第三十一話 エアコン魔法
ジャングルに突入してから、十二日が経った。
歩きながらの訓練は、あれからずっと休まず続いている。日に日にその精度は増していき、水玉を震わせられるだけだったのが、数日後には表面を細かく波立たせる事が出来るようになった。
三日前にはとうとう、震えた水玉から細い霧を立ち上らせる事に成功した。
そして今日も、ヒマリは諦めず根気よく続けていた。
ジャングルの蒸し暑さの中で、汗を拭いながらひたすら歩き、自分の手のひらの上に浮かべた水玉を崩さないよう、一生懸命維持し続けた。
そして、その時が来たのは、昼前のことだった。
歩いていたヒマリが、突然足を止めた。
手のひらをじっと見て、それから両手で頬を押さえた。
「あ……ね、ねえ、アーシュ。これって、もしかして!」
ヒマリのまわりに薄く、霧のような水の粒がふわりと立ちのぼっていた。それは、ほんの数秒で、ふっと風に変わった。乾いた冷たい風が、汗ばんだ頬をさらりと撫でていく。
「出来ている……な」
「だよね、だよね。ちゃんと、涼しいもの。アーシュみたいに、見えない水には出来てないけど」
「そこまでできればあと少しだ。ただ、それでも十分役立つだろう」
「やったあ」
「そこまで扱えれば、霧はすぐに出せるようになるだろう。雨まであと一歩だ」
「わあ……」
ヒマリの目が、きらきらと輝いた。
手のひらをもう一度、自分の顔の前にかざす。すると、また、薄い霧が立ち、それが冷たい風に変わって、ヒマリのまわりを包んだ。
「これね、自分で使ってみたらね、思い出したんだけどね」
「ああ」
「なんかね、エアコンみたいだなって」
アーシュはわずかに目を細めた。
(前にもコタツ魔法と名付けていたが……なるほど、言われてみればエアコンだ)
あちら側の世界の夏の日。うだるような暑さに顔をしかめながら、リモコンのボタンを押す。間もなくして、天井から吹き下ろされる、ひんやりとした冷たい風。
確かに、ヒマリが作っているこの風は、それに似ていた。
「アーシュ、エアコン魔法って、名前にしていい?」
「……お前の魔法だ。好きにしろ」
「やった! エアコン魔法、できたよ!」
ヴィラが、前を歩きながら振り返った。
「お、なんだ、ヒマリ。例の魔法、できたのか?」
「うん! エアコン魔法がね、できたの!」
「えあこん……なんだそりゃ」
「つめたい空気とか、あったかい空気をだすんだよ」
「ははあ、さては日本の何かだな? 何にせよ、やるじゃねえか、ヒマリ」
ヴィラがヒマリの頭をわしわしと撫で、ヒマリが嬉しそうににこにこと笑っている。
アーシュはその様子を、どこか満足そうに見ていた。
*
そして、さらに十日が経過した。
ヒマリは、もう、自分の手のひらでエアコン魔法を当たり前のように起こせるようになっていた。ジャングルの蒸し暑さも、もう以前のようには応えない様子で、汗もずいぶんと減った。
頬の血色も戻り、口数も増えた。
エアコン魔法を自分で使えるようになって自信がついたのか、前よりもほんの少しだけ目に力が増え、足取りも軽くなったような気がする。
怪しげな見た目のフルーツも何種類か採取した。
例によって、そのどれもが見るからに食べられなさそうではあるのだが、ヴィラが「これはうまいんだぞ」と、都度教えてくれるため、アーシュ達はその味を楽しむことが出来ていた。
空みたいに青い実、無数のトゲに覆われた紫の実、地面に這う蔓に成る黒い実――どれも見た目はぎょっとするが、口に運ぶと、それぞれに違う甘さや酸味があった。
ヒマリの収納の中には、今、そういった果物がたっぷりと納められている。
「随分とってたが、土産にでもすんのか?」
