第三十話 蜜色のフレンチトースト
昼食後、休憩を挟んで一時間ほど歩いたところで、ヒマリの水玉がようやく震え始めた。
しっかりとした水玉ではない。表面が細かく波打ってぶるぶると、不安定に揺れている。けれど、それは確かにこれまでの「動かない水玉」とは違うものだった。
「アーシュ、見て! ふるえた!」
「ああ」
「もっと、こまかく、しないとだよね」
「焦るな。今日は、震えるだけで十分だ」
ヒマリは、嬉しそうに頷いて、また、水玉に意識を集中させた。
ヴィラが前を歩きながらちらりと振り返った。
「あいつ、覚えるの早えなあ」
「賢者スキルのおかげだろうな」
「いやー、それだけじゃねえだろ。本人の集中力もすげえわ」
ヴィラが、にっと笑った。
「やる気のあるやつはよ、伸びるんだわ。俺も子どもの頃、剣の稽古が楽しくて仕方なかったからな」
「子どもの頃から剣を振っていたのか」
「あったりめえだろ。ドラグニル人だぞ? つか、お前もだろうがよ」
「……ああ、そうだった、な……」
アーシュは、今は遠きじっちゃんとの日々を思い出し、空を見上げた。
*
夕方、結界玉で野営の準備を整えた。
案の定、ヒマリは昨日同様にぐってりとテーブルに伏せている。
悪いと思ったが、ヒマリに声をかけて、食材を出してもらった。
食パンに、ミルク、卵、砂糖、それと――ヴィラとヒマリが集めていたペルロの蜜だ。
「アーシュ、なに、つくるの?」
蜜を出したのを見て、ヒマリが元気を取り戻したようで、ふわふわとした足取りでやってきて、興味深そうにアーシュの作業を見つめている。
「まあ見ていろ」
「むう、また、それ?」
少し、口を尖らせたが「楽しみは、取っておくものだ」というと、何か納得したのか、おとなしくソファに向かってぺたりとうつ伏せになった。
アーシュはミルクと卵と砂糖を深い皿に混ぜた。そこにパンを一枚ずつ両面に浸していく。そこに手をかざし、風属性の魔法で、卵液を奥まで染み込ませていく。
間もなくして、まるで一晩かけてじっくりと卵液を吸わせたかのようになった。
フライパンに、バターを溶かして、パンを並べた。
じゅうと音が鳴り、バターの香りが、家の中に広がっていく。
もうひとつフライパンを出し、こちらでは厚切りのベーコンを焼いていく。
バターの香りと、ベーコンの脂の香りが室内に広がっていく。
ヴィラがソファから飛び降り、アーシュのもとに駆け寄った。
「おいおい、なんだよこのやべえ匂いは! 腹が唸りやがるぜ!」
「大人しく待ってろ……ヒマリもか」
「えへへ……だって、匂いがね、すごく、いいんだもん」
目をらんらんとさせた二人に見守られながら、パンの両面がこんがりと黄金色に焼き上がった。
皿に取って、上からペルロの蜜をたっぷりとかけていく。
黄金色のパンに、琥珀色の蜜がゆっくりと染み込んでいった。
「わあ」
ヒマリが両手を上げて笑顔を見せた。
ふわとろのフレンチトーストに、厚切りのベーコンを添え、テーブルに並べた。
「食べてみろ。フレンチトーストだ」
「ふれんち、とーすと、っていうんだ……」
ヒマリがフォークで一切れ口に運んだ。
その瞬間――
顔がとろけた。
「……っ、あま……っ、ふわふわ……っ、おいしい……っ、すごく、おいしい……っ!」
ヒマリが頬を両手で押さえた。それから、もう一口もう一口、と、頬を膨らませながら、食べていった。
その正面では、口にフレンチトーストを突っ込んだままヴィラが固まっていた。
「……っ、おお……っ、おおおおお……っ、なんだこりゃあ! うめえぞアーシュ! なんだこの、これはよ! どうやったら、パンがこんなうめえもんになるんだ!」
「卵とミルクと砂糖を浸して焼いただけだ」
「それだけかよ! なんで今まで作らなかった!」
「この蜜が無ければ、完成とは言えないからだ」
「それを言われちゃ、しょうがねえわな」
ヴィラが、ぶつぶつ言いながら、ベーコンを、ぱくりと、口に放り込む。
「うおお、甘いのにベーコンとか意味わからんと思ったが、意外と合うな」
「だよね、甘いのとしょっぱいのとで、ずっと食べれちゃうよ」
ヒマリは、もう、口の周りを蜜で、べたべたにしながら、夢中で食べていた。
その顔を見て、アーシュはほんの少し口の端を緩めた。
*
夜、結界玉の光のなかで焚き火だけがぱちぱちと音を立てていた。
ヒマリは今日もまた、満足するまで食べたあと、もぞもぞとベッドの毛布へと潜り込んでいった。
ヴィラが、火の前であぐらをかいてにやにや笑っていた。
「アーシュ、最近さ、ヒマリのこと甘やかしすぎなんじゃねえか?」
「……そうか……いや、そうだな」
「ま、いいけどよ。あいつ、すげえ嬉しそうだったしな」
ヴィラが空を見上げた。
「ダンジョンでよ、こんなふうに家でうまいもん食って、結界の中でぬくぬくしてるたぁ、贅沢の極みだぜ」
「……そうだな」
「俺らとの旅の時にも、前世のメシとやらを出しても良かったんだぞ?」
「そう、だな……今思えば、そうすべきだった」
「ま、いいけどな。今こうしてうまい思いさせられてるし」
ヴィラが火に小枝をくべた。
アーシュはしばらく火を見ていた。
ヒマリは今日、自分の力で風魔法の練習を始めた。歩きながら、汗をかきながら、それでも、水玉を震わせるところまで自分の力でたどり着いた。
明日もヒマリは練習をするだろうし、また少し前に進むだろう。そしていつか、このジャングルの暑さを、自分の風でしのげるようになるはずだ。
また一つ、ヒマリの「自分でできること」が増えた。
一人前として前を向いて歩けるように、ゆっくりと、けれど確かに、一歩ずつ進んでいる。
(じっちゃんも、俺をそんなふうに見ていたのかも知れないな)
アーシュは火に、もう一本小枝をくべた。
どこかで、夜の鳥が鳴く声が美しく響いていた。




