第七話 分かれ道と、嵐の再来
朝が、静かに来た。
夜のうちに冷え切った空気は、日の出と共に少しずつ温まり始めている。けれど、まだ寒さが残っていた。ヒマリが毛布の中で身じろぎして、それからゆっくりと目を開けた。
「……あさ?」
「ああ」
「……さむい」
「もう少しで日が高くなる」
起き上がると、すでにドワーフたちは出立の準備を始めていた。荷車に荷をくくり直し、獣に水を飲ませ、火の始末をしている。慣れた動きは、昨日と同じだった。
ヒマリも、もぞもぞと毛布から出て、布で顔を拭いた。それから、収納にテントと毛布を戻していった。
「アーシュ殿、嬢ちゃん、おはようさん」
ガルダが歩いてきた。手には湯気の立つ椀を二つ持っている。
「朝飯だ。簡単なもんだが、食ってけ」
差し出されたのは、薄いスープと、平たく焼いたパンだった。素朴だが、温かい。ヒマリが両手で椀を受け取って、ふうふうと冷ましてから一口啜った。
「……あったかい」
「だろ? 朝の砂漠は冷えるからな。腹に何か入れねえと、足が動かねえ」
アーシュも椀を受け取った。一口飲むと、塩と香草の素朴な味が広がった。悪くなかった。
*
食事が終わると、ガルダが大きな手を腰に当てて、こちらを見た。
「で、アーシュ殿。あんたら、これからどっちへ行くんだ」
「北だ。砂の砂漠を抜けて、グラド・ヴァルカン本国へ向かう」
「ほう、本国までか」
ガルダが少し驚いた顔をした。
「確かに砂地をつっきりゃはええが、難儀な道を選んだもんだな」
「事情があってな」
「ふうん。まあ、あんたなら平気だろうが……」
ガルダがヒマリに目をやった。
「俺たちはこっから西に抜けるよ。エルディア北部に抜けて、向こうの街に荷を入れるんだ」
「そっか」
「だから残念だが、ここから先は別行動だな」
ヒマリが少し驚いた顔をした。
「……ここで、おわかれ?」
「ああ。あんたらは北、俺たちは西だ。このオアシスは丁度分岐点になってるんだ」
ガルダがしゃがみ込んで、ヒマリと目線を合わせた。
「嬢ちゃん。ここから先は、砂ばっかだぞ」
「そうなの?」
「ああ、岩がなくなる分、日差しを遮るもんがねえ。暑さも寒さも、今までより応える」
「……うん」
「水はちゃんと持ったか?」
「アーシュが、いっぱい用意してた」
「そうか。なら、よし」
ガルダが大きな拳を軽く差し出した。
ヒマリが少し迷ってから、小さな拳をこつんと当てた。
「はっはっは、上出来だ! がんばれよ、嬢ちゃん。ちゃんとアーシュ殿の足についていくんだぞ」
「うん。がんばる」
「おう、その調子だ!」
他のドワーフたちも、それぞれにヒマリへ声をかけた。
「嬢ちゃん、薪、助かったぞ」
「達者でな」
「次に会う時は、もうちょっと背、伸びてるかもな」
「俺らよりデカくなってんだろうさ」
「ちげえねえ」
ヒマリは一人一人にぺこりと頭を下げて、それから少しはにかんで笑った。
ガルダがアーシュに向き直った。
「アーシュ殿。世話んなった」
「こちらこそだ。助かった」
「いやいや。あんたと飯食えただけで、組合への土産話としちゃ十分だ」
ガルダが太い手を差し出してきた。アーシュがそれを握った。
昨日の夕方と同じ握手だった。けれど、今度は別れの握手だ。
「達者でな、アーシュ殿」
「ああ。お前たちもな」
ガルダの手が、しっかりとアーシュの手を握り、それから離れた。
*
荷車が動き出した。
獣が一歩、また一歩と砂を踏み、荷車の車輪がきしむ。ドワーフたちが歩き出し、その隊列は西へと向かい始めた。
何人かが振り返って、手を振った。
ヒマリも手を振り返した。何度か。
しばらくすると、隊列は岩場の向こうに姿を消した。声も、車輪の音も、少しずつ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
あとには、また、岩と砂と風の音だけが残った。
ヒマリが、しばらく西の方を見ていた。
「……行っちゃった」
「ああ」
「賑やかな、おじさんたちだったね」
「ああ」
ヒマリが、もう一度、西の岩場を見た。それから、ぽつりと言った。
「……静かになると、少し淋しいな」
その声には、駄々の色はなかった。ただ、感じたことを言葉にしているだけの、静かな声だった。
アーシュは少しだけ、足を止めた。
淋しい、と、ヒマリが言った。
以前のヒマリなら、こういう感情に名前をつけることもできなかったかもしれない。今は、自分の中に生まれた感情を、ちゃんと言葉にして、口に出せている。
それは、楽しいことだけではない。賑やかさが去った後の、胸の中に残るあの感覚にも、ヒマリは気づけるようになっている。
(……別れを、また一つ覚えたな)
アーシュは、そう思った。
言葉にはしなかった。ただ、ヒマリの隣で、しばらく西の方を見ていた。
