第二十六話 懐かしい空気
ほかほかと湯気を立てて、ヒマリが風呂から上がってきた。
まだ、少し濡れている髪に手ぬぐいを被せている。青い髪紐を棚から取ると、ぺたぺたとベッドへ向かっていって、その縁にちょこんと腰掛けた。
足をぶらぶらと揺らしながら、ヒマリは窓のほうを見た。
月光が森の梢を照らしていた。
ダンジョンの中だというのに、空には月が浮かんでいた。それも、まんまるに近い大きな月だった。淡い銀色の光が葉の上を撫で、森の奥の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「アーシュ」
ヒマリがぽつりと言った。
「どうした」
「ちがう森だけど、なんだか、なつかしい景色だね」
ヒマリは窓の外に顔を向け、夜の森を見ていた。月光に照らされた葉の影。風のない夜。家の中の暖かさと、家の外の静けさ。
それは、確かに――魔の森の夜に、似ていた。
「ああ」
アーシュは、短く頷いた。
「俺も、そう思う」
「うん」
ヒマリはふわりと笑った。それから毛布を引き寄せて、もぞもぞとベッドにもぐり込んだ。
「ねえ、アーシュ」
「なんだ」
「こうして、このおうちで寝るのってね、なんだか、おちつくの」
「……そうか」
「うん。どこに、行ってもおうちはいつも同じ。アーシュが居て、わたしがいるんだ。だからね、ここに帰るとね、おちつくんだ」
ヒマリは、毛布を鼻のあたりまで引き上げて、目を閉じた。
アーシュは、その横顔を見ていた。
(……俺がいて、ヒマリがいる家、か)
森にあった頃の家。砂漠にあった時の家。星空の下の家。地の底の家。そして今、ダンジョンの森の中の家。
一日の終わりに、ただいまと言って家に帰る。その当たり前をこの「おうち」は満たしてくれる。
暖炉の前にはアーシュがいて、ベッドの中のヒマリに声を返す。
そんな森の家が、いつの間にか、ヒマリにとって帰る場所になっていた。
(いつの間にか、ヒマリが居るのが当たり前になっていたな……)
暖炉の薪がぱちりとはぜた。
ヒマリの寝息が、すぐに聞こえてきた。
ヴィラが、椅子に座って剣の手入れをしていた。砥石をすうっと滑らせる音だけが、静かに響いている。
「……なつかしい、ねえ」
ヴィラがぽつりと呟いた。
「あの物騒な森も、ヒマリにとっちゃ故郷なんだなあ」
「故郷……か」
「帰りたい場所があるって、いいもんだぜ? ま、あいつは持って歩いてるけどな」
「……そうだな」
アーシュは小さく口を綻ばせ、暖炉の火を見た。
ヴィラはわずかに目を細めてそれ以上は何も言わなかった。砥石の音だけが、また静かに続いた。
*
翌朝。
ヒマリが両手をかざすと、家は空気に溶けるように消えた。
あとには、朝日に照らされたセーフゾーンの開けた場所だけが残った。
「では、行くか」
「おう。次はどんな景色だかな」
ヴィラが軽く伸びをした。
マナの揺らぎは、奥のほうから感じた。これまで通り、その源を辿ればよいはずだ。
三人は森の奥へと歩き始めた。
*
歩き始めて三十分ほど経った頃。
ヴィラがふと足を止めた。
「お、アーシュ。あれ、なんだ?」
ヴィラが顎で示した先。木々の間を抜けた、ぽっかりと開けた場所にそれはあった。
地面の草を押しのけるように据えられた、大きな石の床。それは直径三メートルほどの円形で、表面には複雑な紋様が彫り込まれている。紋様の溝が、淡く青く光っていた。
「これは……」
アーシュが近づいた。
「水鏡や赤い扉と同じ系統の気配だ。おそらくこれは転移装置だ」
「みろよ、ご丁寧に書いてやがるぜ」
ヴィラが顎で指した先には、小さな石碑があり『十六層』と刻まれていた。
そして、その少し先に、さらにもうひとつ別のものがあった。
祭壇のような低い石組み。膝丈ほどの高さの台で、上面に窪みがいくつか並んでいる。窪みの中には、それぞれ透明な玉が収められていた。
玉は水晶のように見えた。だが、水晶のような硬質の冷たさではない。月光のように柔らかな光を内側からほのかに放っている。
「アーシュ、これ、きれいだね」
ヒマリが祭壇に駆け寄って、目をきらきらとさせた。
「なんだろね、これ」
「分からん……が、そこに答えがありそうだ」
アーシュは祭壇の脇に視線を送った。
そこには石碑があった。膝丈の祭壇よりも少し高い、人の腰ほどの高さの石碑。表面はすべすべしていて、何の文字も刻まれていない。
「ほんとだ! なにか書いてあるのかな……わあ!」
ヒマリが近づくと、その表面がぼうっと淡く光り、文字が一文字ずつ浮かび上がってきた。
「げ、また謎掛けかあ?」
ヴィラがうんざりとした顔で覗き込んだ。
文字は共通語で記されていた。アーシュはそれを低い声で読み上げた。
『ここまで辿り着けた君ならば、その先へも至れよう』
『されど、ここから先の道のりは、これまでより険しく長い』
『食料の備えは十分か。野営の用意はあるか。セーフゾーンまで辿り着かねば、安んじて休めぬというか――ならば、ひとつ朗報を授けよう』
『傍らの祭壇に、いくつかの玉があるのが見えるであろう。そのうちひとつを、携えていくがよい』
『これは結界の玉。このダンジョンの中でしか効を成さぬが、地に置けば、その周囲には魔物が近寄らぬ』
『これより先は広大なり。じっくりと身を休め、糧を取り、十分に英気を養うて、攻略するがよい』
最後の文字まで浮かび上がると、石碑はゆっくりと光を収めた。
しん、と空間が静まり返った。
ヴィラが、ぽかんと口を開けてから、ぐっと拳を握った。
「すっげえいいのが手に入ったな!」
ヴィラが、にっと笑った。
「つまりよお、セーフゾーンをみっけなくても、どこでもゆっくりと寝られるってことだろ?」
「そうなるな……」
アーシュは頷いた。
ヒマリは祭壇の玉を見つめていた。
月光のような淡い光が、小さな手の中に映っている。
森の夜を思わせる静けさの中で、その玉だけが、ほのかに温かそうに光っていた。




