第十八話 揺らぐ水鏡
空洞の天井を覆う光る草が、いちばん淡い色に沈んでいた。夜のあいだ強く光っていた草は、朝になると力を抜いたように白んでいく。炉都の住人は、その明るさで時を知る。
宿の前で、ヴィラが大きく伸びをした。
「さて、行くか」
「ああ」
まだ少し眠そうな顔のヒマリが、二人のあいだに立って空洞の上のほうを見上げていた。岩の天井に張りついた草の光は、夜とはまるで違う、おとなしい色をしていた。
「あさになると、ほし、きえちゃうんだね」
「夜になりゃ、また光るさ」
ヴィラが、ヒマリの頭をぽんと撫でた。
宿の主人が見送りに出てきた。
「部屋は開けておくから、ちゃんと戻ってくるんだぞ」
「ああ」
「いってくるね、おじさん」
「おうよ、気をつけてな、お嬢ちゃん」
ヒマリがペコリと頭を下げると、宿の店主が笑顔で手を振った。
宿を背にして炉都の坂道を上っていく。鍛冶の音は朝から絶えない。火床に風を送る音、槌を打つ音。その音に見送られながら、三人は門をくぐった。
*
門の外に出ると、サクラが生き生きとした顔で小さく羽ばたいた。
「サクラ……張り切ってる所わりいが、おめえは留守番だ」
「キュイ?」
ヴィラが、サクラの首を撫でた。
「ダンジョンの中にゃ、お前は入れねえからな。そこの騎獣屋で待っててくれ」
「……グルゥ」
サクラが、不満そうに、低く鳴いた。
ヒマリが、そっとサクラのくちばしに手を当てた。
「サクラ、いいこにしててね。おみやげ、もってかえるから」
サクラが、ヒマリの手のひらに、ぐいと鼻を押しつけた。それから、ようやく諦めたように頭を下げ、ヴィラに引かれて騎獣屋へと歩いていった。
アーシュは、それを横目に見ながら、岩山を眺めていた。かつて邪神討伐の旅をしていた頃。ヴィラと二人、別行動でこの街にやってきた。
あの時も、武器を作るためにダンジョンへ潜ったが、浅層なら初心者でも潜れる程度で、踏破を目指したとしても、中級者程度でも十分という難易度だった。
(ここは資源保護のために原則ドワーフ以外の立ち入りを禁じている。それがなければもっと早くに枯渇していたかも知れないな)
前回は邪神討伐のため、というのもあったが、サンドワームを討伐したのが効いて、五玉から二つ返事で入場許可が出た。
(おかげで、無事に旅を終えられた)
今回も旅のために武器を作りに来た。前回と違うのは、旅の先に待ち受けるのが苛烈な戦いではなく、ヒマリの墓参りという事だ。
戦うための武器ではなく、身を守るための武器を作る。その違いに気づき、アーシュはなんだか不思議な気持ちになっていた。
「わりいわりい。サクラがぐずってよお」
バタバタと賑やかにヴィラが駆け寄ってきた。
「行くか」
「うん!」
ダンジョンへと続く山道を登り始めた。
*
街から歩くこと一時間半。山の中腹の、ごつごつした岩のあいだにそれはあった。
銀色にゆらめく水鏡だ。
直径二メートルほどの、まるで水たまりのようなものが、そこにあった。
ただし、それは地べたではなく、岩肌に張り付くように垂直に立って揺らめいている。表面が、ゆらゆらと波打っている。
光がその上をすべるように流れ、不思議な景観を映し出している。
ヒマリがぽかんとした顔で見上げた。
「あっ……これって……」
ヒマリの声が少し固くなった。
アーシュはすぐに気づいた。ヒマリの目が水鏡をじっと見ている。その目にあるのは、好奇心ではなく、わずかな緊張の色。
(……同じ物を知っているのか)
この世界におけるダンジョンというものは、殆どがこの様な水鏡の先に作られているが、その場所自体にあるのではなく、水鏡が転移装置となり、ダンジョンへと誘っているのだと言われている。
