第四話 砂漠に咲く花
岩と砂の中で迎えた朝は、思っていたよりも静かだった。
夜のうちにすっかり冷え切った空気が、日の出とともにゆっくりと温まっていく。ヒマリが森の家から出てきて、空を見上げて、それから小さく伸びをした。
「おはよう」
「ああ」
「……空気、まだつめたいね」
「もうしばらくはな。日が高くなると一気に変わる」
朝食を済ませると、ヒマリが家を収納した。岩と砂の景色の中に、また二人だけが残された。
「……行くぞ」
「うん」
岩場を選びながら歩く。昨日と同じく、空にはほとんど雲がない。
朝のうちは、まだ良かった。ヒマリも、周囲の植物に意識を向ける余裕があった。
三十分程歩いたところで、日が中天に近づきはじめ、暑さの気配が変わっていった。
岩から立ち上る熱が足元から這い上がってくる。布を被っていてもじりじりと首筋を焼かれるような感覚があり、ヒマリの歩幅が、少しずつ狭くなっていた。
本人は気づいていないのか、まだ前を向いている。けれど、布の下から見える耳まで赤い。
アーシュは足を止めた。
(……昨日より状況が悪い。このままでは、危ないな)
「ヒマリ」
「……うー?」
少し難しい顔をして、片手を軽く前に持ち上げると、指先に意識を集めた。
ふっと、空気がにじむような感触があった。
ヒマリの周りに、薄い霧が立ちのぼった。手のひらほどの広さに、ごく細かい水の粒が浮いている。風がないのに、それが少しずつヒマリの顔のあたりに流れていく。
「……あっ」
ヒマリが目を丸くした。
「涼しい……なにやったの」
「水魔法の応用だ。細かい水が蒸発すると、周りの熱を持っていく」
「ねつを、もっていく?」
「ああ。だから涼しくなる」
「なんか、ふわってして、スゥっとするね」
ヒマリが手を伸ばして、霧の中に指を入れた。指先が湿って、少しだけ冷たくなる。
「……わたしも、やってみていい?」
「やってみろ」
ヒマリが両手を前に出して、目を閉じた。
しばらく集中したあと、手のひらに小さな水玉が現れた。それは、いつもの水玉だった。粒にはならない。
「……ちがう」
もう一度、ヒマリが集中する。水玉が少し揺れたが、形は変わらなかった。
「霧にするなら、水をもっと細かくしないといけない。粒を小さくして、広げる。雨の練習にもなるだろうな」
その言葉に、ヒマリがぱっと顔を上げた。
「雨の、練習?」
「ああ。雨を降らせるには、水を細かくして、広く落とす必要がある。霧は、その手前だ」
「じゃあ、アーシュは、雨もできるってこと?」
「やる気になればな」
「見たい!」
「砂漠の真ん中で雨を降らせる阿呆がどこにいる。マナの無駄だ」
「うー……」
ヒマリが少しだけ唇を尖らせた。けれど、すぐに目に力が戻ってきた。
「じゃあ、これ、ちゃんとできるようになりたい」
「焦るな。まずは小さく、だ」
「うん。でも、いつかは雨も」
「ああ」
「虹は?」
「……工夫すれば、作れる」
「ほんとう?」
「ああ」
ヒマリが小さくこぶしを握った。汗で頬に貼り付いた前髪も気にせず、まっすぐにアーシュを見上げている。
「わたし、雨と霧、ちゃんとできるようになる」
「焦るな。ゆっくり覚えろ」
「うん。でも、いつか」
「ああ」
霧がゆっくりと薄れていった。
代わりに、ヒマリの目の中で、何かが小さく光っていた。
アーシュは何も言わなかった。
ただ、その光を消したくはないと思った。
*
昨日よりも、ヒマリの消耗は早かった。
霧で凌いだのも一時のことで、午後の日差しは容赦がなかった。ヒマリの足取りはますます重くなり、口数も減っていた。布の下から見える頬が、不自然なほど赤い。
(これは、もう少しで限界だな……気配はこの方向か。あると良いのだが)
「ヒマリ」
