第十話 ナハル・ファリス
砂の海を、何日も歩き続けた。
日数を数えるのも、もう面倒になっていた。朝起きて、日が昇って、サクラに揺られて、日が落ちて、火を囲んで、また寝て、起きる。それを繰り返した。
ヒマリの口数は、日に日に減っていた。
最初の数日は、サクラに乗ることでなんとか体力を保てていた。けれど、二週間を超えた頃から、サクラに乗っていても疲れが取れなくなった。
日差しが強すぎる日は早めに切り上げたし、風の強い日は無理に進まなかった。ヴィラも、ヒマリの揺れが少なくなるよう、サクラの歩みを抑えていた。
途中で何度も、休みを挟んだ。
それでも、砂漠の乾いた空気、強い日差し、夜の冷え込み──全てが少しずつヒマリの体に積み重なっていった。
どれだけ気遣っても、ゆっくりと体力と気力が削られていく。
砂漠とは、そういう場所だった。
頬は乾き、唇はかさついて、目の下にうっすらと隈ができていた。それでもヒマリは、つらいと言うより先に「だいじょうぶ」と言ってしまう。
そして、ある朝──
「アーシュ」
「何だ」
「あの……あれ、しんきろうかな? まち、がみえる……」
ヒマリが指さした先には、白い壁の街が、砂の海の中にぽつりと浮かんでいた。
アーシュも、目を細めて見た。
「いや、本物だ」
「ほんとう?」
「ああ。ナハル・ファリスだ」
ヒマリの目に、わずかに光が戻った。
ヴィラがサクラの手綱を引きながら、にっと笑った。
「やっとついたな。あと半日もかからん」
「半日……」
「サクラ、ちょっと急ぐぞ。ヒマリ、しっかり掴まっとけ」
「うん」
サクラの歩みが、少し速くなった。
*
ナハル・ファリスは、外から見ると、白い壁の塊だった。
砂漠の中に唐突に現れる、人が暮らす場所。壁の外周は土と石を固めた厚い造りで、日差しをしっかり遮るようになっている。門の上には小さな見張り台があり、ドワーフの兵士が二人、退屈そうに立っていた。
近づいていくと、門の手前で兵士の一人がのっそりと身を起こした。
「旅人か。どこから?」
「ルミナリアの旧都から」
「ルミナリア? 騎獣一頭だけで砂漠を越えて来たのか。難儀したろう」
「ああ」
兵士がヒマリに視線を移し、それからサクラを見て、横のヴィラの顔を見て目を見開いた。
「いやまて、その珍しい騎獣は……やっぱりヴィラ様か。ということは、そちらはアーシュ殿か!」
「ちっ……気づいちまったか」
「隊商の件で世話になったからな。あんたらのことは覚えてるさ」
「そうかい……っと、こいつが限界なんだ、通っていいかい?」
「おっと、すまんすまん。ようこそナハル・ファリスへ」
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
砂漠の乾いた熱が、ふっと和らいだ。
ヒマリが、ぽかんとした顔をして、サクラの背の上で周囲を見回した。
街の中には、水路が走っていた。
石で組まれた細い水路が、家と家の間を縫うように流れている。水は澄んでいて、太陽の光を反射してきらきらと揺れていた。水路の上には小さな橋がいくつもかかっていて、人や荷車がそこを行き交っている。
「水……」
「ああ。あちこちにあるだろう」
「砂漠なのに、お水がたくさん……」
「街の中心に大きな泉があってな、そこから水を引いている」
水路があるおかげか、街の中は思ったよりも涼しかった。日差しは強いが、湿った空気が水路から立ち上って、温度を和らげている。建物は白い壁で、強い日差しを反射していた。
ヒマリが、ふう、と小さく息を吐いた。
外の砂漠から、ようやく、息のつける場所に着いた、という顔だった。
*
宿は、街の中心からほど近い場所にあった。
二階建ての、白い壁の中規模の宿で、入り口には日除けの布が垂れている。看板にはドワーフ文字で何か書かれていた。ヒマリには読めなかったが、どうやら宿らしいと雰囲気でわかった。
ヴィラが布をめくり、ノシノシと中に入っていった。
まもなくして、大きな声が聞こえてきた。
「おおい女将! 来たぞ! 部屋空いてるか!」
「うるさいねえ……って、ヴィラじゃないか、久しぶりだね。何泊だい」
「三人泊まれる部屋を……そうだな、五泊分だ。連れが、ちょっとへばっちまってよ」
奥から、エプロンをつけた中年のドワーフの女が出てきた。三人を見回して、ヒマリの様子に目を留めた。
「ああ、こりゃひどい。砂漠を越えてきたのかい?」
「ああ……」
「お嬢ちゃん、お疲れさん。すぐ部屋に案内するから、待っとくれよ」
ヒマリは、サクラから降ろされる時、もう自分の足で立つのも難しい状態だったため、アーシュが片手で支え、そっと下ろした。
「アーシュ……ごめんなさい」
「謝らなくて良い。砂漠の旅は過酷だ。仕方がない」
「うん……」
部屋の支度ができたのか、女将が声を上げて呼びに来た。
「日陰側の部屋にしといたよ! 今のその子に、西日の部屋はきついからね」
案内されたのは二階の部屋。ベッドが三つ、小さな卓と椅子、それから水差しと洗面器。素朴だが、清潔な部屋だった。
