第九話 砂の夜、星の海
砂の海を歩き続けて、日が暮れた。
風は止み、空には早くも一番星が見えていた。
ヴィラが砂を踏みしめながら、両手を頭の後ろで組んだ。
「うー、腹が減ったな。アーシュ、何か食うもんあるか?」
「干し肉とパンならある」
「またそれかよ。せっかく砂漠まで来たんだ、もうちょい気の利いたもんを食いたいぞ」
「文句があるなら、自分でなんとかしろ」
「……お、それもそうだな」
ヴィラの目が、にやりと光った。それを見て、アーシュが少しだけ眉を寄せた。
「お前、何を考えている」
「いいことを思いついた。砂漠の夜にしか出ねえ獲物がいるんだ。ちょっと狩ってくる」
「……砂漠の夜の獲物?」
「スナモグリオオトカゲっつう、デカいトカゲでな。砂に潜って獲物を待つ習性がある。日が落ちると出てくるんだ」
ヴィラがサクラの鞍を締め直しながら 、ヒマリの方に顔を向けた。
「あ、トカゲだと思って微妙な顔してんな? それがよ、めちゃくちゃ美味いんだぜ。皮はゴワゴワだが、中の肉は脂が乗っててな、香草で焼くとたまんねえんだ」
「おいしそう」
「お、ヒマリも食いてえか。よし、気合い入れて狩ってくるとすっか」
「いま?」
「いまだ」
ヒマリが、ぽかんとした顔をした。
アーシュが、深く息を吐いた。
「……ヴィラ、お前、急に思いつくのが昔から悪い癖だぞ」
「うるせえ、思いついた時にやらねえとな! よし、サクラ、行くぞ!」
ヴィラがひらりとサクラの背に飛び乗った。サクラが「キュ!」と高い声で鳴いて、砂を蹴って駆け出した。
砂煙が舞い、ヴィラとサクラの姿はあっという間に砂丘の向こうに消えた。
あとには、また、砂と風の音だけが残った。
アーシュとヒマリが、しばらく、その方向を見ていた。
「……行っちゃった」
「ああ」
「ヴィラさん、ほんとに、嵐みたいだね」
「……否定はしない」
ヒマリがふふっと笑った。
*
二人で野営の支度を始めた。
砂を掘って火床を作り、薪を組み、火を起こす。ヒマリは、もうこの作業に慣れていた。マナで火を灯すのも、迷いがなかった。
簡単な夕食を済ませてから、家を出した。
砂の海の上に、いつもの丸太の家がぽつんと立った。
けれど、二人ともすぐには中へ入らなかった。
寒かったが、家に入るのは勿体ない気がして、毛布に包まって火を囲んでいた。
風がない夜だった。
火の音と、自分たちの呼吸の音以外、何も聞こえない。岩石砂漠の夜とは違う。あの時は隊商の音や薪の爆ぜる音があった。今は、本当に何もない。
ヒマリが、ふと、空を見上げた。
「……あ」
星が、出ていた。
砂漠の夜は、岩石砂漠の時よりも、もっと暗く、遮るものが本当に何もない。空の端から端まで、星が広がっていた。
砂の海の上に、もう一つの海が浮かんでいるようだった。
「わあ……」
ヒマリが、毛布を引き寄せて、空を見続けた。
その時だった。
空の一部が、わずかに揺らいだ。
「……ん?」
ヒマリが、目を細めた。
もう一度、空が揺らいだ。
それは、星と星の間にある暗闇の中で、淡い緑色の光が、ゆるやかに帯を作って流れていく現象だった。最初はわずかだったのが、だんだんとはっきりしてくる。淡い緑が、淡い青に変わり、また緑に戻る。光の帯が、空一面にたなびいていた。
「……なに、これ」
ヒマリの声が、震えていた。
アーシュが、空を見上げて目を細めた。
「……レイラインだ」
「れいらいん?」
「地下にな、マナの川が流れている。それが、地表に出るときに空に放たれる」
「マナの、川……」
「ああ。人の目に見えるのは、マナが濃いこの辺りくらいだろう」
光の帯が、ゆっくりと動いていた。星々の合間を縫って、空全体を撫でるように流れている。風はないのに、光だけが流れていた。
ヒマリが、立ち上がった。
毛布を引きずったまま、火から少し離れた砂の上に立って、空を見上げ続けた。
長い時間、そうしていた。
それから、ぽつりと、言った。
「……トバスさん」
アーシュが、ヒマリの背中を見た。
「トバスさんが、言ってたのって……この空のことだったのかな」
その声は、確信のあるものではなかった。けれど、確信したいような響きがあった。
アーシュは少し考えてから、口を開いた。
「ヒマリ。お前はどう思う」
ヒマリが、振り返った。
光の帯が、その小さな顔の向こうで揺れていた。