ヒマリのいた世界のダンジョンも、おそらくは同じものなのだろう。かつて見たことが有るのかも知れない。だから、こうして警戒してしまっている。
だが、目の前の水鏡は、普通のダンジョンとはどこか違っていた。
ダンジョンの出入り口というものは、見るだけで肌が粟立つような、ねじれた気配を感じることが多い。
だが、不思議なことに、ここの水鏡にはそれがないのだ。
謎の扉の事もある。おそらくは、なにか特別なダンジョンなのかもしれない。
「ヒマリ」
アーシュが、しゃがんで、ヒマリと目線を合わせた。
「お前のいた世界のダンジョンと、同じものか」
「……うん、みたことある」
「そうか。だが、よく見ろ。ずいぶん、おとなしいだろう」
ヒマリが、もう一度、水鏡を見た。
ゆらゆらと光がすべっていく。それは、急いでもいなければ、暴れてもいなかった。ただ、静かに揺れていた。
「……ほんとだ……怖くない」
ヒマリの肩から、すこし、力が抜けた。
「不思議なことに、このダンジョンは穏やかな気配を発している」
「ほんとだ」
「そのためか、ここは他のダンジョンよりは、危険度は低い。俺達がいれば、大きな危険はない」
「うん」
ヒマリが、頷いた。
「アーシュが、いうなら、きっとだいじょうぶ!」
「ああ、安心していろ」
アーシュが、立ち上がった。
胸の奥が、ことり、と鳴った。
怖いものを前にして、それでも「だいじょうぶ」と言える。その「だいじょうぶ」の理由に、自分の名が入っている。
アーシュは少しだけ目を伏せた。
「おら、つったっててもしょうがねえぞ!」
ヴィラが、先に立った。
「俺が先に入る。次がヒマリ、しんがりがアーシュだ。いいな!」
「ああ」
「うん」
ヴィラが水鏡に手を伸ばした。指先がゆらりと水面に沈みこみ波紋が広がった。
「じゃ、お先に!」
ヴィラが水鏡の中へ身体を進めた。とぷんと、水音が聞こえたような気がした。ヴィラの姿はもうそこにはない。
ヒマリが、ごくりと喉を鳴らした。
「……いってきます」
ヒマリが小さな声でそう言った。
アーシュはその言葉を聞いたとき、なぜだか森を出る朝にヒマリが初めて「いってきます」と言えたあの日のことを思い出していた。
ヒマリが水鏡へ手を伸ばし、一歩踏み出した。光がヒマリの小さな身体をやさしく包んだようにみえた。
アーシュは最後に振り返った。
麓の放牧場にサクラの気配を感じた。
「行ってくる」
水鏡の中へ足を進めた。
*
光が、ほどけた。
そこは、窟だった。
ごつごつした岩肌の通路。天井は、手を伸ばせば届きそうなほど低い。壁にはところどころ、淡く光る石が埋まっていて、それが通路をぼんやりと照らしていた。空気はひんやりとして湿っていた。
ヒマリがきょろきょろと辺りを見回していた。
「ここが、ダンジョン……」
「ああ」
アーシュが、頷いた。
「ここは洞窟型ダンジョンだ。下に潜るほど、階層が進み深くなる」
「した……?」
「ダンジョンってのはな」
ヴィラが、通路の先を、顎で示した。
「先へ先へと潜っていくもんだ。上に登るのもあるし、下るのもある。ここは、地下二十階層に向けて下りるダンジョンなんだぜ」
「そんなに、下まで下りるんだ。大変だね」
「まあ、五階層ごとに、安全な場所――セーフゾーンがあっからな。そこで寝泊まりもできっから、そこまでじゃねえよ」
ヒマリが、興味深そうな顔でこくこくと頷いている。
「あの扉のあるところは、十階層らしい。今日は、まず五階層まで潜って、そこで一泊する。明日、十階層を目指そう」
アーシュがそう説明した。
「ヒマリ。お前の仕事は、覚えているな」
「うん」
ヒマリが胸を張った。
