第二十九話 乾いた風と甘い蜜
家の扉を押し開けると、湿った空気がぶわりと顔に押し寄せてきた。
昨日と同じ、じっとりとした重みがある空気だった。葉のあいだから差し込む光も、昨日と変わらない強さで、ぎらぎらとしていて肌を焼くように熱い。
ヒマリは扉の前で僅かに顔をしかめたが、何かを振り払うかのように、ぐっと胸を張って外に出てきた。
「おはよう、アーシュ」
「おはよう」
「きょうも、あついね」
「ああ」
ヒマリは肩に手をやって、ぱたぱたと服の襟を動かした。それからふと、アーシュを見上げた。
「アーシュ、あのね」
「何だ」
「きのうの、すずしいかぜ……あれ、わたしも、できるように、なりたい」
ヒマリが両手をぎゅっと握った。
「そうすればね、自分でかぜを、まとえる、よね? アーシュに、いつもやってもらうの、なんだか、たいへんだなって思うし……」
「別にそこまでの手間ではない。だが……」
アーシュは、少し考えた。
ヒマリは魔法使いとしての訓練を続けたいと言っていた。風と水の組み合わせは、攻撃に転用できる類のものではないが、生活魔法としては有用だ。そして何より、覚えればジャングルでの行軍がずっと楽になる。
(雨を目指すヒマリには、ちょうどいい教材だ)
「覚えたいのであれば、教えてやろう」
「ほんと?」
「ただし、歩きながらもやるぞ。夜だけでは時間がかかる」
「うん! あるきながらでも、やるよ!」
ヒマリの目がぱっと輝いた。
ヴィラが家から出てきて伸びをしながら言った。
「ふぁあ……なんだヒマリ、朝からすっげえやる気だなー」
「うん。アーシュみたいに、すずしいかぜ、つくる、れんしゅうするんだ」
「お、そりゃいいな」
ヴィラがにっと笑って、ヒマリの頭をわしわしと撫でた。
*
歩きながら、アーシュはヒマリに、風と水の重ね方を、少しずつ教えていった。
「水魔法は、雨の練習をしただろう」
「うん」
「あれと似ている。水を細かくして、空気の中に薄く散らす。それから、風を起こす」
「……ふたつ、いっぺんに?」
「ああ」
「むずかしそう」
「いきなり全部やろうとするな。まずは、水を細かくするところまでだ」
ヒマリは、立ち止まらずに、両手を前にかざした。手のひらの上に小さな水玉が浮かぶ。これは、もうヒマリには慣れた動きだった。
「これを、細かく、する」
ヒマリが、目を細める。水玉が、ふるりと震えた。けれど、形は変わらない。
「うー……」
「焦るな。まずは、水玉が震えるところまでだ。今日できなくてもいい」
「うん」
ヴィラが、前を歩きながら振り返った。
「あんま頑張ると、暑さでバテちまうぞ。休み休みやれよ」
「だいじょうぶ。すこしずつ、やる」
ヒマリは、また、水玉に意識を集中させた。
アーシュは、その横顔を見ていた。
歩きながら集中するというのは、本当はそれなりに高度な訓練だ。普通なら、座って、目を閉じて、外の刺激を遮断して、ようやくマナの細かい制御ができる。それを、歩きながら、ジャングルの湿った空気の中でやろうというのだ。
だが――ヒマリは賢者スキル持ちだ。普通の魔法使いに当てはまる「普通」が、ヒマリには当てはまらない。
(ゆっくり、覚えていけばいい)
*
昼前に、ヴィラがまた声を上げた。
「お、こいつは……お、当たりだ!」
ヴィラが指さした先には、大きな木の幹に、こぶのような塊がいくつもへばりついていた。地味な茶色をしていて、見た目はただの木の瘤にしか見えない。
ヒマリが首を傾げた。
「ヴィラさん、これ、なに?」
「これも見た目はアレなんだが、中身がなかなかのものなんだ」
「中身……?」
ヴィラが、腰のナイフを抜いて、こぶの一つに軽く突き刺した。ぷつ、と音がして、中から、とろりとした黄色い蜜がにじみ出てきた。
