第十四話 岩の道
ナハル・ファリスを発つ朝、宿の女将が、門の外まで見送りに出てきた。
「グランヴォルトまでいくんだって? 気をつけていくんだよ」
「世話になった」
「いいさ。この子が元気になったなら、それで十分だよ」
女将がヒマリのほうにしゃがみ込んだ。
「お嬢ちゃん、来た時はふらふらだったのにねえ。すっかり、いい顔になった」
「……あの、おせわに、なりました」
「うん、うん。達者でね」
女将がヒマリの頭を、ぽんぽんと撫でた。
ヒマリがぺこりと頭を下げた。それから、もう一度顔を上げて、
「……ありがとう、ございました」
と、言った。
女将が目を細めた。
サクラの背に、ヒマリとアーシュの荷物が括り付けられている。
これまでと違い、荷物のほとんどをヒマリの収納の中に入れたため、サクラも身軽そうにしている。
三人と一頭は、街の門をくぐって、また、砂の海へと出ていった。
*
砂漠の旅がまた始まった。
ナハル・ファリスの水路の涼しさは、門を出て半日もするともう遠い記憶になっていた。乾いた風、強い日差し、足を取られる砂。けれど、ヒマリの足取りは行きよりも、ずっとしっかりしていた。
五日の休養が効いていた。
歩き疲れた時にはサクラに乗る。それ以外は自分の足で歩く。ヒマリは、そのやり方をもう自然にこなしていた。
夜は野営をした。
砂を掘って火床を作り、火を起こす。家を出したら、ゆっくりと食事を摂る。
それが済んだら、ヒマリの仕事の時間だ。
収納から、青みがかった小さな魔導具を取り出し、両手で包んで目を閉じる。
それから、ゆっくりとマナを注いでいく。
日本から戻ってくるためのマナ。これは自分で三年かけて貯めなければならない。
「今日のは、どうだった?」
「ああ、滑らかに入れられていた」
「ちゃんと、たまってるかな?」
「たまっている。昨日より、わずかに増えている」
アーシュが短く答えると、ヒマリはほっとした顔をして、魔導具を収納にしまった。
あれからずっと続いている、夜の習慣だった。
*
街を出て、五日目の夜だった。
ヒマリがマナを注ぎ終えたところで、ヴィラが焚き火の向こうからひょいと顔を出した。
「ヒマリ、ちょっとその魔導具見せてみろ」
「いいよ」
ヒマリが、しまいかけた魔導具をもう一度取り出して、ヴィラに渡した。
ヴィラはそれを手のひらに乗せて、じっと見た。目を細めて、何かを確かめるように。
「……ふうん」
「どう?」
「いいね。マナの詰まり方が均一だ」
「きんいつ?」
「ムラがねえってことだ。雑にやるとさ、濃いとこと薄いとこができるんだよ。お前のは、きれいに詰まってる」
ヴィラが、魔導具を、ヒマリに返した。
「この調子なら、三年でちゃんと貯まるな」
「ほんとう?」
「ああ。俺が保証してやる」
ヒマリの顔が、ぱっと、明るくなった。
「えへへ……ヴィラさんに、見てもらえて、よかった」
「マナの貯まり具合、見てやるって約束したからな」
ヴィラが、胸を張った。
ヒマリが、魔導具を大事そうに、収納にしまった。
アーシュは、その様子を少し離れた場所で聞いていた。
ヴィラはルミナスを発つ時言っていた。『お前のマナの貯まり具合とか、見てやらねえと心配だしな』と。ヴィラは、それをちゃんと覚えていた。覚えていて、わざわざ追いかけてきて、こうして見てやっている。
(……ヴィラらしいな)
アーシュは穏やかな顔で二人を見つめた。
*
街を出て八日目の夜。
ちょっとした騒ぎがあった。
夜中、サクラが急に「キュッ」と高い声で鳴いて、立ち上がったのだ。
焚き火を見つめていたアーシュがすぐに身を起こし、周囲の様子を探り始めた。続いてヴィラも大剣を担いで家から飛び出してきた。
「サクラ! どうした!?」
「……何か、いるのか?」
「キュッ」
サクラが、砂の上の一点を、つぶらな目でじっと見ていた。
アーシュがマナを薄く広げて探る。
……いた。
砂の中に、小さな何かがもぞもぞと動いていた。
「……砂ネズミだな」
「なんだ、ネズミかよ」
ヴィラが、大剣から手を離して肩の力を抜いた。
砂の中から、小さな生き物がひょこりと顔を出した。耳の大きな、砂色のネズミだった。サクラの足元の砂を掘っていたらしい。
サクラが、その砂ネズミをじーっと見ている。
砂ネズミも、サクラをじーっと見ている。
しばらく、見つめ合っていた。
それから、砂ネズミがぴゅっと砂の中に潜って、消えた。
サクラが「キュ……」と、少し残念そうな声を出して、また、伏せた。
「……なんだったんだ、今の」
ヴィラが、呆れたように言った。
