第二十八話 ジャングルの洗礼
次階層への揺らぎを探ったが、大まかな方向しかまだわからなかった。
ひとまず進むことになったが、そこでヴィラが手を上げた。
「先頭は俺に任せろ」
ドラグニルにはジャングルがあり、歩き慣れているのだという。アーシュは森歩きには慣れているが、ジャングルは勝手が違う。ならばと先頭はヴィラに譲り、アーシュはしんがりを守ることにした。
道のない道を、ヴィラの勘を頼りに進んでいく。
歩き始めると、空気の重さがいっそう、はっきり肌に絡みついてきた。
大きく張り出した葉のあいだを縫うようにして進む。足元の地面はやわらかく、踏むたびに湿った土と腐葉の匂いが立ちのぼった。木の根が地面を這って盛り上がっており、油断するとすぐに、つま先が引っかかる。
ヴィラは先頭で、まるで自分の庭を案内するかのような足取りだった。
「いやあ、悪くねえな、ここ。なんかこうさ、空気のもったり感がたまんねえわ」
アーシュには「もったり」の何が「たまらない」のかさっぱり分からなかったが、生まれ育った土地の感触というやつなのだろうと、納得することにした。
ヴィラの一歩後ろをヒマリが歩き、さらに半歩遅れてアーシュが続いていた。
ふと、ヒマリの体が傾いた。
根に足を取られかけて、バランスを崩しそうになっている。すぐに体勢を立て直したが、その動きが、どうもおぼつかない。
「……ふう」
額にうっすら汗が浮き、頬がほんのり紅潮している。前髪が湿って、こめかみに張り付いていた。
「ヒマリ」
「うん……」
アーシュはヒマリの横に並び、右手を差し出した。
「少し、涼しくしてやる」
「あ……砂漠のみたいに?」
「少し違うが、そうだ」
右手を軽くヒマリの顔の前にかざす。風と水の属性を薄く重ねて編みあげていく。風属性で空気を動かしつつ、水属性で外気温を下げていく。そのまま飛ばすと、余計にベタつくため、湿気をあまり纏わせないよう、過剰な分は散らし、乾燥させつつ冷たい風を吹かせた。
ヒマリの体を、さらりと乾いた冷たい風がふわりと包み込んだ。
張り付いていた前髪が、ふっと持ち上がる。
「……あ」
ヒマリの目が少し開いた。
「きもち、いい……アーシュ、ありがと」
「ああ」
(咄嗟に試したが、悪くない)
ヒマリの足取りが、わずかに軽くなった。それを横目で確かめてから、アーシュは歩みを再開した。
「おー、良さそうだな、それ。俺にもかけてくれよ」
「お前は、楽しそうにしてるじゃないか」
「楽しいのと、暑いのは、別なんだよ!」
ヴィラがぶうたれた。
アーシュは小さく息を吐いてから、ヴィラのほうにも風を一本流してやった。「うひょー、こりゃ気持ちいいわ」と、すぐにご機嫌な声に戻った。
*
しばらく歩いていると、頭上の枝がざわりと揺れた。
葉のあいだから、するりと長いものが垂れ下がってくる。緑がかった鱗、二股に分かれた赤い舌。アーシュの拳ほどの太さがある蛇だった。木に巻きついたまま頭をもたげ、ヒマリのほうへ舌を出している。
「ひっ」
ヒマリが息をのんで、半歩下がった。
アーシュは前に出るより先に、指先で小さく風の刃を作った。軽く一振りする。
蛇の頭から胴の途中までが切り落とされ、どさり、と落ちた。残りの胴が、木からするりと滑り落ちる。
ヒマリはぱちぱちと瞬いていた。
「……もう、おわった、の?」
「ああ」
ヴィラが、にやりと笑った。
「俺達にかかれば、こんなん雑魚だぜ」
「二人とも、いつも、すごいよね」
