第二十七話 結界玉
これまでの野営は、基本的にセーフゾーンの中で済んでいた。
アーシュは最短ルートを見つけることができる。そのため、半端な場所で夜を迎えることはほとんどなく、日が暮れる前にはセーフゾーンへ辿り着けていた。
仮に間に合わなかったとしても、アーシュには睡眠の必要がない。夜番の心配だけなら、初めからなかった。
だが、魔物の気配がある場所で眠るとなれば話は別だ。屋根の下にいても、心まで休まるとは限らない。特にヒマリには、できるだけ安全な場所で眠らせてやりたかった。
しかし、十六階層からは、それも難しくなるという。
そこへ来て、この結界の玉だった。
どこでも野営地を作れる結界玉。これがあれば、歩く距離も、休むタイミングも、自分たちで決められる。
(……至れり尽くせりだが)
アーシュは、内心でわずかに訝しんだ。
石板で問いを出して試した者に対して、その先の苦労まで先回りして補ってくれる。これを置いた者の親切心は、なかなかのものだった。
だからこそ、わざわざ攻略を手助けするようなやり方が気になっていた。
「アーシュ、この玉、もらってもいいのかな?」
ヒマリが祭壇の前で、両手を後ろに組んでおそるおそる訊いてきた。勝手に取ってはいけないと思っているらしい。
「ああ。石碑に、ひとつ取って行けとあるからな」
「うん。じゃあ、もらっちゃう」
ヒマリは両手で玉のひとつをそっと持ち上げた。手のひらに収まるくらいの大きさだ。
「あったかい……」
ヒマリがぽつりと言った。
「あったかいのか?」
「うん。すこしだけ、ぬくもりが、あるよ。ほら、もってみて」
ヒマリが差し出した玉を受け取ってみると、確かに、ほんのりと温かかった。
生き物の体温というほどではないが、無機質な石とも違う。マナの流れが、玉の内側で穏やかに循環しているのが感じられた。
「ヴィラ、お前も持ってみろ」
「どれどれ」
ヴィラが玉を受け取って手のひらに乗せた。それから、ぐぬぬと顔をしかめた。
「あったけえが、なんであったけえのかわかんねえな!」
「まあ、そうだろうな」
「予想通りだって顔でみんじゃねえよ!」
ヴィラがぶはっと笑って玉をヒマリに返した。
アーシュは玉を見ながら少し考えた。
「ヒマリ、ここにいるうちに、試してみよう」
「ためす?」
「ああ。この玉を地面に置いたら、どれくらいの範囲に結界が張られるのか。それを確かめておけば、これから使う時に困らん」
「うん、わかった!」
ヒマリが、開けた場所のちょうど真ん中に、ことりと玉を置いた。
その瞬間――
玉から、ふわりと淡い光が広がった。光は地面を伝って、円形に広がっていく。やがて、光は薄れて見えなくなったが、代わりに、空気の質がわずかに変わったのが分かった。
アーシュは、マナを広げて、結界の輪郭を探った。
「……ほう」
「どうだ、アーシュ」
「結構な広さだな」
アーシュは輪郭の端を指で示した。
「家がすっぽり収まる。それに加えて、焚き火を起こすスペースも、余裕で取れそうだな」
「マジか! そりゃすげえ」
ヴィラが、感心した顔で頷いた。
「空き地がありゃ、どこでも家を出せるし、外で焚き火するのまで安心だってか。なんともまあ、過保護な玉っころだな」
ヒマリは結界の中をくるくると歩き回って、輪郭を踏みそうな位置で立ち止まった。
「ここから、こっちまでだね」
「そうだ」
「ひろいね! まのもりの、おうちのまえと、おんなじくらい、ひろい!」
ヒマリは、嬉しそうに笑った。
魔の森にあった頃、家の前には開けた庭のような場所があった。焚き火を起こしたり、ヒマリが種を植えたり、洗濯物を干したりしていた、あの場所。結界の中の広さは、ちょうどそのくらいの大きさだった。
「これなら、夕飯食った後に訓練とかもできるな」
「そうだな」
アーシュは、頷いた。
ヒマリが結界の中央に戻って玉をそっと拾い上げた。光はすぐに消え、結界も解けた。
「これ、わたしがもってていい?」
「ああ。大事にしまっておけ」
「うん!」
ヒマリは両手で玉を包むようにして、収納にしまい込んだ。
*
三人並んで円形の石板の前に立った。
淡く青く光る紋様。これを踏めば、十六階層に転移するらしい。
「準備はいいか」
「おう」
「うん」
アーシュが先に石板の上に足を踏み入れた。
その瞬間――
空間が、ふっと、切り替わった。
水鏡をくぐった時と同じ、赤い扉を抜けた時と同じ、あの感覚。視界がほんのわずかに歪み、足元の感触が変わる。
次の瞬間、アーシュは別の場所に立っていた。
まず、空気が違った。
ぶわっと、湿った熱気が顔を打った。森エリアの軽い湿り気とは、桁が違う。肌に張り付くような重さの空気。息を吸うと、口の中まで湿気で満ちていく。
そして、頭上を見上げても空は見えなかった。代わりに、分厚い葉が幾重にも重なって、緑の天井を作っている。葉の隙間からは、ぎらぎらとした光が差し込んでいた。日光が、これまでの森とは比べ物にならない強さで降り注いでいる。
足元には、大きな根が地面を這い、低い位置には太い蔓がぐるぐると絡みついていた。色とりどりの花が、不自然に大きく咲いている。どこからか、聞いたことのない鳥の――いや、もしかしたら鳥ですらないかもしれない――甲高い鳴き声が、奥のほうから響いてきた。
「うわっ、なんだここ……あっつ!」
ヴィラが続いて転移してきた。すぐに、額に汗が浮き始めた。
「アーシュ、ここは……」
「ああ。森……ではあるのだろうな」
アーシュも、辺りを見回した。
森ではある。だが、これまでの森とは別物だった。
ヒマリが転移してきた……と、思ったら、うっと短く呻いて立ち止まった。
「あつい……アーシュ、ここ、森……なのかな?」
「ああ、森には変わりはない。だが、別の種類の森だな」
腕組みをしてあたりを見渡していたヴィラが、かっと目を見開いた。
「そうだよ、こりゃあ、あれだ! ジャングルだよ!」
ヴィラが、額の汗を、手の甲でぐいと拭った。それから、ぱっと、笑顔になった。
「いやあ、なんだか懐かしいぜ!」
「懐かしい……?」
「ああ、アーシュは行ったことがなかったか。ドラグニルの南部によ、こんなジャングルが広がってんだ。子どもの頃、よく遊びに行ったもんだ」
ヴィラは、上を見上げて葉の天井をじっと眺めた。
「いやー、まさかこんなところにジャングルがあるとはねえ」
嬉しそうなヴィラの隣で、ヒマリが玉のような汗をかいているのが見えた。
「ヒマリ、大丈夫か?」
「うん……だいじょうぶ。でも、あつい、ね。砂漠の、暑さとは違う……」
ヒマリは、両手で顔をぱたぱたと扇いだ。
その姿は、これまでのダンジョンの中で見せていた、わくわくとした顔とは、少し違っていた。
(……ここは、ヒマリには少しきついかもしれんな)




