第三十八話 三年という時間
部屋の中が静かだった。
アーシュは机の上の本を見ていた。
ヴィラは頭の後ろに両手を組んでいた。
ルミアは目を閉じていた。
「……先代賢者様」
ルミアが静かに口を開いた。
「もしも誰かが誤ってこの世界に落ちてきた時、家に帰る方法だけは残し、自分と同じように選択する事が出来るようにしたい、そうお考えになられたのかもしれませんわね……」
「……そういうことだろうな」
ルミアがゆっくりと目を開けた。
「その思いは無駄ではなかった」
アーシュが軽く頷いた。
ヒマリはその横で本の表紙をそっと、撫でていた。
「……では、術式の確認をしましょうか」
ルミアが声を整えた。
「つぎのページだね」
「ヒマリちゃんを日本に帰すための術……さっそく見ていきましょう」
ヒマリが、こくりと、頷いた。
ヒマリがページをめくった。中ほどに一際大きな図が描かれているページにたどり着いた。円の中に幾つもの文様が重なって描かれ、その周囲にびっしりと、日本語の注釈が書き込まれていた。
「えっとね、魔法に使う陣はね、二つに、わかれてるんだって」
「ええ」
「一つ。断裂を、開く陣。二つ。ざ……なに?」
「座標、行き先のことだ」
「……座標を決める陣。ここには、帰るべき世界の物を、置く。それが、行き先の、しるしとなる。ペンでも靴下でもなんでもいい。それが鍵になる。術が安定するのは一人につき一度限り。二度目以降、術者が同じ座標に飛べる保証はない』」
ヒマリが、顔を上げた。
「……向こうの世界のもの?」
「日本から持ってきたものなら、何でもいい、ということだろう」
(座標の問題は危惧していたが、まさかこんなことで解決できるとはな……)
アーシュがちらりとヒマリを見た。
ヒマリは、なにかもってたかなと首を傾げ、アーシュを見た。それから、何かを思い出したような顔をして自分の次元収納にそっと手を入れた。
淡い光が、揺らいだ。
ヒマリが引き出したのは、きれいに畳まれた紺色のジャージだった。
森の中でアーシュに保護された時に着ていた服。半年近く着倒してすっかりくたびれた、あのジャージだった。
「……これ、つかえる、よね」
「ああ、これ以上ない目印になるだろう。ジャージを置けば間違いなく、行き先はヒマリのいた場所になるだろう。実質一度限りのようだが……問題はないだろうな」
「そっか……よかった。たいせつにとっておいて」
ヒマリはジャージを膝の上でそっと撫でた。
それからまた本に目を戻した。
「それとね。術を、開くにはね、たくさんのマナがいるんだって」
「ああ」
「えっと……『術は、規模が大きく術者一人のマナでは足りない。……なんとかの、まどう、ぐ……?」
「充填の魔導具、だな。バッテリーみたいなものだと思え」
「じゅうてんの、魔導具。『容量が大きい充填の魔導具を用意し、そこに長期間、マナを蓄積する必要がある。』」
ヒマリが、アーシュを見上げた。
「ねえ、アーシュ」
「何だ」
「『長期間』って、どれくらい?」
「……本に、具体的な時間が、書いてあるか」
ヒマリがまたページをめくった。それから、しばらく文字を追った。
「……一般的な術者で五年、マナが多いもので三年、って書いてある」
室内の空気が、わずかに動いた。
三年から五年。
ヒマリはぽかんと口を開けた。
アーシュは短く息を吐いた。
ヴィラはぼりぼりと首の後ろを掻いた。
「……長ぇな」
それがヴィラの、まず出た言葉だった。
「三年って、おめえ……」
「なかなかですね……」
「俺なら絶対無理だわ」
「……無理? 貴方もかなりのマナ量のはずですが?」
「貯めるのはいいよ? お前も知ってる通り、マナ結構あるからな。でもよ、俺だぜ? 持ち歩いている内にぜってえ無くするわ」
「ふふ……確かに。ヴィラにだけは頼めませんわね」
ルミアが顔を上げた。先ほどまでの迷いはもう消えていた。
「アーシュさん、ヒマリちゃん」
ルミアが穏やかに、けれどしっかりとした声で言った。
「そのお役目、私にお任せください」
アーシュが一度口を開こうとして止めた。
「マナの充填は、毎晩コツコツやれば十分可能です。神殿長の仕事をしながら十分にこなせます」
「……いいのか?」
「はい。だってこれは……」
ルミアが少しだけ視線を下に落とした。
「……私の役目だと思うのです」
アーシュは、それ以上は何も言わなかった。
ルミアが少しだけ顔を上げた。
「それに、ヒマリちゃんが三年後に出立する時、私のマナが共にあるというのは、なんだか素敵なことだと思ったんです」
ヒマリがぱちぱちとまばたきをした。それから、ゆっくりとルミアを見返した。
「ルミアさん、わたしのために、三年、がんばってくれるの?」
「ええ、そういうことになりますね」
「……うれしい」
ヒマリが少しうつむいた。悲しかったからではない。嬉しさを、どんな顔で受け取ればいいのか、まだ慣れていなかったからだ。
ルミアの口元が、ごくわずかに緩んだ。




