第一話 木が減っていく
ルミナスの白い塔が見えなくなって、三日が経った。街道はまだルミナリア神聖王国の内にあるが、西へ向かうにつれて景色は少しずつ変わり始めていた。
空は透き通るように青く、晴れ渡っているが、朝の日差しはそれほど強くなく、気持ちの良い初夏の風が頬を撫でていく。
ヒマリは、アーシュの半歩後ろを歩いていた。
最初の一日はほとんど黙ったまま歩いた。ルミアとヴィラに見送られた時の空気が、まだ体のどこかに残っていたのかもしれない。
二日目の朝、少しだけ口数が増えた。
そして、今日はもうほぼいつも通りだった。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「木、少なくなってきてる、よね」
アーシュは前を向いたまま、短く答えた。
「ああ、そうだな」
「なんか……さみしいね」
アーシュは少しだけ足を緩め、街道の両脇を見回した。
ルミナスを出てしばらくの間は、農地と牧草地が混在し、街道沿いには背の高い、古い並木が続いていた。それが気づけば低木に代わっていて、草もまばらになり、代わりに岩のごつごつした荒れ地が増えてきている。
「この先は、もっと減る」
「もっと?」
「ああ。砂漠に近づくにつれて、草木は少なくなっていく」
ヒマリがそれを聞いて、少し考えるような顔をした。
「じゃあ、砂漠になったら、全部なくなるの?」
「見知ったものは見かけなくなるだろうな」
「……そっか」
ぽつりと言って、またしばらく黙った。
アーシュは、ヒマリの横顔をちらりと見た。さみしいね、と言ったのは本心だろう。この子は出会った頃から森の中で暮らしていた。木の匂い、苔の湿り気、葉の擦れる音。それが当たり前の環境だった。
それが少しずつなくなっていくのを、体で感じているのだろう。
*
昼を過ぎた頃、街道沿いの岩場で休憩を取った。
アーシュが背嚢から水の革袋を取り出し、ヒマリに渡す。ヒマリが一口飲んで、岩に腰を下ろした。足をぶらぶらさせながら、遠くを眺めている。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「砂漠の、お話をもっかいしてほしい。アーシュ、いったことあるんだよね」
アーシュも岩に背を預け、空を見上げた。
「暑かった。それから、夜は寒かった」
「……それ、前も聞いたよ」
「砂も、飽きるほどあった」
「それも聞いた。ほかに、なにか無かった?」
「……夜になると、音が遠くまで届く」
「音?」
「風の音も、獣の足音も、自分の息の音もだ。余計なものが少ないからだろうな」
「へえ……静かなのか、賑やかなのか、わからないね」
「そうだな……」
アーシュが腕を組んで考え込んでいる。ヒマリは、少しの間それを見つめていたが、やがて待ちきれなくなったように口を開いた。
「あのね、トバスさんがね、夜は星がすごいって言ってたよね」
「ああ」
「アーシュとね、いっしょに見るって、約束したよね」
「覚えている」
「ほんとかな……」
「本当だ」
ヒマリが足をぶらぶらさせながら、遠くの空を見ていた。その目は、すでに砂漠の夜空を想像しているような色をしていた。
アーシュは、ヒマリの横顔をまた少し見ていた。
約束した、とこの子は言う。あの宿場町の宿で、窓辺に座りながら言ったことをきちんと覚えていた。
確かに「ああ」と返したのを覚えている。そんなやり取りを、ヒマリはちゃんと覚えていて、ずっと楽しみに持ち続けていた。
それがなんだか、悪くないと感じた。
*
夕方、野営の準備をしながらヒマリが魔導具を取り出した。
青みがかった小さな石。ルミアから預かった、帰還術式を発動させるのに必要なマナを貯める魔導具だ。
ヒマリは旅の間、毎晩マナを注いでおくと、ルミアに約束していた。
ヒマリは両手で石を包み、目を閉じた。しばらくして、石がほんのわずかに温かくなった気がした。
「……できてるかな」
「ああ。昨日よりも流れが滑らかだ」
「ほんと? ちゃんとできてるかな?」
「ちゃんとできている」
ヒマリがほっとした顔をして、石を収納にしまった。
「毎日やれば、三年で戻りの分も貯まるんだよね」
「お前のマナの量なら、そうなるだろう」
「……なんか、すごいね。毎日ちょっとずつで、三年で帰れるって」
アーシュは焚き火に薪をくべながら、短く答えた。
「続けることが大事だ。忘れるなよ」
「わすれない。ぜったい」
その言い方が妙に頼もしかった。
アーシュは炎を見ながら、これまでの旅を静かに思い返した。
ヒマリは、相変わらず朝に弱いが、きちんと起きて支度をするようになった。食事は残さず食べるようになった、というか年相応の量を食べられるようになった。
歩くのも、出会った頃より格段に速くなっている。
そして、何より、よく喋るようになった。
森の家にいた頃、ヒマリは「……うん」しか言えない時期があった。
それがいつの間にか「わるくない」と言えるようになった。
今では「さみしいね」と言って「約束したもんね」と笑うようにもなった。
アーシュの中で、また、コトリと何かが動いた。
けれど、それが何なのかを、まだ言葉にはできなかった。
炎がぱちりと小さく爆ぜた。
*
その夜、訓練を終えたヒマリがぽつりと言った。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「砂漠だから、いいことって、なにかあるのかな」
アーシュは少し考えた。
「ある、とは思う」
「たとえば?」
「……星が、よく見えると言っていただろう」
「そうだよね、やっぱり星なんだよね」
ヒマリが毛布を首元まで引き上げた。
「木のにおいはしなくなるけど、そのかわり星がたくさんあるんだよね」
「そうだな」
「木のにおいと、星のきらきら……なんか、いい交換だな」
それだけ言って、ヒマリは目を閉じた。
『なんか、いい交換だな』
アーシュはその言葉を、しばらく頭の中で転がしていた。木の代わりに星。失うものがあれば、得るものもある。それをこの子はさらりと言ってのける。
そういう風に物事を見られるのは、才能だとアーシュは思った。
少なくとも、自分にはなかなかできないことだった。
焚き火が静かに燃えていた。
ヒマリの寝息が、やがて聞こえてきた。




