第二十話 赤い扉
翌朝。
森の家の中で目を覚ましたヒマリが、寝ぼけ眼で、もそもそとベッドから這い出してきた。
光る草も、空も見えない。ダンジョンの中には、朝も夜もない。それでも、ヒマリはいつも通りの時間に目を覚ますことができた。
「……おはよ、ございます」
「ああ、おはよう」
ヒマリが顔を洗いに行っている間に、アーシュはテキパキと朝食の支度を進めた。
昨夜の残りのスープを温め、パンを焼き、簡単なサラダを用意した。
腹を掻きながら現れたヴィラが「ダンジョンで生野菜とか贅沢だわ」と、嬉しそうな顔をしていた。
ヒマリが戻ったので、三人で手早く朝食を済ませた。
家から出ると、ヒマリが両手を高くかざした。
間もなくして森の家が空気に溶けるように消え、あとには岩に囲まれたセーフゾーンの壁と、石でできた転移装置だけが残った。
「よし。今日は十階層まで進むぞ」
ヴィラが剣を軽く振り、鞘に納めた。
「ところでアーシュ、赤い扉の位置は知ってんだよな?」
「ああ、聞いてきた。正規ルートから外れたところにあるらしい」
アーシュが地図をヴィラに見せた。
「ああ……この辺かあ。ぜってえ通らねえとこだわ」
「そうだな。俺達が通った道と、真逆の方向だ」
「セーフゾーンからも離れてんじゃん。これじゃ行くやつあんまいねーだろ」
「そうだな」
二人が見ている地図にヒマリが興味を示して覗き込む。
「ここに、あかいとびらがあるんだ……」
ヒマリがその言葉を口の中でころころと転がした。
「どんな、とびらなのかな」
「行けば分かるだろう」
「……むう。また、それ」
ヒマリが、少し、口を尖らせた。ヴィラが、ぶはっと笑った。
「俺らも見たことねえからなあ。昔来たときゃあ、存在すら知らなかったしな。だから、俺も楽しみにしてんだ、ヒマリも一緒にワクワクしてようぜ」
「ワクワク……うん、そうだね」
ヒマリが、こくんと頷いた。それから、何か期待に満ちた表情を浮かべ、ヴィラに笑われていた。
*
六階層からの道のりは、五階層までと似たようなものだった。
ごつごつした岩肌の通路に低い天井。そして、壁に埋まった淡く光る石。
魔物も相変わらず現れた。岩の色をした蜥蜴。天井から落ちてくる毛玉。岩の隙間を走る節足の魔物。
そのたびにヴィラが、あるいはアーシュが手早く片付けた。
ヒマリはもう、岩蜥蜴が壁から這い出してきても悲鳴を上げなくなっていた。一歩下がって、二人が片付けるのを見て、それから、素材になる部分を収納にしまう。
「だいぶ慣れたな」
ヴィラが感心したように言った。
「うん。もうこわくないよ」
ヒマリが岩蜥蜴の鱗を収納にしまいながら、得意げに言った。
「ヴィラとアーシュがやっつけてくれるってわかってるから」
「おう、任しとけ」
ヴィラがにっと笑った。
アーシュはその横顔を見ていた。
かつてヒマリは、物音ひとつで肩を震わせる子だった。アーシュが急な動きを見せても怯えていた。それが、今は岩から魔物が這い出してきても、落ち着いて自分の仕事をしている。
(……強くなった、というのとは、少し違うな)
ヒマリは戦えるようになったわけではない。ただ、誰かに守られると言うことを、信じられるようになっただけだ。
(これも……足りてきたということになるのか)
六階層を抜け、七階層へ。七階層を抜け、八階層へ。
階層が下がるたびに、岩肌の色が少しずつ、濃くなっていった。湿り気が増し、光る石の数が増えていった。
「なあ、アーシュ」
八階層の半ばで、ヴィラが声をかけてきた。
「魔物の数、やっぱりおかしいな」
「ああ」
アーシュもそれを感じ続けていた。
多すぎず、少なすぎない。長く放置されたダンジョンとは思えない、ちょうどいい数の魔物。
「ほんとに誰かが間引いてんのかな。俺ら以外の気配をまったく感じねーぞ」
「ああ……だが」
アーシュは通路の先を見た。
「もうすぐ、十階層だ。赤い扉を見れば、何か、分かるかもしれん」
*
九階層を抜けると、通路がふいに開けた。
広い空間だった。これまでのセーフゾーンと同じ、岩の壁に囲まれた丸い空間。壁に埋まった光る石が、その一帯を、淡く照らしていた。
「セーフゾーンだ」
ヴィラが、言った。
「ここの次が、十階層?」
「ああ、そうだ。明日はここから十階層に下り、地図の場所まで行く」
その日は、九階層と十階層のあいだのセーフゾーンで夜を過ごすことにした。森の家を出し、夕食をとり、軽い話をして、ヒマリは早めにベッドにもぐり込んだ。明日への期待のせいか、寝つきはよく、毛布をかけ直してやる頃には、もう寝息が聞こえていた。
*
翌朝、三人は十階層へと下りた。
十階層は、これまでの階層よりも、ずっと広かった。通路がいくつも枝分かれし、岩肌に開いた穴が、四方八方へと伸びている。光る石は少なめで、空気は、ひんやりと冷たかった。