ヒマリは、案内されてすぐ、ベッドに崩れ落ちるように腰を下ろした。
「……つかれた」
「ああ、休め」
アーシュがヒマリの靴を脱がせ、濡らした布で足を拭いてやった。ヒマリは目を半分閉じたまま、されるがままになっていた。
「水を飲め」
「うん……」
水差しから水を注いで渡すと、ヒマリは両手で受け取って、ゆっくり飲んだ。それから、もう一杯飲んだ。三杯目を飲み終えてから、ようやく、少し顔色が戻った。
「アーシュ、お風呂入りたいかも……」
「今日は体力がない。今は休んで明日にしろ」
「うん……」
ヒマリは、収納から毛布を出すと、もぞもぞと潜り込んで目を閉じた。
間もなくして寝息が聞こえてきた。
ベッドの脇で、アーシュはしばらく座っていたが、ヒマリの呼吸を確かめると、静かに立ち上がった。
*
下階に降りようとしたところで、ヴィラが階段を上がってきた。手には、果物を盛った籠を抱えている。
「ヴィラ、ヒマリを頼みたい」
「出かけるのか?」
「グランヴォルトまでの道の情報を集めたい。それから、薬師を探す」
「薬師?」
「ヒマリの体力回復の薬と、乾いた肌に塗る薬がいる。砂漠を越えた後の必需品だ」
「ああ、なるほど」
ヴィラがニンマリと笑い、籠から包みを取り出した。
「考えることは一緒だな。ほれ、これだろ?」
「買ってきたのか」
「ああ、あと、こいつもな」
「それは?」
「ヒマリの服だ。砂漠用に薄手のを揃えてやろうと思ってよ。今のままじゃ、また同じことになる」
「……助かる」
「気にすんな。可愛い妹分のためだ」
ヴィラは部屋に入ると、ヒマリの寝顔を覗き込んで、そっと毛布をかけ直した。
「俺が見てるから、お前は情報収集行ってこい」
「ああ」
「夕方には戻れよ。一緒に飯食おうぜ」
「分かった」
*
宿を出ると、街の喧騒が耳に届いた。
ドワーフの太い声、商人の呼び込み、子どもの笑い声、水路を流れる水の音。砂漠の中とは思えないほどの賑わいだった。
アーシュは、しばらく通りを歩きながら、街の様子を観察した。
行き交うのは、ドワーフが多い。次に、人族と、それから一部、ドラゴニュートの姿も見えた。多種族の交易都市だ。武器を腰に下げた者もいれば、薬草を背負った行商人もいる。グランヴォルトから来た商隊らしい一団もいた。
(……ヒマリが好みそうな景色だな)
アーシュは、ふと、そう思った。
砂漠の真ん中に取り残された、孤立した街ではない。人がいて、水があり、緑がある。ヒマリが安心して回復できる場所だ。
通りの角で、薬師の看板を見つけた。
(ヴィラも買っていたが、予備はいくつあってもよいだろう)
アーシュは、扉を押した。
*
夕方、アーシュが宿に戻ると、ヒマリはまだ眠っていた。
ヴィラが、椅子に腰掛けて、サクラ用の革紐を編んでいた。器用な手つきだった。
「お、戻ったか」
「ああ。情報も薬も集めた」
「お疲れさん。ヒマリは、まだ寝てる」
「ずっとか?」
「ああ、起きたの一回だけだ。薬と水を飲んで、それでまた寝た。よっぽど疲れてたんだろうな」
「だろうな」
アーシュは、椅子に腰を下ろした。
窓の外では、日が落ちかけていた。白い壁の街が、淡い橙色に染まっている。水路を流れる水が、夕日を反射して、細い金色の筋になっていた。
「アーシュ」
「何だ」
「さっきな、ふと、思ったんだけど……なんでヒマリの収納使わねえの?」
突然の問いだった。
アーシュが、横目でヴィラを見た。
「どうした、急に」
「いやさ、ここんとこずっとメシが携帯食だったじゃんか」
「ああ、旅とはそういうものだろう」
「ヒマリのならさ、時間の進みが遅いとか、そういうの付いてそうじゃね? だったらよ、足が早い食材を持ち歩けるだろ」
「……」
「まともなメシ食えてりゃ、も少しましだったろうなあ」
「……」
アーシュは、すぐには答えられなかった。
言われてみると、その通りだった。
「……その手が……あったか」
「お前、まさか考えてなかったのか?」
「……」
「うっそだろお前、自分が使えねえからって、ヒマリのも頭から外してたな?」
「……結果的に、そうなる」
「アホかお前」
ヴィラが、呆れたような顔で笑った。
アーシュは、視線を窓の外に逃した。
自分の頭の中で、旅の支度は「持って運ぶもの」だった。背嚢一つに収まる程度、それが「持てる量」だった。長い間そうやって生きてきた。
けれど、ヒマリにはその制約がない。
使えないものは、使えるものの存在を忘れさせる。それは、自分の限界が、ヒマリの可能性まで縛っていた、ということでもある。
(……俺の頭が固かったか)
アーシュは、内心で小さく息を吐いた。
「明日、ヒマリが起きたら、相談する」
「おう、そうしてやれ。あの子、絶対喜ぶぞ」
「そうか」
「ああ、子どもってやつは、役割を欲しがるもんなんだよ」
「……そうだな」
ヴィラが、革紐を編む手を止めて、にやりと笑った。
「これで、人に頼ることを覚えたな」
「……うるさい」
アーシュが、視線を逸らした。
窓の外で、街の明かりが、一つずつ灯り始めていた。