「みんなが取ったものを、しゅうのうに、しまうの。あと、見て覚えるの」
「そうだ。戦いは、俺とヴィラがやる。お前は、無理に前へ出るな。下がっていろ」
「わかった」
アーシュの剣の柄の先で、何かがちりんと小さく揺れた。ヒマリがナハル・ファリスで贈った、剣のストラップだった。
「さて。久々のダンジョンだ」
ヴィラが、にっと笑った。
「昔来た時を思い出すぜ。あん時ゃ、オリハルコンを掘りに来たんだったか」
「ああ」
「十八階層まで潜ってよ、掘れるだけ掘って、二十階層まで行って、転移で帰った。それで終わりだと思ってたぜ。まさか、誰も通れねえ別ルートがあったなんてな」
ヴィラが、肩をすくめた。
「世の中、何があるか分からねえもんだ。なあ、アーシュ」
「……そうだな」
アーシュが、頷いた。
あの頃。ヴィラと二人、オリハルコンを掘りにこのダンジョンへ来た。
赤い扉はあの頃、既に十階層にあったそうだ。だが、開けられないものは誰も気に留めなくなり、忘れ去られていたし、アーシュたちも気づくこと無く素通りしていた。
旅の目的のために、オリハルコンで打った剣が必要だった。だから、調達のために潜った。ひたすら魔物を屠り、奥へ奥へと急いだ。
ヴィラが愚痴り始めた頃に休憩を取り、後はひたすら採掘ポイントを目指し駆け下りていった。
謎の扉があったなんて当時の自分は知らなかったし、知ろうともしなかった。
(……それだけ余裕がなかったのだろうな)
「行くぞ」
アーシュが、先に立った。
*
通路を進むと、すぐにそれは現れた。
岩のあいだからずるりと這い出してきたのは、岩の色をした大きな蜥蜴だった。背中の鱗が洞窟の岩と同じ色をしている。じっとしていれば岩と見分けがつかないだろう。
「わ、壁が、動いた……」
ヒマリがびくりとした。
「下がってろ」
ヴィラが前に出た。
蜥蜴が口を開けてヴィラに飛びかかった。ヴィラはそれを半身でかわした。剣が一閃し、蜥蜴が二つに分かれた。
「ふん。こんなもんか」
ヴィラが剣を振った。
ヒマリがぱちぱちと手を叩いた。
「ヴィラすごい!」
「まあな」
ヴィラが得意げに胸を張った。
アーシュはその蜥蜴の死骸を見ていた。
(……岩蜥蜴か)
「ヒマリ。この鱗は素材になる。硬くて、軽い。防具に使える」
「あ、しゅうのうする?」
「ああ。頼む」
ヒマリが蜥蜴の死骸に近づいた。両手をかざす。死骸がすうっと、消えた。
「できた!」
「上手いもんだな」
ヴィラが笑った。
通路をさらに進む。岩蜥蜴は何度か現れた。そのたびにヴィラが、あるいはアーシュが片付けた。ヒマリはそのたびに素材になる部分を収納にしまっていった。
時おり、天井から丸い毛玉のような魔物が、ぽとりと落ちてきた。コウモリのような羽を持った小さな魔物だった。それもアーシュが手で払うようにして片付けた。
一階層を抜け二階層へ。二階層を抜け、三階層へ。
階層が下がるたびに、通路は少しずつ姿を変えた。岩肌の色が変わり、湿り気が増し、光る石の数が増えた。
四階層に入ったあたりでヴィラがふと、足を止めた。
「なあ、アーシュ」
「何だ」
「魔物、あんまいなくね?」
アーシュもそれを感じていた。
岩蜥蜴。毛玉。それから、岩の隙間を走る節足の魔物。次から次へと現れた。どれも、強くはない。アーシュとヴィラの敵ではない。
「魔物、たくさん出たと思うんだけど、少ないの?」
ヒマリがこてんと首を傾げる。
ヒマリが言うように、魔物の数は決して少なくはない。むしろ、通常のダンジョンと比べて多く出ているくらいだ。
だが、アーシュとヴィラは別の捉え方をしていた。
「妙だな」
アーシュが、足を止めた。
