第四十話 また、旅へ
今日の朝はいつもより少しだけ早く始まった。
窓の外がまだ薄青い時間にヒマリが目を覚ました。毛布の中から少しだけ顔を出し、しばらく天井を見ていた。それからもぞりと体を起こした。
「……アーシュ」
「ああ」
「もう、おきてたの?」
「少し前にな」
「……きょう、出発、だね」
「そうだな」
ヒマリは、ぼんやりとそれを口の中で繰り返した。
五日前、禁書庫で今後の予定が決まった。マナが貯まり日本へ帰れるのは三年後。それまで、世界をゆっくり見て回ると決めた。
決まったことを頭の中で並べてみる。けれど、それを「近い内に始める」と思うのと「今日から始める」と思うのは、少しだけ違うらしかった。
ヒマリは毛布の縁を指先できゅっと握った。
「……三年って、長いね」
「昨日はあっという間だと言っていたが」
「そうだったんだけど……さ」
ヒマリが、ちょっとだけ、頬をふくらませた。
「今朝はね、ちょっとだけ、長いきがする」
「……朝はそういうものだ」
「アーシュも?」
「ああ、俺も同じだ」
アーシュは窓辺で外を見ていた。神殿の尖塔が淡い光の中に白く浮かんでいる。
ヒマリはしばらくそれを背中越しに見ていた。それから、もう一度毛布から這い出して、ぐっと伸びをした。
「……うん。だいじょうぶ」
「何がだ」
「のびをしたら、なおった」
アーシュが振り返った。それからごく短く、
「……そうか」
と、言った。
ヒマリからは見えなかったが、その顔には小さく笑みが浮かんでいた。
*
朝食を済ませた頃、神殿から迎えが来た。若い神官が丁寧に頭を下げて、
「神殿長がお待ちしております」
と、告げた。
それにヒマリが神妙な顔で頷き、返事をしていた。
案内された場所は、神殿の応接室でも中庭でもなかった。神殿の正面にある大きな門の手前、広く開けた石畳の広場だった。
朝の光がちょうど街を照らし始めていた。
ルミアが広場の中央で待っていた。
今日は神殿長の正装だった。白地に金の縁取りをした衣を纏い、髪を結い上げて首元には小さな勾玉のような神具を下げている。昨日までのお嬢様口調のルミアではなく、神殿長としてそこに立っていた。
その隣にヴィラがいた。
いつも通りの長旅用の身軽な装い。背中には弓。腰には短剣。そして、両手を後ろで組んで、つまらなそうな顔をしていた。
アーシュとヒマリが近づくと、ルミアがぴんと背筋を伸ばした。
「アーシュ・タチバナ殿。ヒマリ殿」
神殿長の声だった。
「神殿は今日、お二人をこの地よりお見送りいたします。どうかご無事の旅路を」
アーシュが軽く頭を下げた。
ヒマリもそれに倣ってぺこりと、頭を下げた。
ルミアが一礼を返した。
それから、声のトーンをほんの少しだけ緩めた。
「……というのが神殿長としてのお見送りでしたわ」
「そういう堅苦しい挨拶もできるのだな」
「あの旅の中で散々お見せした筈ですが」
「……すまん、そうだったな」
ルミアがふっと、肩の力を抜いた。
神殿の正装のまま。けれど、その中身は昨日の中庭にいたルミアに戻っていた。
*
ルミアが懐から小さな箱を取り出した。
手のひらに収まるほどの小さな箱。蓋を開けると、中には青みがかった石が一つ収められていた。表面に細かな文様が刻まれている。
マナの充填の魔導具。ヒマリの分だ。
「これをお預けします。旅の間、毎日少しずつでよいのでヒマリちゃんのマナを注いでおいてください」
「うん」
「使い方はそうですね……アーシュさん、ご説明願えますか?」
「俺で構わないのか?」
「ええ、お任せしますわ」
アーシュが軽く頷いた。それからヒマリの方に屈み込んだ。
「これは、お前のマナを溜めておく道具だ。やり方は簡単だ。手のひらにマナを集めて、ここに当てる」
「あてるだけ?」
「ああ。集めたマナが自然に流れ込む。注ぎすぎても足りなくても構わん。毎晩寝る前にやれば十分だろう」
「……うん、わかった」
ヒマリが両手で箱を受け取った。中の石をそっと撫でた。それから、自分の収納に慎重にしまった。
「だいじに、もっていく」
「ええ」
「ぜったい、なくさないからね」
「ええ。信じています」
ヴィラが横からぼりぼりと頭を掻きながら現れた。
「門で見送ると言っていたのに、結局こちらに来たんですわね」
「ああ……それがさ、ルミアに頼みがあってな。あのフィネスとかいうエルフ、あいつにちょっと話を聞きにいきたいんだよ」
「あら、どうしてです?」
「あいつ、拒否リストから外したんだろ?」
「ええ」
