第三十九話 柔軟な思考で
ヒマリがもう一度、本を覗き込んだ。それからしばらく図を見ていた。
円の中の文様。座標を入れる場所。その周囲を取り囲む断裂を開くための術式。図そのものは、複雑だったが、流れは、追えた。
ヒマリは、ふと昨日のルミアの言葉を思い出した。
『あちらにも、こちらにも、ヒマリちゃんにとって大切なものがある。だから、どちらを選ぶのかを決めるのは、ヒマリちゃん、あなたです』
アーシュとの暮らしを思えば、日本への未練は捨てても良いのかもしれない。
けれど、両親と過ごした幸せな日々は、あの日突然終わってしまった。
最後のお別れすら、できないままだった。
(お父さんと、お母さんに、ちゃんとばいばいって言いたい。でも、アーシュとお別れするのは絶対に嫌だ)
どちらかを選ばなければならない、そう思っていた。
けれど今、目の前の図を見ていると――
ヒマリが、ぽつりと、言った。
「……ねえ」
「はい?」
「これね、こっちから、向こうに、行く術、だよね」
「ええ」
「向こうに、いって、わたしが居たとこのどこかに、おりるんだよね」
「ええ、そのはずです」
ヒマリが首をちょっと傾げた。
「……じゃあ、向こうで陣を書いてね、おなじこと、すれば……」
ヒマリが図の座標を入れる円を指でなぞった。
「ここに、こっちのものを、置いて」
「……」
「断裂を、開く陣を、うごかせばね」
「……」
「こっちに、戻ってこれるんじゃ、ないかな」
書庫がしん、と静まった。
ルミアがゆっくりと瞬きをした。
ヴィラが頭の後ろの手を、下ろした。
アーシュがヒマリを見ていた。
ヒマリはその三人の様子に気づかず、本に視線を落としたまま続けた。
「……うん、たぶん、できるよ」
「ん?」
「なんか、わかるの。ここがね、こうで、こうなってる、から、ぎゃくに、向こうで、こうやれば……うん、できる」
ヒマリが図のいくつかの線を指でなぞっていた。
「賢者のスキルがね、できるよ、って、いってる、きがする」
ヒマリが、顔を、上げた。
「ルミアさん。わたし、どっちかだけはやだ。どっちも、どっちも選びたい……だめ?」
ルミアがしばらくヒマリを見ていた。
ヴィラも、見ていた。
アーシュは本に目を落としたまま何かを考えている顔だった。
しばらくして、ルミアが息を吐いた。
「まさか……両方叶える方法をみつけるだなんて。ヒマリちゃん。それは先代賢者様も思いつかなかったお考えです」
ヒマリがきょとんとした。
「……そう、なの?」
「ええ。先代賢者様はこれを『迷い込んだ者を、帰す』ための術として設計なさいました。行って戻るという発想が浮かんだのなら、賢者様だってそうなさったはず……」
ヴィラが横からぼそりと言った。
「ああ、またこっちに戻れるんなら、喜んで使っただろうよ」
アーシュがようやく顔を上げた。
「行きと帰りで目的地は別。ならば術者一人につき一度限りという制約にも触れない……可能だな」
「なんてこと……」
ルミアが小さく呟いた。
「これなら、一度限りとはいえ、往復できますわ。賢者スキルは所持者の意志に従い叡智を授ける……もしも、過去の賢者様がヒマリちゃんと同じ考えに至っていたら……」
「……そうかもな」
ルミアは一度だけ目を伏せた。けれどすぐに顔を上げ、ヒマリへ向き直った。
「……ヒマリちゃん」
「うん?」
「あなたは、過去の賢者様が出来なかったことをしようとしています」
ヒマリがぱちぱちと、まばたきをした。
「うん……」
「ですが、それをするならば、帰りの分のマナも必要になりますわ」
ヴィラが少し唸った。
「片道で三年だぞ?」
「ええ」
「……往復分だと六年かかるってことかよ?」
「単純に二倍になるとは限りませんが、それに近い期間の充填が必要でしょうね」
ヒマリがちょっと顔をしかめた。
「……そんなに」
ルミアが考え込んだ。
「私がかかりきりで注げれば、もっと早く済むのですが……」
「ねえ、ルミアさん」
「はい?」
ヒマリが首を傾げた。
「マナをね、ためる、どうぐは、もう、ないの?」
ルミアが、瞬きをした。
「……いくつかあったはずです。あれは様々な用途で使うものですから」
「じゃあ」
ヒマリが机の上で両手をぎゅっと、握った。
「わたしも、ためる!」
三人がヒマリを見た。
「わたし、自分のマナをね、ためたい。ルミアさんが行きの分をためてくれるなら、わたしは、戻りの分をためるよ。それなら三年で、行けるよね!」
ヒマリが勢いよくそう言った。
ルミアが目を見開いて、それから少しだけ笑った。
「……それは、確かにいいかもしれませんね」
「そうだよな、何も一人でやるこたねえんだ……俺は無くしちまうから無理だけどよ」
ルミアが呆れたようにヴィラを見て、アーシュがため息をついてヒマリが小さく笑った。
「わたしにも、できるよね?」
「ええ。ヒマリちゃんのマナは、量も質も素晴らしいものです。三年コツコツと貯めれば十分な量になるでしょう」