「……行くか」
「うん」
二人で、北へ向かって歩き出した。
風が、岩と岩の間を抜けていく音だけが、足音と共に続いていた。
*
しばらく歩いた頃だった。
日はまだそれほど高くなく、岩場の影もまだ大きい。ヒマリは少し俯きがちに歩いていた。淋しさが、まだ尾を引いているのかもしれなかった。
と、東の方から、音がした。
最初は風の音かと思った。けれど、それは違った。
ジャッジャッジャと、何かが断続的に大地を蹴る音。二本足の、軽快な足音だ。
アーシュが、足を止めた。
ヒマリも、顔を上げた。
「……なに?」
音が、近づいてくる。早い。けれど、馬のような重い音ではない。もっと軽くて、けれどしっかりとした足音。
岩場の向こうから、それが現れた。
毛むくじゃらの、二本足の生き物だった。
体高はアーシュよりやや高い。胴体は丸く、ふわふわとした羽毛のようなものに覆われていて、太い首の先には、頑丈そうな大きなクチバシがついていた。脚は二本で、太く、爪のしっかりした足が砂を蹴っている。眼は丸く、つぶらだった。
そして、その背に、人が乗っていた。
黒に近い濃い青の短い髪。金色の目。日に焼けた、健康的な肌。首筋に、薄く鱗の名残が見える。
ヴィラだった。
ヴィラは、騎獣の手綱を引いて、勢いよく目の前で止めた。
砂埃が、ぶわっと舞った。
「いた! やっと追いついたぞ!」
大声だった。岩場に反響するほどに。
ヒマリが、ぽかんとした顔で、ヴィラを見上げていた。
ヴィラが、ひらりと騎獣から飛び降りた。砂を蹴って、こちらに大股で歩いてくる。
「アーシュ!」
「……ヴィラか」
「ヴィラかじゃないだろ! 久しぶりだろうが!」
ヴィラが、アーシュの肩を、強めに叩いた。アーシュが少しよろけた。
「お前、ほんとに砂漠を徒歩で渡ってんのな。途中の村でそれらしい二人組が砂漠に向かったって聞いたがよ、マジかって頭抱えたぜ!」
「これくらい平気だからな」
「お前はな! お前は! でも、ヒマリは──」
ヴィラの視線が、ヒマリに移った。
つかつかとヒマリの前に歩いてきてしゃがみ込んだ。金色の目が、ヒマリの顔をじっと見る。
ヒマリは、まだぽかんとしていた。
「ヒマリ」
「……う、うん」
「ちゃんと飯食ってるか」
「……たべてる」
「寝てるか」
「うん」
「嫌なことは嫌って言えてるか」
「……ちょっとだけ」
「なら上出来だ」
ヴィラが、にかっと笑った。
そして、大きな手でヒマリの頭をくしゃっと撫でた。
「会いたかったぞ、ヒマリ」
「……ヴィラ、さん」
ヒマリの目に、じわりと何かが滲んだ。
ヴィラが、それを見て、目を細めた。それから、立ち上がってアーシュを振り返った。
「アーシュ。お前、なんか顔がゆるくなったな」
「……そうか」
「前より人間くさい顔してる」
アーシュが、視線を逸らした。
ヴィラが、にやりと笑った。それから、騎獣の方に親指を立てた。
「こいつはサクラ。アーシュを探すためにドラグニルの育成所で借りてたんだ」
「サクラ?」
知っている響きを聞いて、思わずヒマリが反応した。
「ああ、ヒマリは勇者様と故郷が同じだったな。こいつは、かつて勇者様が乗ったという大鳥馬の血統でな、それにあやかって付けたのさ」
「それで、サクラなんだ」
「ああ、花の名前なんだってな。きれいな名前だが、砂漠でも走れる強い子なんだぜ」
勇者が乗っていた騎獣の末裔と聞き、アーシュが興味深そうにサクラを見た。
「……強そうだな」
サクラと呼ばれた騎獣が、つぶらな眼でアーシュを見て、それから「キュ」と鳴いた。
ヒマリが、ヴィラとアーシュのやりとりを聞きながら、おそるおそる、サクラに手を伸ばした。
「さわっても、いい?」
「いいぞ、人懐っこい子だ」
ヒマリの指先が、サクラの毛に触れた。
ふわふわ、だった。
ヒマリの目が、ぱあっと明るくなった。
「……ふわふわ」
「だろ? 俺もこいつのモフモフが気に入って借りてきたんだ」
ヴィラが胸を張った。
ヒマリは、サクラの首元に両手を埋めた。ふわふわの羽毛が指の間を抜けていく。サクラがまた「キュ」と鳴いた。気持ちよさそうだった。
*
アーシュは、少し離れた場所で、その様子を見ていた。
ヴィラが、騎獣の背を軽く叩きながら、何か機嫌よく話している。 ヒマリが、サクラのふわふわに顔を埋めて、嬉しそうに目を細めている。
さっきまで、岩場には風の音しかなかった。
今は、女と少女と騎獣の声が、賑やかに響いている。
淋しい、と言ったヒマリの隣には、もう淋しさはなかった。
代わりに、嵐のような女が一人、唐突に飛び込んできていた。
(……まったく、相変わらずだな)
アーシュは、小さく、息を吐いた。
けれど、その口元は、ほんの少しだけ、緩んでいた。




