第十九話 地の底のおうち
森の家が地の底に建っている。
岩に囲まれた五階層前のセーフゾーン。その真ん中に、丸太を組んだ小さな家が、どっしりと収まっている。煙突も、窓も、木の扉も、何ひとつ変わらない。森にあった時と、砂漠にあった時と、星空の下にあった時と、まるきり同じ家だった。
ヴィラがその家を見上げて、しみじみとした声で言う。
「……なあ、アーシュ」
「何だ」
「俺ぁ、何度見ても慣れねえぜ」
ヴィラが家にずかずかと近づいて、丸太の壁をぺたぺたと触った。
「砂漠でも世話になったがよ。ダンジョンのド真ん中だぜ、ここ。セーフゾーンに家が建ってやがる」
ヴィラが木の扉をぎいと開け、中を覗き込む。それからぐるりと振り返った。その顔にじわじわと笑みが広がっていった。
「そういや、この家って風呂があるんだったな」
「ああ、ある」
「ダンジョンの中だぞ。地下五階だぞ。なのに、湯に浸かれるってのかよ」
ヴィラが家の中へずいと足を踏み入れた。アーシュもその後に続いた。
家の中はいつもの家の中だった。暖炉、テーブル、そして椅子が四つ。奥にはヒマリのベッドと小さな台所。扉の向こうには風呂場があった。
ヴィラが台所の前で腕を組んだ。
「考えてもみろよ。普通さ、ダンジョン潜りってのはさあ」
ヴィラが指を一本ずつ折っていった。
「かてえ床の上に丸まって寝る。毛布があったら上等だ。んで、飯は不味い携帯食をぼそぼそかじって、ぬるい水を飲む。水は貴重だから、体を拭くことも出来ねえ。だから汗と埃にまみれて何日も過ごすもんさ」
ヴィラが、ぱっと手を開いた。
「それがどうだ。屋根の下で眠れて、熱い飯が食えて、湯にも浸かれる……ヒマリがいりゃあ、ダンジョンも快適なもんだ」
ヴィラがベッドの上で足を揺らしているヒマリの頭をわしわしと撫でた。
「風呂つきの家を丸ごと持ち歩けるとかさ、マジ最高かよ」
ヒマリが撫でられながら、えへへと笑った。
「アーシュのおうち、すごいでしょ」
「すげえのはそれを収納できるお前だっつーの」
アーシュはその様子を見ていた。
ヴィラの言うとおりだった。普通は、こうはいかない。昔、オリハルコンを掘りに来たとき。アーシュとヴィラは、硬い岩の上で夜を明かした。水と食料を優先したため、背嚢に毛布を入れる余裕が無かった。冷たく硬い床の上で丸まって、ただ静かに耐え抜いたものだった。
それが、当たり前だった。
(……ヒマリが来てから)
当たり前がひとつずつ書き換えられていく。地の底にも屋根の下の夜がある。
常識からはかけ離れている。だが、それが悪いとは思わなかった。
*
夕食の支度はアーシュがした。
台所に立って鍋を火にかける。その横では、ヒマリが収納から次々と材料を出していた。炉都で買った根菜に厚めに切った獣肉。それと、ナハル・ファリスの市場で買った、香辛料。それから――屋台で買った、揚げ物や、串焼きだ。
屋台のものは、まだ湯気を立てていた。
「ヒマリ。これはいつ買ったものだ」
「えっとね、青いお魚がいた街だよ」
「ナハル・ファリスか……それがまだ熱いのか」
「うん。とまってる、ばしょに、いれたから」
ヒマリが得意げに説明した。
「とまってる、ばしょのなかはじかんがすすまないの。だからあついまま」
「前にそんなこと言ってたな。んなこと、リュッカにもできねえだろうに……どれ、ひとつ」
ヴィラが横から手を出し、ひょいっと串焼きをひとつ、取っていった。
ふうふうと息を吹きかけてから、ぱくりとかじる。
「あっつ! ほんとにできたてじゃねえかよ」
ヴィラが、目を丸くした。
「だいぶ前に買ったもんだろ。なのに、焼きたてだ……まったく、便利な弟子を持ったもんだぜ、アーシュ」
アーシュは鍋に根菜を放り込んだ。次に肉を加え、塩と香辛料をひとつまみずつ。
鍋がことことと、煮え始めた。湯気が立ち、家の中にいい香りが満ちていった。
ヒマリが鍋を覗き込んだ。背伸びをしてつま先立ちで覗き込んだ。
「いいにおい」
「もうすぐだ。座って待っていろ」
「うん」
ヒマリが椅子に座り足をぶらぶらとさせた。
アーシュはそれをちらりと見て、味見をし、塩をわずかに加え、蓋をした。
スープが出来上がると、アーシュが三つの器にそれをよそった。
湯気を立てる器が、テーブルに並んだ。ダンジョンの中の小さな家の小さなテーブルに、湯気を立てる温かい食事が並んだ。
「いただきます」
ヒマリが手を合わせた。
スープを口に運んだ。
「……おいしい」
ヒマリがふわりと笑った。
アーシュはその「おいしい」を聞いた。
森で初めてヒマリがそれを言った日のことを、もうずいぶん遠くに感じる。あの頃のヒマリは、食べていいかどうか、いつもアーシュの顔色を窺っていた。粥を、おそるおそる口に運んで、それから、こわごわと「おいしい」と言った。
今は違う。ヒマリは当たり前のように手を合わせ、当たり前のように「おいしい」と言う。
(……いい夜、というのかもしれない)
窓の外には岩しかない。空も、星も、見えない。
それでも、家の中は、温かかった。
*
夕食のあと、ヒマリは家の風呂に入った。
湯から上がったヒマリは、ほかほかと湯気を立てていた。髪がまだ少し濡れている。青い髪紐は外して大事そうに手に握っていた。
「アーシュ。おふろ、あったかかった」