アーシュは地図をもう一度確かめた。正規ルートは十階層の中央を、まっすぐ突き抜けて十一階層へと続いている。
だが、目的の赤い扉は、その正規ルートから大きく外れた場所にある。
「こっちだ」
アーシュが、地図の指し示す通路へと足を向けた。
「普通に考えりゃ、アホみたいに遠回りだな。そりゃ俺が通らねえわけだよ」
ヴィラが苦笑しながら後に続く。
「ちゃんと知ってる奴なら奥の鉱脈にまっしぐらだろ? こんな脇道なんざ、見向きもしねえわ」
「開けられないとわかってから、こっちに来るものはあまりいなかったらしい」
「そりゃそうだろ。鉱脈がねえとこに、ドワーフはわざわざこねえよ」
通路は地図に従って進むと迷うことはなかった。途中、岩蜥蜴と節足の魔物が出たが、ヴィラが素早く片付けた。
しばらく歩くと通路がぱっと開けた。
行き止まりの小さな空間だった。これまでのセーフゾーンよりもずっと狭い。岩の壁に囲まれた四角い部屋のような場所だった。
その奥の壁にそれはあった。
赤い扉。
岩の壁にぴたりとはめ込まれたように立っている。人の背丈より少し高い。表面は深い赤――塗料ではなく、岩そのものが赤く染められているように見える。
取っ手も蝶番もない。ただ、赤い一枚の扉が壁にはまっている。
「……これか」
ヴィラが扉に近づいた。手を当て、押し、横に滑らせようとする。びくともしない。
「ふん。なるほど、開かねえわけだ。叩き割るって手も……」
「無理だろうな」
アーシュが首を振る。
「ドワーフ達の性格を考えてみろ」
「ああ……考えるより先にハンマーを出す連中だもんな」
「傷ひとつ付けられていない、つまりそういうことだ」
「ダンジョンの壁と同じで壊せねーってか」
ヴィラが、肩をすくめた。
「アーシュ、これが、なぞときなのかな?」
アーシュはヒマリが指さす扉の脇の石板に目を留めた。立て看板のような四角い石板が、地面から突き出すように据えられている。膝丈ほどの高さで、ヒマリが見るにはちょうどよい目線だった。
表面に共通語の文字が彫り込まれている。
アーシュは低い声でそれを読み上げた。
「『尻に目をつけると違う鳥になるのは何だ』」
ヴィラがぽかんと口を開けた。
「……は? それが謎解きか?」
「ああ、そうらしい」
「意味がわからねえこと言うんじゃねえよ」
「……俺に言うな」
アーシュはその問いをもう一度心の中で読んだ。尻に目をつけると、違う鳥になる。
(……これは)
胸の奥が小さくざわついた。子どもの頃に誰かが言っていたような、聞き覚えのある形の問いだ。
ふと、横を見ると、ヒマリも石板をじっと見ていた。その目が、ほんのわずかに丸くなっている。
アーシュとヒマリの目が合った。
言葉にはしなかった。だが、二人とも同じことを考えていた。
(なぞなぞ、か)
(なぞなぞ、だ)
「お前らなんで顔を見合わせてんだ?」
ヴィラが不思議そうな顔をした。
「……俺の世界の子どもの遊びに、これと似たものがあった」
「子どもの遊び?」
「ああ、言葉遊びのようなものだな」
その時、扉の前にしゃがみ込んだヒマリが小さく声を上げた。
「あっ……」
石板の下の縁の、ほんのわずかなくぼみ。そこに、小さな文字が彫り込まれていた。大人が立ったままでは見落としてしまう、背の低いヒマリだから気づけた位置だった。
ヒマリがその文字をじっと見つめた。そして、ぱあっと顔を上げた。
「アーシュ! ここみて、にほんごだよ!」
「……なに」
アーシュが腰を落として覗き込んだ。
ヒマリが指さす場所に、小さな文字が彫られていた。なめらかな見覚えのある形。間違いなく日本語だった。
「読めるか、ヒマリ」
「うん、大丈夫!」
ヒマリが指でなぞりながら、たどたどしく読み上げた。
「『ヒントは、この、文章を、書いている、文字、だ。この、文字の国で、うまれた者なら、とけるだろう』」
ヒマリが、顔を上げた。
「……これ、日本のこと、だよね?」
「ああ」
アーシュはゆっくりと頷いた。
「つまり、日本にいる鳥と考えていいはずだ」
「そっか、日本の、とりさん……」
ヴィラがパチパチと瞬きをしてから、がっくりと肩を落とし、地面にどっかりと座り込んだ。
「……そりゃ、だーれも解けねえわけだよ! 鳥なんざこっちの世界にもいくらでもいるけどよ、日本にしかいねえ鳥の名前なんて知るわけねえだろうが!」
ヴィラが大声でぼやいた。
アーシュは、立ち上がって扉を見上げた。
赤い、開かない扉。脇には共通語の謎掛け。だが、本当のヒントは、日本語で、背の低い者にしか気づけない位置に隠されていた。
(これを作った者は、日本語を知っている……例の賢者、か?)
