとの海……ひさしぶり」
声がわずかにふるえていた。
悲しみではなかった。何かを大事に確かめている、そういう震え方だった。
「そうか……」
アーシュは、それだけ言った。
胸の奥の軋みは、いつの間にか薄れていた。代わりに、名前のつけられない感情が、静かに残っていた。
*
砂浜に踏み出すと、足元がさらりと崩れた。砂はナハル・ファリスのあたりのものとは違って、細かくて白い、踏みしめると気持ちがいい感触がする砂だった。
ヒマリがしゃがんで砂を掬った。指のあいだから、さらさらとこぼれていく。
「やわらかい……」
「海の砂は、波で角が削れているからな」
「アーシュも、こういう海、見たことある?」
「ああ、日本の家は海辺にあったからな。こちらの海も、何度か行った事がある」
「じゃあ、海はなれっこだね」
「そうだな」
ヒマリは、もう一度砂を掬ってこぼした。それから立ち上がって波打ち際まで歩いていった。
波がさわさわとヒマリの足の手前まで届いて、また引いていく。
「わ、ぬれるとこ、だったよ……ここなら、届かないかな……わっ」
ヒマリがぴょこんと半歩下がった。
ヴィラが後ろから笑った。
「海ってのは騙し合いだぜ。油断すると靴の中まで濡らされるんだ」
「ほんと?」
「ほんとほんと。だが、それも遊びのうちさ」
ヒマリがもう一度波打ち際に近づいた。
今度はわざと靴の先で波を踏みつけてみる。ぱしゃりと音がして波が散った。
「楽しい!」
ヒマリがぱあっと笑った。
*
しばらくヒマリは波打ち際で遊んでいた。波を追いかけたり、追いかけられたり。それに疲れると、浜辺にかがんで貝殻を拾ったりしていた。
その間、アーシュは砂浜の先のほうを目を細めて確かめていた。
砂浜はゆるやかに弧を描いていて、岬のような場所で途切れている。その向こうには海しか見えなかった。
歩いて進める道はここでいったん途切れるようだ。
「アーシュ」
ヴィラが隣にきた。
「あっちもこっちも道がねえぞ。どうやって進むんだろうな」
「まて、向こうに何かある」
アーシュが岬の向こうを指さした。
よく目を凝らすと、岬の付け根のあたりに何か、人工物らしき影が見えた。木で組まれた……船着き場のようなものが見えた。
そして、そこにあったのは――
「おいおい、ありゃもしかして……ボートか?」
「だろうな。ダンジョンギミック、というやつなのだろう」
ヴィラがぐっと腕を組んだ。
「ってこたぁ、ここから先は海の上か。陸路はもうねえってわけだ」
「そうらしい」
「うへぇ……お前だから言うけどよ、俺って船はあんま得意じゃねえんだよなあ」
「そう言えば、船旅の時のお前は、なんだか元気がなかったな」
「ああ、深いとこがちょっとな……ルミアには言うなよ。バカにされっからよ」
ヴィラが、ぼやいた。
アーシュはヴィラを横目で見た。
「お前、ドラグニルの近くの海で、よく遊んでいたんじゃないのか」
「あれは岸で遊んでただけだ。船で沖まで出るのとは別なんだよ!」
「……そうか」
遠くでヒマリの楽しそうな声がした。貝殻をいくつか集めたのか、両手いっぱいに何かを抱えてこちらに駆けてきていた。
「アーシュ! ヴィラさん! みて、いろんなのが、おちてた!」
ヒマリが両手を広げてみせた。
手のひらの中で白や、ピンクや、薄い水色の貝殻がいくつも揺れていた。
「お、きれいなの沢山集めたな」
「土産に、するのか」
「うん、クレに、あげようかなって……あ、それから、リュッカさんとフィロルさんにも!」
思い出とともに、土産がまたひとつ増えていく。
この旅の終わりに、ヒマリはどれだけの思い出を、どれだけの土産を抱えているのだろうか。
そして、それを受け取った人たちは、どんな顔をするのだろう。
その時のヒマリを想像して、アーシュは人知れず頬を緩めていた。
*
ヴィラが、岬の方を顎で示した。
「ヒマリ、向こうに船着き場があるんだってさ」
「え、おふね?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、今から乗っていくの?」
目を輝かせ、岬を見つめるヒマリを見てアーシュは考えた。
今は、昼を一時間ほど過ぎた頃だろう。
海に気を取られ、昼食も取っていないし、それを済ませれば、航海をするには微妙な時間になってしまう。
(だいぶ早いが、慎重過ぎて悪いことはないからな)
「いや、早いが今日はここに家を出してゆっくりと休もう」
「そうだなあ、昼飯もまだだし、俺も海で遊びたかったからな」
「そっかあ」
ヒマリが少しだけ肩を落とした。
「んな顔してんじゃねえよ。飯食ったら海で遊ぼうぜ? 船に乗ったら、浜辺でゆっくり遊べる機会なんてなさそうだしよ」
「うん、そうだね。楽しみは、とっておかなくっちゃ!」
*
楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、ダンジョンに夜が訪れた。
結界玉の月光色の光が、砂浜にふわりと広がり、その光の中に、ヒマリが出した森の家が佇んでいた。
白い砂と、青い海と、夕焼けの空。そのまんなかに、いつもの森の家がぽつんと立っている。家のすぐそばで、波が、ゆるやかに打ち寄せていた。
「なんだか、不思議な、けしきだね」
焚き火を囲むアーシュとヴィラに向かって、家の窓から顔を出したヒマリが言った。
「ああ」
「魔の森のおうちが、うみのちかくにある」
「そうだな」
「……すてき」
アーシュは波打ち際を見つめていた。明るく輝く三日月が長く黒い水面に伸び、ユラユラと揺れている。
それは、前世で過ごした実家からの景色によく似ていた。
「明日、船のるんだよね」
ワクワクとしたヒマリの声が飛び込んできた。
「そうだな」
「船に乗るの、はじめてなんだ。たのしみ!」
ヴィラが何かをじっと考えていたが、困ったような顔で言った。
「なあ、アーシュ。ボート漕げるんだよな?」
「……漕いだことは、ある」
「大丈夫なんだよな?」
「……前世で漕いだ時、前に進むのに難儀した覚えがある」
「ほんとかあ? まあ、なんとかなるだろ」
ヴィラがアーシュの背中をバシバシと叩く。
ヒマリは二人のやり取りの意味がよく分からなかったらしく、昼間拾った貝殻を握って小さく首を傾げていた。
その時だった。
「あ、みて! 流れ星だ!」
「へえ、ダンジョンで流星とはねえ」
ヒマリが指さす方向に、長く長く尾を引いた青白い星が見え、それはやがて黒く揺らめく夜の海に沈み込んでいった。
砂漠で見た星空。ジャングルで見た緑の天井。そして今、ここに広がる夜の海。
ヒマリは、この旅で、本当にいろいろな景色を見ている。
明日は、あの海の上へ出る。
船をうまく進められるかは分からない。少なくとも、ヴィラもあまり自信はなさそうだった。
それでも、窓の向こうで流れ星を見つめるヒマリの顔は、期待に満ちていた。
夜風に混じる潮の香りを感じながら、アーシュは静かに海を見つめていた。




