第三話 岩と空
ルミナスを発ってから、ちょうど二週間。ようやくグラド・ヴァルカンとの国境を越えた。
国境の検問はあっさりとしたものだった。
アーシュが身分を示す証を見せると、ルミナリア側の衛兵が少し目を丸くして、グラド・ヴァルカン側の衛兵に何かを言った。
ヒマリのことは弟子だと説明したが、衛兵達はほとんど確認もせず、深々とお辞儀をして二人を通した。
「なんで、あんなに、ていねいだったの?」
「……俺が超越種だからだ。ルミナスでもそうだったろう」
「アーシュって、すごいんだね」
「……面倒なだけだ」
ヒマリがくすりと笑った。
国境を越えると、三十分も歩かないうちに景色が大きく変わった。
これまで、まばらでも生えていた野草たちがそっくり消えてしまっていた。
だいぶ低くなっていた木々もほとんど見当たらない。足元の土は白く乾き切っていて、踏むたびにさらさらと崩れる。空は青く高く、雲ひとつない。日差しが肌に直接刺さってくるような感覚があった。
「ほんとに、なくなっちゃった……」
ヒマリが立ち止まって、周囲を見回した。
「木も、草も……」
「ああ」
「なんか、火星の景色みたい」
アーシュは少しだけ目を細めた。
「火星、か」
その言葉を聞くのは、ずいぶん久しぶりだった。
「うん。本で読んだ。岩と砂だけなんだって」
「そうだな、似ているかもしれない」
ヒマリがまた歩き出した。足元の岩に気をつけながら、慎重に歩幅を取っている。
「ねえ、アーシュ。何か、はえているよ」
ヒマリが指差した先に、丸く膨らんだ、トゲのないサボテンのような植物があった。
「あれはシュタールという。砂漠の植物だ」
「砂漠にも、草が生えるんだね」
「ああ。植物はたくましい」
*
昼になると、暑さが本格的になってきた。
日差しを遮るものが何もない。岩が熱を吸い込んで、足元からじわじわと熱が上がってくる。アーシュは平気だったが、ヒマリの頬が赤くなり始めていた。
「……あつい」
「日差しよけにこれを使え」
アーシュが背嚢から薄い布を取り出してヒマリに渡した。頭から被って顔に影を作るための布だ。
「ありがとう……アーシュは?」
「超越種だから、これくらいは平気だ」
「ずるい……」
「体の仕組みが違うからな」
「いいなあ……」
アーシュは何も言わなかった。ヒマリが布を被りながら、恨めしそうな顔しながらついてくる。
岩場の陰を選びながら歩いた。完全には避けられないが、少しは楽になる。ヒマリが岩の形を観察しながら歩いていた。大きいもの、小さいもの、平たいもの、鋭く尖ったもの。どれも同じような色をしているのに、形はみんな違う。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「この岩たちは、ずっとここにいたの?」
「おそらく、千年以上はずっとだろうな」
「せんねん……」
ヒマリが、大きな岩の側面にそっと手を触れた。
「ずっと、ここで空を見てたんだね」
アーシュはその言葉を聞いて、少しだけ足を緩めた。
岩が空を見ている。そういう見方をこの子はする。それがなんだか、心地よく感じた。
*
日が傾き始めた頃、岩陰に野営の場所を決めた。
風が出てきていた。昼間の熱がどこかへ逃げていくように、空気の温度が急速に下がっていく。ヒマリが首元を押さえた。
「今度は、さむくなってきた」
「砂漠の夜は冷える。昼との差が大きい」
「聞いてたけど、こんなに急に変わるとは思わなかった」
アーシュが収納から薪を取り出してヒマリに渡した。
「焚き火の用意を頼む」
「いいの?」
「ああ、まかせた」
ヒマリが少しだけ考えてから、薪を受け取った。
石を集めて囲いを作り、薪を組む。それからヒマリが手のひらに火を灯して、薪の根元に当てた。しばらくして、細い煙が上がり始めた。
「……ついた」
「ああ、上手くできた」
ヒマリが少し誇らしそうな顔をした。
二人で焚き火を囲んで夕食の準備をした。今夜は干し肉と豆のスープだ。鍋が煮立つ音が、静かな岩場に響いた。
ヒマリが空を見上げた。
「あ……」
星が、出始めていた。
まだ宵の口だというのに、もう数えきれないほどの星が出ている。森の中では木々に遮られていた。ルミナスでは街の灯りが邪魔をした。けれど、ここには何もない。遮るものが何もない夜空に、星だけが広がっていた。
「すごい……」
ヒマリがぽつりと言った。それだけだった。でも、それだけで十分だった。
アーシュも空を見上げた。
確かに、多い。こんなに星があったのかと、自分でも少し驚いた。長い時間を生きてきたはずなのに、こういうものを改めて見ると、まだ驚けるのだと気づく。
「……トバスが言っていたな」
「うん。宝石みたいって。ほんとだよ、ほんとに宝石みたい」
ヒマリが毛布を膝の上に引き寄せながら、首を傾けて空を見ていた。
「アーシュとね、いっしょに見るって、約束してたね」
「ああ」
「……見られてよかった」
その一言が、静かに岩場に落ちた。
アーシュは何も言わなかった。ただ、同じように空を見ていた。
焚き火がぱちりと爆ぜた。煙が細く上がって、星空に溶けていった。
*
夜が深まると、冷えはさらに増した。
ヒマリが魔導具を取り出して、毎晩のマナを注いだ。石がほんのりと温かくなる。それを確認してから収納にしまった。
「今日も、できたよ」
「ああ」
「三年分の、今日の分。ちょっとずつだけど、すすんでるんだよね」
「ああ、進んでいる。焦る必要はない」
「うん」
冷たい風が頬を撫で、ヒマリが小さく身震いをした。
「そろそろ、家を出していい」
「あ、そうだった。忘れてた」
ヒマリが家を出した。荒れ地に続いて、今度は岩石砂漠の真ん中に丸太の家が現れた。
岩と砂と星空の中に、森の家。
ヒマリが扉を開けながら振り返った。
「なんか……家があると、どこでも大丈夫な気がする」
アーシュはその言葉を聞いて、扉の向こうの見慣れた内装を見た。
どこでも大丈夫。
ヒマリがそう言える場所が、この家なのかもしれない。それがどこへ行っても一緒についてくる。
(なんだか、カタツムリのようだ)
そう思ったが、口には出さなかった。代わりに、岩と砂の上に広がる星空を見上げた。
岩と砂の国の夜に、森の家の明かりがぽつりと灯っていた。