もし、あの賢者が、ここに何かを残していたのだとしたら。ドワーフが何人挑んでも解けなかった理由が、ようやく、見えてきた。
「アーシュ……だいじょうぶ?」
ヒマリが不安そうに見上げてきた。アーシュは軽く首を振って、ヒマリの前にしゃがんだ。
「大丈夫だ。少し考えごとをしていた」
「だいじょうぶか? 俺はまったくわかんねえから、任せたぞ!」
ヴィラが地面に座ったまま、両手を上げた。
「ああ、この謎掛けは、ヒマリと俺にしか解けないだろうからな。ヒマリ、やってみろ」
ヒマリがぐっと唇を引き結び、それからこくりと頷いた。目に力がこもっている。
「……うん。やってみる」
*
「『しりに目をつけると、ちがう鳥になるのはなーんだ』」
ヒマリが石板の文字をもう一度、口に出して読んだ。それから、ぶつぶつと繰り返す。
「しりに、めをつけると……ちがうとりに、なる……」
アーシュはヒマリの隣に立った。口は出さない。ただ、隣で考える。
ヒマリの背中が小さく揺れた。考えるたびにつま先がぴこぴこと動く。
「うーん……」
ヒマリが、ふと、顔を上げた。
「アーシュ。なぞなぞって、ことばあそびだよね?」
「ああ、そうだ」
「だからね、しりって、おしりじゃないかもしれないの」
「……ほう」
「えっとね、なぞなぞだとね、おしりって、もじの、うしろってこと、おおいの。あたまとか、おしりとか、よく、いうの」
ヒマリが、自分の指をぴっと立てた。
「だから、とりの、なまえの、いちばんうしろのもじ。そこに『め』をつけるの。そうすると、ちがうとりに、なるってことだとおもうんだ」
ヴィラが、ぽかんと口を開けた。
「……はあ?」
「いちばん、うしろが『め』のとりは……あ、カモメだ! かもめは、にほんに、いるとりだもん!」
ヒマリがぴょんと跳ねた。
「『カモメ』から『メ』をとったら、かも……カモだ! カモのおしりにメで『カモメ』 こたえは『カモ』だよ!」
その瞬間――
石板がぼうっと、淡く光った。彫り込まれた文字が、ひとつ、またひとつと、淡い金色に輝いていく。
光は、石板の縁を伝って地面を走り、赤い扉の表面へと上っていった。扉の中央に、淡い光の輪が生まれる。
ヒマリが、ぱあっと、顔を輝かせた。
「アーシュ! ひかった!」
「ああ」
アーシュは、その光を見ていた。
石板の音声か、それとも空気そのものが響いているのか、よく分からない声が、低く、しかし朗らかに、空間に満ちた。
『よくぞ、第一の問いを解き明かした。次の問いも解けるかな?』
ヴィラが、地面から跳ね起きた。
「よっしゃあ……って、まだ、あんのかよ!?」
アーシュは思わず口の端をわずかに上げた。
(……これを作った者の遊び心はなかなか厄介だな)
ヒマリは、わくわくとした顔で石板を見つめていた。
「アーシュ! つぎの、もんだいだって!」
「ああ。心して、いどめ」
「うん!」
扉の中央には、三つの小さな輪が並んでいて、そのうちの一つだけが、淡く光を宿している。
謎掛けの本番は、これからのようだ。