他にも、樹上から飛びかかってくる猿に似た獣や、地面を這う巨大な百足にも出くわした。だがどれも、アーシュとヴィラが手分けすれば、わずかなやり取りで片付いた。ヒマリが手を出すまでもない。
このダンジョンの魔物は、戦いに慣れるのに丁度いい強さだ。だが、もう少し体が環境に慣れてからでいい。
まだ赤い顔をして、荒い息を吐くヒマリを見て、そう思った。
*
「お、いいのが生えてるじゃねえか! おい、みろよヒマリ!」
ジャングルを歩き始めてから二時間と少しが経った頃、ヴィラが弾んだ声で言った。
大きな葉のかげに、見慣れぬ房がぶら下がっていた。バナナのような形だが、色がおかしい。鮮やかなピンク色。そこに、白い水玉模様が散っていた。
「ピンクに、白の水玉……すごい、色だね」
ヒマリが、目を丸くした。アーシュも、思わず眉を上げた。
(毒がありそうだが)
「これな、ピニャっていうんだよ。やべー色だけどさ、実はけっこう、うまいんだぜ!」
ヴィラは房ごと引きちぎると、慣れた手つきで一本もぎ取った。
「毒々しい見た目だが、こうして皮を剥けば……ほら!」
「あ、これ、バナナみたい」
「お? 知ってる果物に似てんのか? まあ、食ってみろよ」
「うん! あ、味も、バナナ、みたい」
ヒマリはひとくちかじって、目を細めた。皮の中身は、ごく普通の淡い黄色だった。さっきまで重そうだった足取りが、口を動かすあいだだけ、ふっと忘れられたようだった。
ヴィラがにっと笑った。
「ジャングルには他にもうめーのがいっぱいあるんだ。見っけたらまた教えてやるよ」
「わあ……」
ヒマリの声に、はじめて熱がこもった。
アーシュはその様子を、横で聞いていた。
森のことなら、たいていは自分のほうが詳しい。だが、ジャングルはアーシュの庭ではない。
普段、採取のたびに首を傾げているヴィラが、ジャングルでは生き生きとしている。アーシュが知らない情報を知る、頼りになる存在として目に映った。
*
まだ日は高かったが、今日は早めに切り上げることにした。
ヒマリは、ピニャを食べた直後こそ少し元気になった。だが、まだこの暑さと湿気に慣れていない。思っていた以上に、体力を削られているようだった。
そこまで急ぐわけではない。無理をさせる必要はなかった。
開けた一角を見つけて、ヒマリに結界玉を出させた。
「ここに、おく、ね」
収納から取り出して、地面にことりと置いた。
ふわりと月光色の光が周囲に広がっていく。範囲は試した通り、家と焚き火スペースがちょうど収まるくらいの広さだった。
光のなかに、ヒマリが森の家を出す。
いつもの、こぢんまりとした木の家。蒸した緑のなかにぽつんと現れたその姿は、なんだか辺りから浮いて見えた。
ヒマリが扉を押し開けて中に入ると、乾いた空気と、いつもの匂いが迎え入れた。
「ふぁ……」
ヒマリが、深く息を吐いた。
(緊張が抜けたか)
アーシュは、何も言わずに台所に向かった。
*
台所に立ちながら、アーシュは少し考えていた。
今日のヒマリはピニャに目を輝かせたあの瞬間以外、ずっとくたびれた顔をしていた。今は家に入って肩の力こそ抜けたが、テーブルにつく前にソファに腰を下ろしたまま、しばらく動こうとしない。
(何か、もうひと押し、いるな)
ふと、思いついた。
居間のほうへ顔を向ける。
「ヒマリ」
「ん……?」
「ミルクとタマゴを、出してくれ」
ヒマリはソファから立ち上がって、ちょこちょこと台所まで来た。手のひらの上に、青磁色のしゃれた小瓶がぽんと現れる。中にはミルクがたっぷり詰まっている。
「これで、たりる?」
「ああ。助かる」