「うわ……お花のみつ、みたい」
「だろ? こいつはペルロといってさ、コブの中に甘い蜜を貯めるんだ。子どもの頃よく舐めてたんだ」
ヴィラはナイフの先で蜜をすくって、ぱくりと舐めた。
「うん、うまい。アーシュも舐めてみろよ」
アーシュはナイフを受け取ると、ナイフの先に蜜をつけた。指先に少し垂らして、口に運ぶ。
とろりと甘い味が口の中に広がった。
舌の奥に、ふわりと香ばしい風味が残った。それは知っている味だった。
「……これは、メープルシロップだ……いや、似ている味と言うべきだな」
「ん? なんだ、そのメープルとかいうのは」
「あちら側の世界で売られている、樹液を煮詰めたものだ」
「へー、まあ、こいつに似てるってこたぁ、そいつもうまいんだろうな」
「ああ、まさかこんな形で味わえるとはな」
超越種になる前のアーシュは、密かに甘味を好んで食べていた。前世の記憶から、なんとか様々な甘味を再現して作り、ささやかな楽しみとしていた時期があった。
そんなアーシュが、結局食べられずにいたのが、メープルシロップをたっぷりとかけたホットケーキだ。
昔ながらのどっしりとしたホットケーキにバターを乗せ、上からとろりとメープルシロップをかけたものを食べたいと、常々思っていた。
村にいた頃も狩りの合間に探していたし、ルミアと共に旅立ってからも、機会があれば、それらしい木を探していた。
だが、カエデそのものは見つけることができないままだ。
他にも、シラカバやクルミとよく似た木から採取を試みた事もあったが、望むような成果は得られなかった。
だから、ほとんど諦めていたし、超越種になってからは探していたことすら忘れていたのだが――
(異世界らしいといえば、そうなのだが……こういう形で出会えるとはな)
思いがけないパターンでかつての願いが叶い、アーシュは複雑な顔で蜜をもうひと舐めした。
「ほら、ヒマリも舐めてみろよ。うめえぞ」
ヴィラが、にっと笑った。
ヒマリがおそるおそる、指先に蜜をつけて口に運んだ。
目が、まんまるに見開かれる。
「……あまい! すごく、あまい!」
ヒマリが、頬を、ぱあっと、紅潮させた。
「これ、おいしい! すごい、おいしいよ!」
「だろ? 持って帰って、なんかに塗って食ってもいいんだぜ」
ヴィラがナイフでこぶを軽く割って、中に溜まっている蜜を慣れた手つきで取り出した。
「ヒマリ、収納に容れもんあるか?」
「あるよ、ちょっとまってね」
ヒマリが収納から、小さな陶器の壺をいくつか取り出した。ヴィラはそれに蜜を移していった。三つ、四つと、壺がいっぱいになっていく。
アーシュはその様子を見ながら少し考えていた。
念願のホットケーキが……いや、昔ならばともかく、超越種となってからはそこまでの欲求はなくなっている。だが、ヒマリにそれを与えたら、きっと喜ぶのではないだろうか。
そう思い、今夜はそうしようと思ったところで、もう一つの案が頭に降り注いだ。
(夕食か……ならば、フレンチトーストの方が良いかも知れないな)
アーシュの脳裏に、ベーコンが添えられた、フワフワトロトロのフレンチトーストが浮かんで消えた。食事が必要なくなった今は、昔ほど甘味に渇望することはなくなった。
けれど、ヒマリに付き合って食べているうちに、わずかではあるが、食の楽しみのようなものがアーシュの中に再び芽生え始めていた。
(ヒマリは、まだジャングルに適応しきれていない。昨夜同様、食欲もなくバテているのが想像できる)
そこに、甘くてうまい料理を出してやれば、元気が出るかもしれない。
アーシュは心の中でそう決めた。
ヴィラやヒマリ、そして本人すら気づいていなかったが、表情が僅かに緩んでいた。