アーシュが軽く頷いた。
「お前のマナなら可能だな。むしろ、貯めることそのものがいい訓練になる」
「ほんとう?」
「ああ」
ヒマリの目が輝いた。
「やったあ。じゃあ、わたしもためる」
「ええ。魔導具をお貸しします。旅の間毎日少しずつ貯めていってくださいね」
「うん!」
ヒマリがしっかりと頷いた。
ルミアが息を吐いた。
「……役割が決まりましたわね」
「ああ」
「行きのマナは私が神殿で貯める」
「うん」
「戻りのマナはヒマリちゃんが旅の中で、貯める」
「うん」
ヴィラが頭の後ろで手を組んだ。
「すげえな、おい。賢者様が諦めちまった事をよ、ちっちぇーヒマリがぽろっと解決しやがった」
「先代賢者様は覚悟を決めていた。だからこそ、それ以外の道を考えられなかったのでしょうね……」
ヒマリが、また本を覗き込んだ。それから座標を入れる円のところを指でなぞった。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「わたし……三年後くらいに、日本に帰れるんだよね」
ヒマリの声が、不安げに震えていた。
アーシュはヒマリの顔をみた。
その表情は、どこか、巣立ちを怖がる雛鳥のように見えた。
(いつか巣立つ時は来るだろう。だが、今はまだその時ではない)
「お前一人で、向こうに送り出すのは、心配だ」
「……うん」
「向こうで何処に出るのか、はっきり分からない。護衛が必要だろう」
「ごえい?」
「ああ。お前を守る役だ」
ヒマリの目がまるく見開かれた。
「……一緒に、行ってくれるの?」
「ああ、行こう」
「やったあ」
ヒマリがふわりと笑った。
「転移できるのは一人だけではありませんの?」
「両方を術者として指定すればいけるようだ」
「では、お二人で向こうへ行くということでよろしいですね」
「ああ」
話の骨組みが一本きれいに通った。
ヴィラが椅子の背もたれから身を起こした。
少しの間何か考えているような顔をしていた。
それから、アーシュの方に顔を向けた。
「おいアーシュ」
「なんだ」
ヴィラが、少しぶっきらぼうな調子で言った。
「行くのはいいけどよ、ちゃんと帰ってこいよな」
アーシュが眉間に皺を寄せた。
「……当たり前だ」
「ああ、絶対だぞ」
「くどい」
ヴィラが、ふんと鼻を鳴らした。それから視線をほんの少しだけずらした。
ルミアが口角を上げ、静かにその様子を見ていた。
ヒマリが本に視線を戻した。細い指で"三年"と書かれた文字を、もう一度なぞった。
それから顔を上げてアーシュを見た。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「三年って、ながいかな?」
「人にもよるがヒマリにとっては長く感じるだろう」
「……そっか」
ヒマリが少し考え込んだ。それからもう一度アーシュを見た。
「……ねえ」
「どうした」
「三年あるならね、わたし、その間に、ちゃんと、力を、つけたい」
アーシュが、瞬きを、した。
「……力、か」
「うん。今ね、わたし、みんなに、助けてもらってるの」
「……ああ」
「アーシュにね、守ってもらってる。ルミアさんにもね、三年、マナ貯めてもらう。ヴィラさんもね、たまに会いに来てくれるって」
ヒマリが膝の上で手を握った。
「うれしいの。すごく、うれしい。でもね、なんか、ちょっとだけ、くやしいの」
「悔しい?」
「うん。わたしね、もらってばかりだから」
アーシュは静かに聞いていた。
「だからね、三年あるなら、わたし、自分の魔法を、もっとちゃんと、使えるようになりたい。
それにね、この術もね、使うのは、わたしなんだから、わたしが、ちゃんと、使えるように、ならなきゃって」
ヒマリがアーシュを真っ直ぐ見た。
「ちゃんと、自分で、術を使って、行って、自分で、戻ってきたい」
アーシュがしばらくヒマリを見ていた。それからごく短く、
「……そうか」
と、言った。
それだけだった。けれどヒマリにはそれで十分だった。ヒマリが少しだけ頬をほころばせた。
アーシュが続けた。
「……鍛えるか」
「うん」
「今までより少し厳しくするぞ」
「……うん、おねがいします」
ヒマリがぺこりと頭を下げた。
*
禁書庫を出た。
扉の向こうに戻った瞬間、廊下の光が妙に明るく感じられた。書庫の中のあの乾いた静けさがほんの少しだけ名残として服の端についてきているようだった。
ヒマリが廊下を歩きながらぽつりと言った。
「……ねえ、アーシュ」
「何だ」
「三年って、ね」
「ああ」
「長いかもって思ったけど……やっぱり、あっという間、だと思う」
「……そうか」
「だってね、毎日、やること、たくさん、できたもん」
ヒマリがアーシュを見上げた。目が少しだけ輝いていた。
アーシュはその目を、見ていた。
「……ああ、そうだな」
アーシュはそう、短く答えた。
廊下の奥から柔らかい光が射してきていた。
外はまだ、午前の早い時間だった。