「そうか」
「ダンジョンなのに、おふろにはいれるって、おもしろいね」
ヒマリが不思議そうにそう言った。それから、くすぐったそうに笑った。
ヴィラがその隣で腕を組んで、うんうんと頷いていた。
「だろ? 俺もあとで入らせてもらうぜ。ダンジョンで湯に浸かるたぁ、贅沢の極みだかんな」
ヒマリがベッドにもぐり込んだ。
窓の外には岩しか見えない。それでもヒマリは慣れた様子で毛布を引き寄せた。家はどこに現れても、同じ家だった。森でも、砂漠でも、星空の下でも、地の底でも。ヒマリにとって、この家の中はいつも同じ「おうち」だった。
「アーシュ」
「どうした」
「あした、あのとびらにいくんだよね」
「ああ」
「なぞとき、あるんだよね」
ヒマリの目が、きらりと光った。
「わたし、なぞとき、得意だから、がんばるね」
「ああ、頼りにしている」
アーシュが、そう言うとヒマリはふにゃりと笑った。それから、毛布を鼻のあたりまで引き上げた。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ヒマリが目を閉じた。
ほどなくして寝息が聞こえてきた。
*
暖炉の前で火を見つめるアーシュの向かいにヴィラがどかりと座った。
「明日だな」
「ああ」
「赤い扉、か。謎とやら、ヒマリに解けると思うか」
「分からん」
アーシュは暖炉の火を見た。
「だが、ヒマリは得意だと言った。それに賢者だ。何か、感じるものがあるのかもしれん」
「ふうん」
ヴィラが、椅子の背にもたれた。
「俺ぁ、謎解きなんざ、からっきしだ。ヒマリがだめならもう無理だからな」
「はなから期待などしていない」
「即答すんじゃねえよ」
ヴィラがぶはっと笑った。それから声を少し落とした。
「……なあ、アーシュ。ほんとお前、変わったよな」
「……何の話だ」
「言葉どおりの話さ」
ヴィラが暖炉の火を見ていた。
「昔のお前はこうじゃなかった。邪神を片付けたあとのお前は、静か過ぎて……なんつうかこう、隣にいてもいねえみたいだった」
アーシュは答えなかった。
「俺ぁ、あの頃のお前を見て、ずっと心配してたんだ。こいつ、このまま、どっか遠くへ行っちまうんじゃねえかってな」
ヴィラがふっと、笑った。乱暴な笑い方ではなかった。
「で、実際、行っちまった。五年だぜ。五年も、姿をくらました」
暖炉の薪がぱちりと、爆ぜた。
「……すまなかった」
「謝んじゃねえよ」
ヴィラが手をひらりと振った。
「言いてえのはな。今のお前は、ちゃんと、ここにいるってことだ。飯を作る、鍋を見て、味を見る。ヒマリに座って待ってろと言うし、呼ばれりゃ、ぱっと向かっていきやがる」
ヴィラが寝息を立てているヒマリのほうを顎で示した。
「ヒマリが来てから、お前は隣にいるやつになった。言いてえのはそれだけだよ」
アーシュは暖炉の火を見つめていた。
(……隣にいるやつ、か)
超越種となって以来、怪我をしても見る間に傷が癒え、力は増して、食事も眠りも要らなくなった。
改めて、死から遠ざかっているのだと、認識するたびに何かが少しずつ置き去りにされてきた。
食べる喜びも、眠りの心地よさも、火の温もりをありがたがる感覚も、少しずつ遠ざかっていった。
だが、焚き火はやめなかった。火を起こし、ただじっと揺れる炎を見ていた。じっちゃんがそうしていたからだ。
火を見ることだけが、人だった頃の名残のように手元に残っていたから、そうしていた……のかもしれない。
それが、いつの間にか鍋を火にかけるようになった。味を見るようになった。誰かのために、温かいものをよそうようになった。
宿を取り、必要もないのに眠りの真似事をすることも増えた。横になり、目を閉じてじっとしながら、ヒマリの寝息を聞いていると、忘れていた眠りの心地よさを思い出すようだった。
「俺は」
アーシュが、口を開いた。
「自分が変わったかどうかは、よく分からん」
「そうかい」
「だが」
アーシュはヒマリのほうを見た。毛布が規則正しく上下している。
「いつか、邪神と戦った日の話をしようと思っている……あいつが、聞きたいと言うなら、話してやりたい」
ヴィラが目を少し見開いた。
「……ほう」
「昔は考えもしなかった。あの話を誰かにするなんてことは」
アーシュが暖炉の火を細くした。
「そうかい」
ヴィラがにっと笑った。
「そりゃあ、変わったってことだろうが」
「……そうかもしれん」
アーシュは否定しなかった。
ヴィラが大きく伸びをして立ち上がった。
「さて。俺は、風呂に入ってくる。ダンジョンで湯に浸かれるなんざ、二度とねえかもしれねえからな。じっくり浸かってやるぜ」
「ああ」
ヴィラが風呂のほうへ、のっしのっしと歩いていった。
家の中にアーシュと、寝息を立てるヒマリだけが残った。
暖炉の火は細く、ゆらゆらと燃えていた。岩に囲まれたダンジョンの中。それでも、その火は森にいた頃と同じように燃えていた。
アーシュはその火をしばらく見ていた。
明日は赤い扉だ。その先に何が待っているのかは分からない。
だが悪くないと思った。
この小さな弟子と、旧友と共にその扉の前に立てることが、なんだか僅かに面白く感じた。
ダンジョンの小さな家で、暖炉の火だけが静かに夜を照らしていた。