「エルフの魔法使いで、魔王期を知ってるんなら、あの陣の話をしてもいいと思わねえか?」
「確か、空間魔法の専門家でしたか……」
「ああ、そんな奴がいりゃあよ、安心してあの術を使えんじゃねえかって」
ルミアが、ヴィラを見て、それから、ふっと、笑った。
「……ヴィラ。あなた、変わりましたね」
「うるせえな。あんなちっちぇえガキが頑張ってんだぞ。ちょっとは、こう、なんだ……色々、やってやりたくなるだろうがよ」
ヴィラが少しだけばつが悪そうに視線を逸らした。
「あいつのとこに行って、それからお前らを追っかけてくよ。グラド・ヴァルカンに行くんだろ? 町に着く頃には追いつくと思うぜ」
「ヴィラさん、来てくれるの?」
「ああ。お前のマナの貯まり具合とか、見てやらねえと心配だしな」
「……大丈夫、自分でやれるよ」
「分かってるよ。でもよ、見たいんだよ俺が」
ヒマリが少しだけ笑った。
「うん、じゃあ、まってるね」
「おう」
ヴィラがヒマリの頭にぽん、と軽く手を置いて一瞬だけぐしゃっと髪を撫でた。
「行ってこい」
「うん」
それから視線をアーシュに向けた。
「……アーシュ」
「ああ」
「言いたいことは昨日言っちまったから今日はもう言わねえ」
「……そうか」
「お前に言うことじゃねえが、気をつけていけよな」
ヴィラの声は、いつものぶっきらぼうな調子だった。けれど最後の一言だけわずかに柔らかかった。
アーシュはしばらくヴィラを見ていた。それから軽く頷いた。
「ああ」
それだけだった。
ルミアがヒマリの前に屈み込んだ。
神殿長の正装のままけれど、声はまた、お嬢様のものに戻っていた。
「ヒマリちゃん」
「うん」
「またお会いできるのを楽しみにしています」
「……うん」
「私のマナはちゃんと毎日溜めますからね」
「うん」
「ヒマリちゃんも、ご自分のマナを忘れずに」
「うん、わすれない」
ルミアがヒマリの頬にそっと、片手を添えた。
強くは触れなかった。
「……それから」
「うん?」
「旅の間、たくさんのものを見て、たくさんのことを感じて、たくさんの人と会ってください」
「うん」
「三年後、帰ったときにご両親に捧げる土産話をたくさん見つけてきてくださいね」
ヒマリが少しの間ルミアを見ていた。それからはっきりと頷いた。
「うん。みつけるよ」
「ええ」
「お父さんと、お母さんだけじゃなくてね、ルミアさんにも、ヴィラさんにもたくさんお話するね」
「ええ」
ルミアの目がほんの少しだけ潤んだ。けれど、ルミアはそれをこぼさなかった。
ただ、ヒマリの頬を撫でていた手をゆっくりと離した。
「……行ってらっしゃい」
「いってきます」
アーシュがルミアに向き直った。
「世話になった」
「いいえ」
「……お前のマナをちゃんと受け取りに来る」
「ええ、お待ちしております」
「無理はするな」
「……お互いさまですわよ」
ルミアが少しだけ笑った。
「アーシュさん」
「何だ」
「五年前は、何も言わずに消えてしまわれましたね」
「……ああ」
「今度はちゃんと戻ってきてくださいね」
アーシュが、ルミアを、見た。
ヴィラが昨日言った言葉。同じことを、ルミアが口にしていた。
まっすぐにアーシュに向けて。
アーシュはごく短く、
「ああ」
と、言った。
それは昨日ヴィラの言葉に返した「ああ」よりも、ほんの少しだけしっかりした声だった。
*
二人が神殿の門をくぐって街道へと続く道を歩き始めた。
石畳の道をしばらく行ったところでヒマリが振り返った。
ルミアとヴィラがまだ広場に立っていた。
ルミアが片手を上げた。
少し遅れて、ヴィラも片手を上げる。
ヒマリは両手をぶんぶんと振り返した。
それから、もう一度前を向いて歩き出した。
「……アーシュ」
「何だ」
「いってきます、って、いうのね、ちょっとだけ、さみしい」
「そうだな」
「でもね、いってきます、って、また会えるね、っていう意味だから、なんかいいよね」
「……そうだな」
ヒマリはもう、振り返らなかった。
*
ルミナスを抜けるまでには半時ほどかかった。
石畳の通りにはもう人通りがあった。荷車を引いた商人、朝の市場へ向かう女たち、神殿への巡礼者。誰もがそれぞれの一日を始めようとしていた。
ヒマリはその中を、アーシュの隣を、歩いていた。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「グラド・ヴァルカン、って、どっちにあるの?」
「北西だ」
「ほくせい……北の西?」
「ああ。ここからしばらく西へ向かい、それから、北へ折れる」