「たまご、ここに、おくね」
ヒマリは、タマゴを置くと、そのままじっと、アーシュの手元を見ていた。
アーシュは、ピニャを二本、皮を剥いてざくざくと細かく切った。氷魔法で軽く冷やしたミルク、砕いた氷、そして浄化した卵黄と一緒に、台所の棚から出してきた木の容器に入れる。
木のふたをかぶせて、上から手のひらでとんとん、と叩く。ヴィラがソファのほうから、興味深げに声をかけた。
「お、なんだなんだ。それピニャだろ? いったい何を作る気なんだ?」
「まあ、見てろ」
とん、とん、とリズムよく叩いていくと、風属性のマナが容器の中身を渦巻かせていった。中で、材料が混じり合っていく。
一度魔法を止め、味見をすると、僅かに砂糖を加え、再び撹拌していく。今度は、なにやら冷やしながら混ぜているようだ。
やがてふたを開けると、まろやかに泡だった、淡い黄色の液体がそこにあった。
ねっとりとした液体を三つのグラスに注いでテーブルに運ぶ。
「飲んでみろ」
「これ……もしかして」
「飲めばわかる」
ヒマリは、両手でグラスを受け取って、こく、とひとくち飲んだ。
その瞬間、肩がぴくっと跳ねた。
「おいしい……っ、すごく、おいしい……っ!」
目が、まんまるになっていた。ぱあっと頬に色が戻る。さっきまでくたびれていたのが嘘のように、グラスに口をつけ、もうひとくち、もうひとくち、と飲んでいく。
その隣で、ヴィラが一気にグラスをあおった。
しばらく動きが止まった。
「……っ、おお……っ、おおお……っ、なんだこりゃあ! うめえ! うめえぞアーシュ! なんだこの飲み物は!」
「シェイク、だよね。むかし、のんだこと、あるよ」
「ああ、そうだ。ピニャシェイクだ」
「シェイク! 覚えたぞ! また作ってくれ!」
「気が向いたらな」
ヒマリのグラスは、もう半分以下になっていた。鼻の頭に、薄黄色の泡をひとつ乗せたまま、にこにこと笑っている。その顔を見て、アーシュは、ほんの少し口の端を緩めた。
*
夜、家のすぐ外で、焚き火がぱちぱちと音を立てていた。
結界玉の光がやわらかく周囲を包んでいる。蒸した夜気のなかでも、結界の内側だけはどこかさらりとしていた。
ヒマリは家の中でもう眠りについている。
夕食後に、もう一度作ってやったシェイクの残りを大事そうに飲み干すと、テーブルに伏せるようにして、すっと寝てしまったのだ。
アーシュがそっとベッドへ運んだとき、かすかに「ふふふ」と笑った気がした。
ヴィラがあぐらをかいて空を見上げている。葉のすき間からのぞく星は、いつもよりずっとぼやけて見える。
「今日のあいつ、かなりまいってたな」
ぽつりと、ヴィラが言った。
「そうだな」
「ピニャをよ、うまそうに食ってたな」
「……ああ」
アーシュは、火に小枝を一本くべた。
「ドラグニルでは、ああいうのをよく食うのか?」
「うん? まあな。うちの方じゃ、ああいうのがそこら中になっててな。子どもはだいたい、ああいうのを腹いっぱい食って、勝手にでかくなってくんだよ」
「……そうか」
「ああ、前にうちの国に来た時は、ろくに街から出なかったもんな」
「というよりも、城から出してもらえなかったな」
「はは、親父に気に入られたんだから仕方ねえだろ」
「……毎日、稽古に付き合うのは、大変だった」
「そういう国なんだよ」
ヴィラの口調には、いつもの粗野な勢いとは違う、ゆったりとした懐かしさが混じっていた。アーシュは、それを横で聞きながら、火を見つめていた。
火の音と、夜の遠い鳥の声だけが、結界の内側に静かに続いていた。