「うん……」
「今、どれくらいつらい」
「……だいじょうぶ」
「それでは分からん。つらいなら、つらいと言え」
「……ちょっと、つらい」
「分かった。もう少しだけだ」
ヒマリの呼吸が、やや早くなっている。アーシュは岩陰を選びながら、目線をやや遠くに送った。
岩、岩、岩。乾いた地面と、白く焼けた空。
──と、その向こうに、わずかに緑が見えた。
最初は錯覚かと思ったが、近づくにつれて輪郭がはっきりしてきた。低い灌木が数本、地を這うように生えている。その奥に、もっと濃い緑がまとまっている場所があった。
「ヒマリ」
「うん……?」
「あれを見ろ」
ヒマリが顔を上げた。布の影の下で、目が少しだけ大きくなる。
「……みどり?」
「ああ。たぶんオアシスだ」
「オアシス……!」
声に張りが戻った。ヒマリの足が、急に少し速くなった。
「予定より早いが、今日はここで切り上げよう」
「うん、うん!」
アーシュは小さく息をついた。少し早めに見つかってくれて助かった、と、そう思った。
*
オアシスは、思っていたよりも小さなものだった。
岩に囲まれた窪地に、澄んだ泉が湧いている。直径にして、せいぜい家二、三軒分といったところだ。けれど、水のまわりには確かに緑があった。背の低い灌木、細い葉の草、そして見たことのない花がいくつか。
ヒマリは、泉に着くなり布を脱ぎ捨てて駆け寄った。
「みず!」
「顔を洗うくらいにしておけ。飲むのは煮沸してからだ」
「うん、わかった」
ヒマリが両手で水をすくって、顔にかけた。それから何度か、ぱしゃぱしゃと音を立てて、ようやくふうと息をついた。前髪から水が垂れて、首筋を伝う。
「……生きかえった」
それから、ヒマリは目を周囲に走らせた。
「あ、お花」
「砂漠の花だな」
岩陰に、白く小さな花が咲いていた。花弁は薄く、けれど厚みがあって、乾いた風に耐えられるように作られている。ヒマリがそっと近づいて、しゃがみ込んだ。
「かわいい……こんな、何もない場所でも、咲くんだ」
「水がある場所には咲く」
「ちょっとだけでも?」
「ああ。少しでも、根を張れるならな」
ヒマリが少し離れた草も覗き込んだ。葉が細長く、表面に薄く粉のようなものがふいている植物。さらにその奥には、小さな赤い実をつけた低木があった。
「これ、たべられるのかな」
「赤いのは大丈夫なはずだ。ただ、酸っぱいぞ」
「ちょっとだけ、味見してみる」
ヒマリが慎重に一粒摘んで、口に入れた。次の瞬間、目をぎゅっとつぶった。
「……すっぱい」
「だから言った」
「でも、おいしい……かも」
少し迷ってから、ヒマリはもう一粒摘んだ。それから、はっと顔を上げた。
「……あ」
「どうした」
「トバスさん、こういうの、好きそうだなって」
「……そうだな」
「砂漠の植物とか、薬草とか、香辛料とか……知ってるかなあ」
「あの男なら、たいてい知っているだろう」
ヒマリがふふっと笑った。少しだけ目尻が下がっていた。
「どこかで会えるといいな」
「……戻る途中に、トバスの家がある町に寄ってみるか」
「やったあ」
ヒマリは、それからもしばらく植物を眺めていた。葉の裏、花の付け根、根元の砂の色──小さなことを、一つずつ確かめるように見ていく。
アーシュは岩に腰を下ろして、それを見ていた。
と、風が吹いた。
オアシスの泉を撫でつけた風は、少し湿り気を帯びていて涼しく感じた。
空を見上げた。日はまだ少し高い。早めの野営にしては、悪くない場所だった。
ヒマリが、岩陰の花にもう一度視線を戻している。
砂漠に咲く花を見て、あんなにも嬉しそうにはしゃぐ。
そんな人間と、自分は旅をしているのだ。
そう思うと、岩と砂ばかりの道も、少しだけ違って見えた。