「……どっちも、すき、かな」
「どっちも?」
「岩のとこの星空も、すごくきれいだったよ。風がふいて、火がぱちぱち言ってて、みんな笑ってて。あれも、すきだった」
「ああ」
「で、こっちは──」
ヒマリが、もう一度、空を見上げた。
「……ほんとに宝石箱、みたい」
その言葉が、砂の上にぽとりと落ちた。
風はない。けれど、ヒマリの言葉が、確かに空に届いたような気がした。
「だから、どっちもすき。トバスさんも、たぶん、そう、なのかも」
「……そうかもしれないな」
ヒマリが、少しだけ笑った。それから、また空を見上げた。
アーシュは、その横顔を、少し離れた場所から見ていた。
無邪気な顔だった。
迷いも、選び損ねた残念さもなく、ただ「どっちもすき」と言える顔。
大人になると、なかなかこういう顔はできない。どちらか一つを選ばなきゃならない、と思い込むからだ。ヒマリは、まだ、どっちもすきと言える子どもだった。そう言える場所に、今、立っていた。
胸の中で、何かが小さく動いた。
コトリ。
とても小さな音だった。けれど、確かにあった。
アーシュは、その音を、何度か聞いている。
ルミナスの宿で、ヒマリが「アーシュと二人でくらすみたいで、うれしい」と言った時。
星を一緒に見ようと、ヒマリが約束を確かめた時。
そして、今──宝石箱、と言った横顔を見た時。
その正体は、まだ、よくわからない。
(……何だろうな、これは)
答えは出なかった。けれど、答えが出ないままでも構わない気がした。
火がぱちりと爆ぜた。光の帯がまた流れた。
ヒマリが「おやすみ」と言って家に入ってからも、アーシュはしばらく火の側で空を見ていた。
光の帯は、夜更けまでゆっくりと揺れ続けていた。それはやがて、夜明けが近づくと共に少しずつ薄れていき、東の空が白み始める頃には、もう見えなくなっていた。
代わりに、朝の青さが、砂の海の上に広がっていた。
日が昇って、しばらく経った頃だった。
砂丘の向こうから、勢いよく砂を蹴る音が聞こえてきた。
アーシュが顔を上げると、サクラに乗ったヴィラが、こちらに駆けてくるのが見えた。サクラの背には、何かでかいものが括り付けられている。
そばまで来たヴィラが、呆れたような、驚いたような複雑な顔で家を見上げた。
「うっわ、マジで家持ち歩いてんのな……」
「この辺りは人がいないからな」
「そういうことじゃねえ………って、それよりさ、見てくれよ、アーシュ! 朝飯、穫ってきたんだ! 新鮮なうちに食おうぜ!」
大声だった。
少しして、眠そうな顔をしたヒマリが、毛布にくるまったまま家から出てきた。
「なにかあったの……ヴィラ、さん」
「お、ヒマリ起きたか! 見ろよ、これ!」
ヴィラがサクラから飛び降りて、背中に括り付けていた獲物をどさっと砂の上に下ろした。
全長は、アーシュの背丈ほどあった。
太く長い尾、ごつごつとした鱗、頑丈そうな四肢。鼻先が長く尖っていて、目はもう閉じている。
ヒマリが、毛布から顔だけ出して、ぽかんとそれを見た。
「……おっきい」
「だろ? 夜明け前にようやく一匹捕まえたんだ」
「ヴィラ、お前……」
「アーシュ、こいつ、捌けるよな? 俺は捕まえるのは得意なんだが、調理はからきしでよ」
「……」
アーシュが、目元を片手で覆った。
深く、長く、息を吐いた。
ヒマリが、毛布の中から、おそるおそる尋ねた。
「アーシュ……これ、今から、たべるの?」
「……ヴィラがどうしてもと言うなら、そうなるな」
「えへへ、お前ら、これがめちゃくちゃ美味いんだぞ。アーシュがすぐ作るから、待っとけ」
ヴィラがサクラの首を撫でながら、上機嫌に歌のようなものを口ずさみ始めた。
アーシュが、ヒマリと目を合わせた。
ヒマリは、状況を理解しきれていない顔をしながらも、なんとか毛布から這い出した。それから、笑った。
「……朝から、お肉、なんだね」
「……そうなるな」
「すごいね、ヴィラさん」
「ああ。すごいな」
アーシュは、観念したように、包丁を取り出した。
ヴィラが「よっしゃ!」と拳を握り、サクラが「キュー!」と高らかに鳴いた。
昨夜の静かな宝石箱が嘘のように、砂の上は急に賑やかになっていた。
アーシュはトカゲの皮に包丁を当てながら、ふと、思った。
(……まったく、嵐みたいな女だ)
ため息が出た。
けれど、不思議と、悪い朝ではなかった。