「うん、トバスさんって、商人のおじさんとかね、クレっていうお友だちにもあげたいんだ。あと、リュッカさんとフィロルさんにも」
「はは、凄え顔するリュッカが頭に浮かんだよ。まあ、食えばうまいからな。喜んでくれると思うぜ」
「うん!」
ヒマリは、両手でぎゅっと、収納に触れる仕草をした。
「クレも、よろこんでくれるかな」
「ルミナリアの村にいる子だっけ、外国の果物なんて食う機会がねえんだ、きっと喜ぶぜ」
「だったらいいな」
ヴィラがヒマリの肩を、ぽんと叩いた。
アーシュは二人の後ろを歩きながら会話を聞いていた。
ヒマリは、いつのまにかジャングルを楽しんで歩けるようになっていた。蒸し暑さも、ヴィラの懐かしむ顔も、見たこともない果物との出会いも、全部が、今のヒマリの旅の景色になっている。
(毎晩、テーブルに平たく伸びていたのが遠い過去のようだ)
*
――そして、ジャングルに入ってから二十六日目。
昼を過ぎた頃、アーシュが足を止めた。
「ヴィラ」
「ああ。俺も感じてる」
マナの揺らぎ。層をまたぐ気配ではない。それとは違う、もっと密度のある、何か作為的なマナの集まりだった。
「これは、これまでの揺らぎとは違うね」
「ああ」
ヒマリも、もう、それを感じ取れるようになっていた。エアコン魔法を覚えてから、マナへの感度がさらに上がったからだ。
三人でその方向へと歩いていく。
しばらく進むと、木々が少しずつ薄れていった。葉の重なりが減り、頭上から差し込む光が、徐々に強くなっていく。視界が開けていく。
そして――
突然、目の前にそれは姿を現した。
石造りの建造物。
ジャングルの真ん中に、灰色の石を組み上げた神殿のような建物が建っていた。
蔓が壁を這い、苔が表面を覆っている。けれど、その造りは確かにしっかりとしていて、長い年月ここに立ち続けてきたことを感じさせた。
正面に大きな入り口が口を開けている。中は薄暗くて、奥までは見えなかった。
「……神殿、か」
アーシュがぽつりと言った。
「だな。誰が建てたんだかまったくわからねえが、目的地はこの奥だな」
ヴィラが剣の柄に手を当てた。
ヒマリは入り口を見上げて、それから、アーシュとヴィラを見上げた。その目はキラキラと輝いていた。
「アーシュ、なかに、はいるんだよね?」
「ああ。だが、今日はもう遅い。日が暮れる前に、ここで休んで明日にしよう」
「あ、もうそんな時間なんだね」
神殿の前の開けた場所に、ヒマリが結界玉をことりと置いた。
月光色の光が、静かに広がっていく。
灰色の石造りの神殿が、結界の光の中に浮かび上がった。蔓に覆われ、苔をまとい、それでもなお、長い年月を越えて何かを待ち続けていたような姿だった。
ヒマリが、その入り口を見上げた。
「……あした、ここに、はいるんだね」
「ああ」
「なぞとき、あるかな」
「分からん」
「でも、だいじょうぶだよ」
ヒマリが、小さく胸を張った。
「わたし、エアコン魔法もできるようになったし。ジャングルも、もう、ちょっとだけ、こわくないから」
アーシュは、その横顔を見た。
ついこの間まで、蒸し暑さに顔を赤くして、テーブルの上に平たく伸びていた子が、今は神殿の入り口を前にして、まっすぐ立っている。
(……強くなったな)
アーシュは、結界玉の光を確かめ、それから神殿の奥へ視線を戻した。
奥のほうから、わずかにマナの気配が漂ってくる。攻撃的なものではない。だが、確かに、何かが待っている。
転移装置か、新たな謎解きか、あるいはダンジョンコアか。
答えは、明日になれば分かる。
ジャングルの夜が、ゆっくりと降りてきた。
結界の内側では、ヒマリの作った小さな冷たい風が、まだかすかに揺れていた。