物音で起きたのだろう。いつの間にかヒマリも家の戸口に来ていて、毛布から顔だけ出してその一部始終を見ていた。
アーシュが視線を向けると、照れくさそうな顔をして、それから、くすくすと笑った。
「サクラ、おともだちに、なりたかったのかな」
「かもな。サクラ、お前、逃げられてやんの」
「ふふ……サクラ、またがんばろうね」
サクラが、「キュ」と、小さく鳴いた。慰められているのが分かったのか、いないのか。
ちょっとした、夜の出来事だった。
けれど、ヒマリはずいぶん楽しそうに笑っていた。
*
街を出て、二週間が過ぎた頃。
足元の感触が、変わり始めた。
柔らかく沈む砂が少しずつ減って硬いものが混じってくる。最初は、砂の中に小石が現れ、それがだんだんと大きくなると、やがて岩がちな地面が砂の間から顔を出すようになった。
「……砂が、へってきた」
ヒマリが足元を見ながら言った。
「ああ。砂の海を抜けつつあるんだ」
「もう、おわり?」
「ここからは、岩砂漠だ。砂と岩の、混じった土地だな」
歩く感触がまた変わった。砂に足を取られることが減って、その代わり、岩を踏み越える場面が増えた。サクラの歩き方も少し変わった。砂の上を滑るような足取りから、岩を確かめるような、慎重な足取りに。
景色も変わっていった。
どこまでも続いていた砂の畝が、岩の隆起に変わっていく。赤茶けた岩、灰色の岩、ごつごつとした岩肌。砂漠は砂漠でも、もう「砂の海」ではなかった。
「……なんか、ぜんぜん、ちがうね」
ヒマリが、周りを見回しながら言った。
「岩石砂漠を通っただろう。あれに、似ている」
「あ、ほんとだ。さいしょのほうの、岩のとこに、にてる」
「ああ。砂の海を挟んで、また岩の土地に戻ってきた、というわけだ」
ヒマリが、少し考えてから、言った。
「じゃあ、わたしたち、ぐるっと、まわってきたのかな」
「いや、まっすぐ進んでいる。ただ、土地が、そういう順番で並んでいるだけだ」
「ふうん……世界って、ふしぎだね」
ヒマリが、岩の一つに、ちょこんと手を置いた。砂とは違う、硬くて、ひんやりとした感触。それがヒマリには面白く感じたらしい。
*
岩砂漠に入って、三日目。
前方から土煙が見えた。
アーシュが目を細める。ヴィラもサクラの手綱を軽く引いた。
「……隊商か」
「ドワーフだな。荷の積み方で分かる」
それは、十数頭の荷獣を連れた隊商だった。岩を削った道を、ゆっくりとこちらへ向かってくる。先頭を歩くドワーフが、アーシュたちに気づいて片手を上げた。
「よう、旅人さん。グランヴォルトへ行くのかい」
「ああ」
「なら、もうすぐだ。あと三日も歩けば、山が見えてくる」
「助かる」
ドワーフが、ヴィラとサクラを見て、それから、ヒマリを見た。
「ずいぶん小さい連れだな。砂漠を越えてきたのか」
「うん。ナハル・ファリスから」
「ほう、よく歩いた。グランヴォルトは、いい街だ。ゆっくりしていきな」
隊商は、それだけ言ってまた砂の海のほうへと進んでいった。すれ違う荷獣の背には、布に包まれた荷が山と積まれていた。鉱石か、あるいは、ドワーフの作った品か。
「グランヴォルトから、来た人たちなんだね」
「ああ。あの荷は、グランヴォルトの品をよその国へ運んでいくのだろう」
「いろんな人が、いろんなとこに、行くんだね」
「そういうものだ」
ヒマリが、遠ざかっていく隊商を、しばらく見ていた。
*
そして、岩砂漠に入って六日目の昼。
地平線の先にそれが見えた。
巨大な岩山だった。
今まで見てきたどの岩よりも、どの隆起よりも大きい。山というより、空に向かってそびえる、巨大な岩の塊だった。頂は雲に隠れ、裾野は、霞んで、地平線に溶けている。
ヒマリが足を止めた。
口を半分開けたまま、それを見上げていた。
「……あれ」
「ああ」
「あれが……?」
「グラド・ヴァルカンで、いちばん大きな山だ。あの山の、下に――」
アーシュが少し、間を置いた。
「炉都グランヴォルトがある」
「あの、山の、した……?」
ヒマリの声が震えていた。怖いのではなく、圧倒されているのだった。
砂漠の真ん中の水の街も、白い神殿の街も、エルフの森の街も、ヒマリは見てきた。けれど、山の下にある街というのは、想像の外だった。
「いこう、アーシュ」
ヒマリが言った。
その声には、疲れではなく、はっきりとしたわくわくが混じっていた。
「ああ。あと、三日ほどだ」
「三日……」
「楽しみに、しておけ」
「うん!」
ヒマリが、大きく、頷いた。
三人と一頭は、巨大な岩山を目指してまた、歩き始めた。
岩地を進む影が四つ、長く伸びていた。