「ここは、ひと月前から、立ち入り禁止だと聞いた」
「らしいな」
「人が入らなければ、魔物が増える。事実、前回よりも魔物の密度が高く感じる……だが――」
アーシュが通路の先を見た。
「増えすぎていない」
ヴィラが眉を寄せた。
「ああ、ひと月も放置されりゃあ、もっとやべえことになってるはずだ」
「あ……スタンピード……」
ヒマリが顔を暗くして俯いた。
「そうだ。ダンジョンの管理が杜撰だと、そうやって魔物を溢れさせて周囲に被害をもたらす事になる」
「うん、わたしの、おとうさんと、おかあさんも、それでしんじゃったもん」
「……そう、だったな」
アーシュが、言葉を選ぶように、続けた。
「だから、ダンジョンというものは、国が管理している。あまり人が行かないダンジョンには、溢れることがないように、定期的に兵を送って間引いている」
ヴィラが、腕を組んだ。
「なのに、ここは溢れてねえ。魔物の数も、多いっちゃ多いが……あふれるほどじゃねえ」
「ああ」
二人は顔を見合わせた。
「……誰かが間引いていたってことか?」
ヴィラが、言った。
「かもしれない」
アーシュが頷いた。
「立ち入り禁止のはずのダンジョンに、定期的に誰かが入って魔物を間引いていた。だから、あふれなかった」
「誰がだよ」
「……分からん」
アーシュが首を振った。
「五玉のジジイ達はんなこといってなかったぞ? あいつらなら、その辺ちゃんと言うだろうによ」
「そうだな。だが、いま考えても、答えは出ないだろう。先へ進もう」
「はっ、確かにそうだ」
ヴィラが、肩をすくめた。
ヒマリが二人の会話を、きょとんとした顔で聞いていた。表情は少し落ち着いていた。嫌な記憶を思い出すよりも、今の話を大切に聞こうとしている顔だった。
「ふしぎだね」
「ああ、不思議だ」
アーシュが、頷いた。
「だが、悪い不思議では、なさそうだ」
(五玉はなにも言わなかった。もしかすると、このダンジョンでは自然な事なのかも知れないな)
アーシュは、そう思いながら、四階層の通路を進んでいった。
*
四階層から下りると、通路がふいに開けた。
広い空間だった。天井が高い。岩の壁がぐるりと丸く、その空間を囲っていた。壁に埋まった光る石がその一帯を淡く照らしていた。空気が不思議と穏やかだった。
「セーフゾーンだ」
ヴィラが剣を鞘に納めた。
「ここは四階層と五階層の間にあってな、魔物は出ねえから安心して休めるんだ」
ヒマリがほうっと、息を吐いた。
空間の隅に石でできた低い台のようなものがあった。ヴィラがそれを指さした。
「あれが転移装置だ。一度ここに着いちまえば、次からは入口から直でここまで飛べる。便利なもんだろ」
「ぴゅーんって、とぶの?」
「ぴゅーんか、いいなそれ」
ヴィラがにっと笑った。
アーシュは空間を見回した。窓はない。空はない。岩に囲まれた地の底だ。だが、それでも――アーシュには、分かった。
(そろそろ夕方か)
光る草のいちばん強く光る時刻にはまだ早い。歩いた距離、潜った階層、身体に積もった疲れの量。そういったものを合わせて考えると、外の空がそろそろ茜色に染まっている頃合いだろうと推測できる。
食事を必要としない身体になって長い。眠りもいらなくなった。それでも、時間の流れだけは身体のどこかが覚えていた。
アーシュはヒマリのほうを見た。嬉しそうな顔で家を出していた。岩に囲まれた地の底。それでも今夜は、屋根の下で眠れるようだ。
ヒマリが、扉の前で振り返った。
「ダンジョンの中でも、おうち、出せるんだね」
「ああ」
「ちょっと、へんな感じ。でも、うれしい!」
「……そうだな」
アーシュは短く頷いた。