「どれくらいかかるの?」
「のんびり行けばふた月といったところだろう」
「ふたつき」
ヒマリが少しの間その響きを口の中で転がしていた。
「……長いね」
「そうか?」
「うん」
「だが三年に比べれば短いだろう」
「あ、そっか」
ヒマリが少しだけ口元を緩めた。
「……アーシュって、ときどき、すごく、ずるいこと、いうよね」
「そうか」
「うん、ずるい」
ヒマリが、くすりと、笑った。
*
街の門を抜けた。
神殿の街は丘の上に建っている。だから門を出てしばらく行くとなだらかな下り坂になり、街道の先には広い平原が広がっていた。
その平原の向こうずっと遠くに、低く連なる山並みが見えた。
「……あの山の向こうが、グラド・ヴァルカン?」
「いや、もっと先だ。あの山は、まだ序の口だな」
「先のさき」
「ああ」
ヒマリが伸びをするように空を見上げた。
朝の空に雲がいくつかゆっくりと流れていく。
「……ねえ」
「何だ」
「グラド・ヴァルカンに、ついたらね」
「ああ」
「砂漠、見られる?」
「ああ、見られる」
「夜にね、星がいっぱい、見える?」
「……トバスがそう言っていたな」
「うん。空一面に宝石みたいに、ちりばめられてるんだって」
ヒマリが空を見上げたまま言った。
「アーシュとね、いっしょに、見るんだよ」
「ああ」
「約束、したもんね」
「ああ、約束した」
二人はしばらく何も言わずに歩いた。
街道を踏みしめる音が二つ重なっていた。歩幅が、いつの間にかほとんど同じになっていた。
*
しばらく行ったところでヒマリがふと足を止めた。
「どうした」
「……ううん」
ヒマリが振り返った。
神殿の街の白い尖塔が、朝の光の中遠くに小さく見えていた。あの場所にルミアがいる。これから三年、毎日マナを溜めてくれる人がいる。
ヒマリはしばらくその尖塔を見ていた。それからぽつりと、
「……ルミアさん、げんきでね」
と、言った。
届くわけがない距離だった。それでも言いたかった。
アーシュが隣でそれを聞いていた。何も言わなかった。
ヒマリがもう一度前を向いた。
「……いこう、アーシュ」
「ああ」
二人はまた歩き出した。
*
街道はなだらかな坂を下って広い平原へと続いていた。
風が、吹いた。
草が、揺れた。
遠くで、鳥が、鳴いていた。
アーシュは隣を歩く小さな影を見るともなしに見ていた。
黒い髪が風に揺れる。青い髪紐がその中でちらりと光る。歩幅はまだ自分の半分にも満たない。けれど、ちゃんとついてきている。それどころか、時々自分の方が少しだけ合わせてもらっている気さえする。
あの夜が来るまで——
アーシュは東の魔の森の奥で一人焚き火を眺めていた。
炎がぱちりと音を立てる。それを、相槌のように聞いていた。語るべき相手はいなかった。けれど、それはそれで悪くはないと思っていた。
だが今は違う。
隣にヒマリがいた。歩幅を合わせて空を見上げて、ときどき何でもない一言を放ってくる。
「ねえ、アーシュ」
ほら、また。
「何だ」
「お腹、すいてきた」
「……まだ、出発して、一時間も、経っていないが」
「だってね、朝ごはん、はやかったもん」
「……そうか」
アーシュが軽く息を吐いた。
それから、背嚢の中からミレットがバウレン村で持たせてくれたのと同じような、小さな焼き菓子をひとつ取り出した。ルミナスで買い足した新しい菓子だった。
ヒマリの手のひらにそっと置いた。
「……いいの?」
「歩きながら食え。落とすなよ」
「うん」
ヒマリが両手でそれを受け取った。一口齧り、目を細めた。
「……おいしい」
「そうか」
「アーシュも、たべる?」
「俺は、いい」
「半分こしようよ」
「……お前が、食え」
「半分こ、半分こ」
ヒマリが菓子を半分に割って、片方をアーシュに差し出した。
アーシュはしばらく、それを見ていたが、じっと見つめるヒマリに負けて受け取った。
「……甘い、な」
短くそれだけ言った。
二人は菓子を食べながら歩いた。
街道はまだまだ長く続いている。
この先に砂漠があり、星空があり、三年の時があって、転移の日がある。そして――おそらくはその先にもまだ何かが続いている。
アーシュにはそれが何かはまだ分からなかった。
分からなくても構わなかった。
今はただ歩いている。
隣から小さな足音が聞こえる。
それで、十分だった。
一章はここまでです。ご愛読ありがとうございました。
続いて二章が始まりますが、変わらず楽しんでいただけると幸いです。
※挿絵はちゃっぴに書いてもらいました。




